第20章 テレビ局という迷路
1
LUMINA HOMEの扉が開いてから、二ヶ月が過ぎた。会員数は、発足初月の予測を大きく上回った後も、緩やかに増え続けていた。私は以前のように、一時間ごとに運営画面を更新してはいない。
会員数を確認するのは月に一度。退会者の数だけを切り取って判断せず、入会した人、離れた人、また戻ってきた人の変化を、運営担当者とともに確認することにしていた。
三人も、数字だけを見て一喜一憂しなくなった。最初の頃は、更新した音声や動画にどれほど反応が届いたのか気にしていた。
だが、反応数は非表示にしているため、誰の投稿が一番人気なのかを比べることはできない。代わりに、運営スタッフが確認したメッセージの中から、三人に届けても問題のないものだけが、毎週一つのファイルにまとめられていた。
仕事で失敗した日に、三人の音声を聞いて救われました。子どもが寝た後、一人で日記を読んでいます。動画の中で振付を間違えて笑っている三人を見て、自分も失敗していいと思えました。
遠くに住んでいるためライブには行けませんが、ここなら同じ時間を過ごせる気がします。三人は、その言葉を一通ずつ読んだ。すべてに返事をすることはできない。
それでも、誰かの生活の中に自分たちの声が届いていることを、以前より具体的に感じられるようになっていた。更新内容も、最初に決めたとおり、完成したものだけにはしなかった。
ユイが振付を途中で忘れ、三人で笑っている短い動画。ハルカが歌詞の一節について、まだ答えが見つかっていないと話す音声。リナが一人で踊った後、「今日は思うように身体が動かなかった」と書いた日記。
調子のよい日だけを選ばず、その時の自分たちが届けたいと思ったものを載せた。更新できない週もあった。そんな時は、三人のうち誰か一人が、短い文章を載せた。
今週は、少し静かに過ごしています。来週、話したくなったら、またここへ来ます。待っていてくださいではなく、また来ますとだけ書いた。
それでも、退会者が急に増えることはなかった。三人が休むことを責める声も届かなかった。LUMINA HOMEは、少しずつ、三人とファンの双方にとって名前どおりの場所になり始めていた。
三人は、月に二度、小規模な歌の場も開くようになっていた。最初は三十人。次は五十人。その次は、七十人。
人数を増やすこと自体を目標にはしなかった。ユイが客席を見ても呼吸を乱さずにいられるか。ハルカが、ユイだけでなく自分の疲労も言葉にできるか。
リナが、最後まで踊れる状態でも、予定した時間に練習を終えられるか。一つずつ確かめた。榊原との面談も続いている。三人で受ける時間。
私を含めた四人で話す時間。それぞれが個別に話す時間。最初の頃、私は個別面談の前になると、話すべき内容をノートへ整理していた。
だが榊原から、「ここは報告書を提出する場所ではありません」と言われ、ノートを持ち込むことをやめた。何を話すのか決めずに部屋へ入る。沈黙が続いても、無理に埋めない。
それは私にとって、契約交渉より難しい時間だった。それでも、少しずつ、自分の不安を言葉にできるようになった。LUMINAの数字が下がることが怖い。
高橋から能力がないと判断されることが怖い。三人に必要とされなくなることが怖い。一人になった時、自分に何が残るのか分からない。言葉にしても、何も解決しない。
だが、解決しないまま誰かに聞いてもらうことで、焦りの正体を見失わずに済むことを知った。十一月に入ったある日、ネクストウェーブ本社で定例の打ち合わせが行われた。
高橋は、会議の終わりに一枚の企画書をテーブルに置いた。表紙には、見慣れたテレビ局のロゴが入っていた。
「全国ネットの音楽番組から、出演依頼が来ている」
大類が、隣で息を呑んだ。
「全国ネット?」
「毎週金曜日、夜九時から生放送されている『MUSIC FRONTIER』だ」
その番組名を知らない人は、ほとんどいなかった。国内を代表するアーティストから、話題になったばかりの新人まで出演する音楽番組。生放送で行われ、放送後には歌唱部分が公式動画として公開される。
LUMINAは以前、情報番組の短い特集で紹介されたことがある。ライブ映像やインタビューを編集した、五分ほどのVTRだった。
だが、三人がテレビ局のスタジオへ入り、全国の視聴者の前で歌ったことはない。高橋が企画書を開いた。
「出演日は、三週間後。LUMINAに与えられる時間は、トークが二分、歌唱が二分十五秒。歌うのは『真夏のミッドナイト・ブルー』だ」
「二分十五秒?」
大類が聞き返す。
「原曲は四分近くありますよね」
「テレビ用に編集する。イントロを半分にし、一番の後、間奏を飛ばして最後のサビへ入る」
私は企画書へ目を通した。出演者は六組。LUMINAのほかには、デビュー二十周年を迎える人気バンド、海外公演を成功させた女性ソロ歌手、ドラマ主題歌が話題の男性グループなど、知名度の高い名前が並んでいた。
「番組側がLUMINAへ求めているのは、休養からの復帰ですか」
私は尋ねた。
「表向きは、急成長中の三人組として紹介する」
「表向きは?」
「制作側には、炎上後、初の全国放送出演という関心もある。台本案には、活動を止めていた期間について尋ねる質問が含まれている」
高橋が別紙を差し出した。司会者からの質問案。最近、少しお休みされていましたが、今のお気持ちはいかがですか。ファンの皆さんへ伝えたいことはありますか。
直接、流出した写真へ触れるものではない。それでもユイにとっては、あの出来事を思い出させる質問になる可能性がある。あの夜以来、私は流出の経路について、契約している調査会社に依頼し、ひそかに調べを進めていた。
数ヶ月前、最終報告が届いている。画像の最初の投稿元を辿っても、コウジ本人が投稿したという直接の証拠は見つからなかった。ただし、投稿の直前、コウジが該当の画像を含むフォルダを複数の相手へ送っていた記録が残っていた。
本人への追及や法的措置を取るには、材料として不十分だった。それでも、二度と同じことが起きないよう、当時の関係者への注意喚起と、画像管理体制の見直しは済ませてある。
犯人を確定させることはできなかった。それでも、うやむやにはしなかった。それだけは、ユイたちに約束できることだった。
「この質問は外してください」
私は言った。
「番組側は、復帰という物語があるから出演させたいと考えている」
「三人の回復を、番組の感動材料にはさせません」
「質問をすべて外せば、出演枠そのものが短くなる可能性がある」
「構いません。歌唱だけでも十分です」
大類が、慌てたように私の腕を引いた。
「待て、青木。全国ネットだぞ。二分のトークがあるかないかで、視聴者の印象は全然違う。炎上そのものを聞かれるわけじゃないなら、少しくらい――」
「大類社長」
高橋が低い声で遮った。大類の手が止まる。
「決めるのは、ここにいない三人だ」
私は高橋を見た。以前の彼なら、出演によって得られる数字を先に示したかもしれない。今は、私より先に三人の意思を口にした。
「はい」
私は企画書を閉じた。
「今日、持ち帰ります」
「出演を断る可能性もあるということか」
「もちろんです」
高橋は腕を組み、私を見つめた。
「君自身は、どう思っている」
私はすぐには答えなかった。テレビへ出演させたい。全国の視聴者へ三人の姿を届けたい。LUMINA HOMEの外にも、新しいファンを増やしたい。
話題が落ち着いている今、再び名前を広げる大きな機会になる。その思いは、はっきりとあった。以前なら、受けるべき理由を並べ、三人が断りにくい形で説明しただろう。
「出演してほしいと思っています」
私は正直に答えた。
「ただし、それは私の希望です。三人が受ける理由にはしません」
高橋が小さく頷いた。
「番組側には、返答を三日待たせる」
「ありがとうございます」
「トークの質問についても、削除を前提に再協議する。だが、歌唱は生放送だ。途中で止めることは、これまでの小規模な場ほど簡単ではない」
「承知しています」
「一度電波に乗れば、やり直しはできない」
その言葉の重さを、私は理解していた。数十人の前で歌うのとは違う。放送を見ている人数は、数百万人に及ぶ可能性がある。映像は切り取られ、SNSに投稿される。
一瞬の表情も、歌い損ねた音も、何度も再生されるかもしれない。
「だからこそ、四人で決めます」
私は企画書を鞄へ入れた。会議室を出る前、高橋が私を呼び止めた。
「青木君」
「はい」
「三人が出演したいと言った場合、君は止められるか」
「危険だと判断すれば止めます」
「本人たちが、責任を取ると言っても?」
「身体と心に関する安全を、本人の意思だけで判断しないと決めています。榊原先生や医師、トレーナーの意見も聞きます」
「では、全員が問題ないと判断した場合は?」
私は少し考えた。
「その時は、私が怖くても送り出します」
高橋は、眼鏡の奥から私を見つめた。
「君自身が怖いのか」
「はい」
「失敗することが?」
「失敗した時、三人が傷つくことがです」
「傷つかない方法などない」
高橋は静かに言った。
「世間へ出れば、好意だけでなく、批判も届く。成功しても傷つくことはある。失敗を避け続ければ、挑戦する機会そのものを失う」
「分かっています」
「守ることと、閉じ込めることを間違えるな」
胸に刺さる言葉だった。私は以前、三人を急がせて傷つけた。その反省が強すぎれば、今度は危険を恐れ、三人の挑戦を止め続けるかもしれない。
進ませることも、止めることも、一人では決めない。私はもう一度、その意味を自分に刻んだ。
「覚えておきます」
高橋へ頭を下げ、会議室を出た。廊下へ出ると、エレベーターホールの前に男が一人立っていた。黒に近い紺のスーツ。薄い鞄。半年も会っていないのに、その立ち方だけで誰か分かった。六本木の会議室で、資料をペン先で叩きながら私を侮蔑の目で見た男だ。
「青木さん」
佐藤弁護士が、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
「……佐藤先生」
「先生はやめてください。今日は法務としてではなく、権利処理の担当として来ました」
彼は鞄から一枚の書類を出した。テレビ番組で使用する楽曲の、放送・配信・二次利用に関する許諾申請だった。
「番組側から、放送後の見逃し配信と、公式SNSでの切り抜き投稿の許諾申請が来ています。楽曲は『帰る場所の灯り』。原盤はすべて弊社です。形式的な手続きですので、こちらで進めます」
「ええ」
「一点だけ、確認をお願いします」
佐藤は、書類の下の欄を指した。
「切り抜き投稿の権利者表記です。ここは『ネクストウェーブ・ミュージック』のみになります。スターライトエージェンシーの名前は入りません」
「原盤権が御社にあるからですね」
「はい」
当たり前のことだった。あの夏、六本木の会議室で、私自身が同意した内容だ。それなのに、その一行を目で追ったとき、廊下の空気が少しだけ薄くなったような気がした。
「佐藤さん」
「はい」
「あの時の、買い戻しオプションは生きていますか」
佐藤は、一度だけ瞬きをした。
「生きています。包括契約書第十五条の三、バイアウト条項。契約満了後、あるいは解除後、過去三年の平均営業利益の三倍に相当する対価を支払うことで、アーティスト側が原盤権を百パーセント買い戻すことができる」
彼は、一字も間違えずにそらんじた。自分が敗けた条文を、この男は一字残らず覚えている。
「今、行使するといくらになりますか」
「今は行使できません。契約満了後、または解除後にのみ有効な条項です。包括契約の残存期間は、あと四年半あります」
「仮の話です」
佐藤は、少しのあいだ黙った。それから、鞄から薄い電卓を出した。使うつもりだったのだと、そのときに分かった。
「直近三年の、スターライトエージェンシーの平均営業利益は、約千五百万円です。三倍で、四千五百万円」
四千五百万。払える額だった。今すぐではないにせよ、数年かければ届く。私は思わず、息を吐いた。
「今なら払えます」
佐藤が言った。私が考えたことを、先に言葉にされた。
「ええ」
「ですが、行使できるのは、その四年半が終わったあとです」
その一文の意味が、頭の中で像を結ぶまでに、数秒かかった。
「青木さん。この条項の対価は、行使する時点での、直近三年の平均営業利益で算定されます。契約時点でも、今日でもありません」
廊下の照明が、やけに白く感じられた。
「四年半後、LUMINAの営業利益がどうなっているかは、私には分かりません。ですが、今日この会議室で全国放送の企画が通ったことは知っています」
「……佐藤さん」
「もう一点」
彼は書類をめくった。
「条文に『アーティスト側の営業利益』とだけ書かれています。誰の営業利益かが、定義されていません」
私の指先が、冷たくなった。
「弊社は、スターライトエージェンシーの営業利益全体と解釈しています。物販も、ファンクラブ会費も、広告出演料も、すべて母数に含まれます」
「私は、その音源が生む利益のつもりで書きました」
「そう読める文言ではありません」
佐藤は、責めなかった。責めるつもりがないことが、かえって残酷だった。
「あの日、あの場でその区別を主張していれば、通っていた可能性はあります。ですが、あの時点の営業利益は、どちらの解釈でもほぼゼロでした。だから誰も争わなかった」
だから、誰も争わなかった。私も。
「なぜ、今それを話すんですか」
「今日、切り抜き投稿の許諾申請が来たからです」
佐藤は書類を鞄へ戻した。
「これから、こういう申請が増えます。増えるたびに、私は同じ説明をしに来ます。その時になって初めて条文を読み返されるより、今のほうがいいと判断しました」
エレベーターが到着音を鳴らした。彼はそちらへ一歩踏み出し、それから振り返った。
「青木さん。あの日、あなたは私に勝ちました。それは間違いありません」
「……」
「勝った条文の意味が、数年で変わることがある。それだけの話です」
扉が閉じた。私は、誰もいない廊下に立っていた。会議室の中では、高橋がまだ企画書を整えている。楽屋では、三人が全国放送の話を聞いて笑っているはずだった。
私は、鞄からスマートフォンを出し、そして、何もしないまま鞄へ戻した。
2
三人へ企画書を見せる前に、私たちは夕食を取った。事務所近くの小さな洋食店だった。ハルカはオムライス。ユイはクリームパスタ。
リナはハンバーグ。私は魚料理を選んだ。
「今日は仕事の話ですよね」
料理が運ばれてくる前、ユイが尋ねた。
「食べ終わってから話すわ」
「大きな仕事ですか」
「先に聞く?」
「でも、ご飯の前に聞いたら、食べられなくなるかもしれない」
「では、後にしましょう」
「気になる……」
ユイは悩んでいたが、ハルカから「今は食べよう」と言われ、ようやくメニューの話へ戻った。食事中、私は企画書の入った鞄に触れなかった。三人も、途中から仕事の話を忘れたように笑っていた。
ユイが、LUMINA HOMEに投稿する次の日記の内容を相談する。ハルカは、最近買った小さな観葉植物の葉が黄色くなったと話す。リナが「水のやりすぎじゃない」と言い、私とハルカが同時に黙った。
「青木さんも、枯らしかけたんでしたよね」
ユイが笑う。
「枯らしてはいません」
「受け皿から水があふれたんでしょ」
「水の量を少し間違えただけです」
「少し?」
「今は元気です」
「植物も、青木さんに管理されると大変そう」
リナが言った。
「最近は水やりの日を、鉢の土を確認して決めています」
「予定表を作るの、やめたんですか」
ハルカが驚く。
「植物の状態を見ずに、決めた日だけ水をやるのは間違いだと学びました」
三人が顔を見合わせ、笑い出した。
「私たちと同じだ」
ユイが言う。
「人間を植物と一緒にしないで」
私も笑った。料理を食べ終え、飲み物が運ばれてから、企画書をテーブルに置いた。番組名を見た瞬間、三人の表情が変わった。
「えっ」
ユイの声が漏れる。
「これ、本物ですか」
「本物よ」
「私たちが出るんですか」
「まだ決まっていない。出演依頼が来ているだけ」
ハルカが企画書を手に取り、リナと一緒に内容を読む。ユイは少し離れた場所から表紙を見つめていた。
「生放送……」
「そうよ」
「収録じゃないんですか」
「本番と同時に全国へ流れる」
ユイの手が、膝の上で強く握られた。私はそれ以上、説明を続けなかった。まず、三人が何を感じているのかを待った。
「青木さんは、出てほしいですか」
リナが尋ねた。来ると思っていた質問だった。
「出てほしいと思っている」
三人が私を見る。
「全国の人に、今のLUMINAを知ってもらえる。小さな会場へ来られない人にも、三人の歌を届けられる。活動を続ける上でも、大きな意味があると思う」
私は一度言葉を切った。
「でも、私が出演してほしいと思っていることと、三人が出演するかどうかは別の話よ」
「出なかったら、次はないかもしれないですよね」
ハルカが尋ねる。
「同じ番組から、いつ声がかかるかは分からない。今回を断れば、別の人が出演する。それは事実として伝えておく」
「断ったら、青木さんはがっかりしますか」
ユイが聞いた。
「すると思う」
正直に答えた。
「ただ、その気持ちは私が引き受ける。ユイたちが、私をがっかりさせないために出演する必要はない」
ユイは俯き、しばらく考えていた。リナが企画書の歌唱部分を指した。
「二分十五秒しかない」
「テレビ用に曲を短くする」
「間奏を全部切るんですか」
「今の案ではそうなっている」
「間奏の後に、三人の動きが一度崩れて、最後のサビで揃うところが、この曲の大事な部分なのに」
リナの表情に、不満が浮かんだ。
「番組側は、原曲の意味より放送時間を優先する」
「それに合わせるのがテレビなんですか」
「そういう面はあるわ。すべての曲をフルサイズで放送することはできないから」
「ライブとは、全然違う」
「違う場所だと思って考えた方がいい」
ハルカはトークの質問案を見ていた。
「休んでいたことも聞かれるんですか」
「この質問は外すよう、交渉している。三人が、自分から話したいと言うなら別だけれど」
「話したくないです」
ユイが、はっきりと言った。
「今は、テレビで話したくない」
「分かった。質問は外してもらう」
「外せないと言われたら?」
「出演を断る条件にしてもいい」
「全国放送なのに?」
「全国放送だからこそ、何を話すかは慎重に決める必要がある」
ユイは小さく頷いた。榊原から教わった三色のカードも、テーブルに置いていた。ユイが黄色いカードへ手を伸ばす。
「少し、休んでもいいですか」
「もちろん」
企画書を閉じる。テレビ出演についての話を止め、四人で飲み物を飲んだ。ユイは店内を見回し、呼吸を整えていた。
数分後、自分から黄色いカードを裏返す。
「もう大丈夫です」
「今日は結論を出さなくてもいいのよ」
「でも、話したいです」
私は企画書を再び開いた。
「何が一番怖い?」
「カメラです」
ユイは答えた。
「雑誌の撮影はできたけど、テレビは何台もあるんですよね」
「スタジオの規模によるけれど、今回の歌唱では少なくとも五台使うと聞いている」
「どこを見ればいいんですか」
「赤いランプがついたカメラを見る。今、どのカメラの映像が放送されているのか、ランプで分かるようになっている」
「五台のランプを見ながら歌うんですか」
「基本の目線は事前に決める。すべてを自分で判断する必要はないわ」
「間違えたら?」
「別のカメラを見ても、放送事故にはならない」
「変な顔をしたら?」
「その可能性はある」
「青木さん、そこは大丈夫って言ってください」
「一瞬も変な顔をしない人はいないから」
ユイは少しだけ笑った。その笑顔によって、張りつめていた空気が緩んだ。
「ハルカは、どう思う?」
私が尋ねた。
「出たいです」
ハルカは即答した。
「怖くない?」
「怖いです。でも、地元の家族にも見てもらいたい。父が見てくれるかは分からないけど、今の私たちを、テレビで見てもらいたいです」
「リナは?」
「出たい」
「曲が短くなっても?」
「納得できる形に直します。切られたから仕方ないで終わらせたくない」
リナの目には、すでに振付を考え始めている光があった。
「ユイは?」
急かさないよう、静かに尋ねた。ユイは、閉じた企画書へ手を置いた。
「今すぐ、出るって言うのは怖いです」
「では、今日は決めないでおきましょう」
「でも、断りたくもないです」
「決めるまで三日ある」
「三日で決めないといけないんですね」
「番組側にも準備があるから、それ以上待たせるのは難しい」
ユイは考え込んだ。
「テレビ局を、先に見せてもらうことはできますか」
思いがけない提案だった。
「本番と同じスタジオは、別番組が使っているかもしれない。ただ、局内や似た規模のスタジオを見学できるかは確認できる」
「カメラとか、赤いランプを先に見たいです。何も知らないまま出るか決めるのは怖いから」
私は頷いた。
「高橋さんに相談する。見学できるなら、その後で決めましょう」
「お願いします」
店を出る前、三人の意思を確認した。ハルカとリナは出演を希望。ユイは、テレビ局を見た後に決めたい。誰も、その日のうちに結論を出すよう迫らなかった。
高橋へ電話をすると、翌日の夕方、テレビ局の見学を受け入れてもらえることになった。番組スタッフとの打ち合わせも、その場で行う。電話の最後、高橋が言った。
『以前の君なら、三人を説得していたな』
「そうかもしれません」
『今は待つのか』
「待ちます。ただ、返答期限は変わりません」
『待つことと、時間が止まることは違うからな』
「分かっています」
『ユイが断ると言ったら?』
「出演しません」
『ハルカとリナだけで出す案は』
「考えません。三人でLUMINAです」
高橋は短く息を吐いた。
『明日、私も立ち会う』
「お忙しいのでは?」
『この出演を決めたのは私だ。現場を見ずに、三人へ責任だけ負わせるつもりはない』
「ありがとうございます」
『礼は、出演が無事に終わってからにしてくれ』
電話が切れた。まだ出演は決まっていない。
それでも、巨大なテレビ局の扉は、少しずつ私たちの前で開き始めていた。
3
翌日の夕方、私たちは都内にあるテレビ局を訪れた。建物へ近づくにつれ、ユイの足取りが遅くなった。ガラス張りの巨大な入口。正面には、放送中のドラマやバラエティ番組の大きな広告が並んでいる。
一般の来場者、番組観覧へ向かう人、機材を運ぶスタッフ、警備員。多くの人が、違う方向へ絶えず行き交っていた。
「人、多いですね」
ユイが呟く。
「裏口から入ることもできるわ」
「今日は、ここから行きます」
「大丈夫?」
「怖いです。でも、今日は歌わないから」
ユイは榊原から渡された黄色いカードを、鞄の外ポケットへ入れていた。すぐ取り出せる場所にあることを確認し、入口へ向かう。受付で身分証を提示し、入館証を受け取る。
三人が首からカードを下げる。
「これだけで、テレビに出る人みたい」
ユイが小さく笑った。
「まだ見学する人です」
リナが言う。受付の先には、複数の通路が伸びていた。右へ行けば報道フロア。左は収録スタジオ。
エレベーターは出演者用、スタッフ用、搬入用に分かれている。壁にはスタジオ番号と番組名が並び、スーツ姿のスタッフが早足で通り過ぎていく。
「迷子になりそう」
ハルカが案内板を見上げた。
「一人で動かないで」
私は言った。
「トイレへ行く時も、スタッフへ確認して。局内は似た通路が多いから」
「青木さんでも迷いますか」
ユイが尋ねる。
「初めて来た局では迷うことがあるわ」
「青木さんも?」
「私は地図ではありません」
三人が笑った。だが、数分後、案内スタッフの後ろを歩いていた私は、同じ自動販売機の前を二度通ったことに気づいた。案内スタッフも少し焦った様子で、手元の入館案内を確認している。
「迷ってませんか」
リナが小声で尋ねた。
「局内の動線確認だと思います」
「絶対迷ってる」
廊下の角を曲がると、ようやく高橋が待っていた。いつものスーツ姿だったが、首には私たちと同じ入館証が下がっている。
「遅かったな」
「案内に時間がかかりました」
「迷ったのか」
「私ではありません」
案内スタッフが申し訳なさそうに頭を下げた。高橋は何も言わず、スタジオの扉を開けた。中は、想像していたより広かった。何もセットが組まれていないため、巨大な倉庫のようにも見える。
高い天井から、何十台もの照明が吊り下げられている。床には、太いケーブルが何本も伸びていた。大型のカメラが三台。レールの上を移動するカメラ。
長いアームの先に取りつけられ、上空から撮影するクレーンカメラ。ユイが入口で立ち止まった。
「これ、全部使うんですか」
番組の演出担当者が近づいてきた。
「本番は、この中の五台を使います。正面から二台、左右に一台ずつ、あとはクレーンです」
「どのカメラを見ればいいか、分かるんですか」
「上に赤いランプがつきます。まず、見てみましょうか」
演出担当者がスタッフへ合図する。正面のカメラに、赤いランプが点灯した。ユイの肩が跳ねた。ほんの小さな光だった。
しかし、その赤は、無機質なレンズの上で強く浮かび上がっている。
「今、あのカメラの映像が放送されているという意味です」
赤い光が消え、右側のカメラが点灯する。次は左。さらに、クレーンカメラの赤い光がつく。レンズが、空中から三人を見下ろす。
ユイの呼吸が少し速くなった。私は近づこうとしたが、ハルカが先にユイの手を握った。
「黄色?」
ハルカが尋ねる。ユイは頷き、鞄からカードを取り出した。すべてのカメラのランプが消えた。スタッフも動きを止める。
誰も急かさなかった。ユイはその場にしゃがまず、目を閉じて呼吸を整えた。
「怖いです」
「どこが一番怖かった?」
番組の演出担当者が尋ねた。質問の仕方は穏やかだった。
「赤く光った時、自分だけを見られてる感じがしました」
「なるほど」
担当者は考え、カメラの横へ移動した。
「では、最初はレンズを人の目だと思わなくて大丈夫です。赤いランプがついたから、絶対に見なければならないわけでもありません」
「違う方を見てもいいんですか」
「もちろんです。歌の途中で、ずっとカメラ目線だと不自然になります。メンバー同士を見てもいいし、客席を見てもいい。カメラを見る場所は、ここだけというところを二つか三つ決めましょう」
「全部見なくていい?」
「全部を追いかける必要はありません。カメラが皆さんを追います」
ユイが目を開けた。
「カメラが、私たちを?」
「そうです。テレビに慣れていない人ほど、自分からすべてのカメラを探そうとします。でも、本来は逆です。皆さんが歌いやすいように動き、その魅力が見える場所を、こちらが撮ります」
リナが、スタジオの床へ視線を落とした。
「振付は、どこまで動いていいんですか」
担当者が、床に貼られたテープを示す。
「基本は、この範囲です」
示された場所は、普段三人が使うステージよりずっと狭かった。
「これだけ?」
リナが驚く。
「横へ広がりすぎると、一台の画面に三人が収まりません。移動する場合も、カメラの切り替えに合わせる必要があります」
「ライブでは、サビで左右に広がります」
「テレビ用に、少し内側へ詰めていただきたいです」
リナの表情が険しくなる。
「曲も短くして、振付も小さくするんですか」
演出担当者は困ったように私を見る。高橋が口を開きかけたが、私は小さく首を振った。リナ自身が話すべきだ。
「小さくするというより、画面の中で大きく見える動きに変えたいと思っています」
担当者が答えた。
「ライブでは、身体全体を使った移動が客席へ届きます。でもテレビでは、顔の表情や指先の動きが大きく映る。一歩の移動より、手の角度一つの方が印象に残ることもあります」
リナはカメラと床の印を見比べた。
「私たちの振付を、テレビ向けに変えろということですよね」
「一緒に作り直したい、ということです」
すぐには納得していない様子だった。それでも、リナは拒絶しなかった。
「本番まで、カメラを使ったリハーサルは何回できますか」
「事前に、別のスタジオで二回。当日のカメラリハーサルが一回です」
「映像は確認できますか」
「もちろん。カメラ割りも、事前に共有します」
「それなら、一度やってみたいです」
ユイが黄色いカードを裏返した。
「私も、もう一度ランプを見たいです」
「今日は、ここまででもいいのよ」
私が言うと、ユイは首を振った。
「出るかどうか決めるために来たから、もう一度見たいです」
演出担当者が、正面のカメラだけを点灯させた。赤い光がつく。ユイの身体が強張る。ハルカとリナが左右に立つ。
三人は、カメラではなく互いの顔を見た。
「次に、横のカメラへ移します」
担当者が事前に伝えてから、赤い光を切り替える。ユイは、すぐにはそちらを見なかった。一度ハルカを見てから、ゆっくりカメラへ視線を向ける。
「今の感じです」
担当者が言う。
「急いで探さなくて大丈夫です」
何度か繰り返すうち、ユイの肩から力が抜けていった。カメラそのものが怖くなくなったわけではない。
それでも、何が起きるのか分からない恐怖は、少し小さくなったようだった。スタジオを出た後、番組スタッフと打ち合わせを行った。私が求めていたとおり、休養や炎上に関する質問はすべて削除されていた。
代わりに、司会者からは三つの質問が用意された。初めて全国放送のスタジオで歌う今の気持ち。ファンクラブを作った理由。これから、どんな場所で歌いたいか。
「ファンクラブの話ならできます」
ユイが言った。
「でも、私が答えてる途中で言葉が出なくなったら?」
「司会者がハルカさんかリナさんへ話をつなぎます」
番組担当者が答える。
「回答時間は一人十五秒ほどです。すべて完璧に答えなくても、三人で一つの話になれば大丈夫です」
十五秒。LUMINA HOMEの音声では、何分沈黙しても問題なかった。
だが、生放送の十五秒は、空白のままにはできない。秒単位で進むテレビの世界を、三人が初めて実感した瞬間だった。打ち合わせを終え、局内の小さな控室を借りて、四人で話した。
「どうだった?」
私が尋ねる。
「怖かった」
ユイが答えた。
「でも、思ってたのとは少し違いました。カメラに合わせて全部動かなきゃいけないと思ってたけど、カメラが追ってくれるって聞いて、少し安心しました」
「出演したい?」
ユイはすぐに答えなかった。黄色いカードへ触れ、考える。
「したいです」
やがて、顔を上げた。
「本当に?」
「はい。怖いけど、歌いたいです」
「私も出たい」
ハルカが言う。リナも頷いた。
「テレビ用の振付、作ってみたい」
三人の意思が揃った。私は、もう一つ確認した。
「出演を決めても、本番までに難しいと感じたら辞退できる。直前でも、ユイが赤いカードを出したら出演しない。その条件でいい?」
「はい」
三人が答えた。
「番組側にも、緊急時の対応を確認する。歌唱中に続けられなくなった場合は、すぐCMか別映像へ切り替えられるようにしてもらう」
「そんなことまでできるんですか」
ハルカが尋ねる。
「生放送には、機材トラブルや体調不良に備えた映像が用意されている。使わないことが一番だけれど、逃げ道があると知っておくことは大切よ」
ユイが頷いた。
「途中で止まっても、日本中のテレビが真っ暗になるわけじゃないんですね」
「ならないわ」
「それなら、少しだけ怖くなくなりました」
控室を出ると、高橋が廊下で待っていた。
「結論は出たか」
「出演します」
私が答える前に、ハルカが言った。高橋は三人の顔を順番に見た。
「三人で決めたのか」
「はい」
「青木君に説得されたわけではなく?」
ユイが笑う。
「青木さんは、出演してほしいとは言いました。でも、決めるのは私たちだって言ってくれました」
高橋が私を見る。
「合格だな」
「何の試験ですか」
「君がまた先回りしないか見ていた」
「信用がありませんね」
「失った信用は、少しずつ戻すものだと君自身が言っていただろう」
反論できなかった。
「番組側には、正式に受諾を伝える」
高橋は三人へ向き直った。
「ここから三週間、テレビ用の歌唱と振付を作る。短い時間だが、無理に予定を増やすつもりはない。雑誌や別番組から依頼が来ても、この出演が終わるまでは受けない」
私は少し驚いた。
「高橋さんから、その条件を出していただけるのですか」
「一つ増やすなら、一つ減らすのだろう」
彼は壁に貼った紙を、一度見ただけのはずだった。
「覚えていたんですね」
「優れたルールは、事業にも使える」
高橋はそれだけ言い、先に歩き出した。私たちも後に続く。似たような通路が何本も伸び、いくつもの扉が並んでいる。どこへつながっているのか、初めて来た人には分からない。
テレビ局は、巨大な迷路のようだった。けれど、今度は三人とも、自分の足で歩いていた。
4
テレビ用の準備は、ライブとはまったく異なるものだった。最初に行ったのは、楽曲の短縮だった。原曲の四分二秒を、二分十五秒に収めなければならない。
イントロを半分にする。一番のサビを終えた後、二番をすべて削る。間奏も短くし、最後のサビへつなぐ。そのまま切り貼りすると、曲が急いで終わるだけに聞こえた。
「これでは、曲の気持ちが途中で変わりません」
ハルカが言った。
『真夏のミッドナイト・ブルー』は、都会の夜に一人で立ち尽くす心から始まり、最後には、自分の足で朝へ向かう決意へ変わる曲だった。
二番を削ると、孤独から決意へ移る過程が消えてしまう。
「歌詞を一部、入れ替えましょう」
ハルカが提案した。一番の後半に、二番の重要な一節を移す。最後のサビ前に、三人の声だけになる短い間を作る。原曲とは違うが、二分十五秒の中にも物語の変化を残す。
高橋は、歌詞の改変に慎重だった。
「すでに配信されている楽曲だ。視聴者が知っている歌詞を変えると、違和感が出る」
「でも、時間に合わせて切るだけでは、この曲を初めて聞いた人に意味が伝わりません」
ハルカは譲らなかった。
「テレビは、私たちを初めて見る人の方が多いんですよね。だったら、その人たちに届く形にしたいです」
高橋は、短縮版と原曲を聞き比べた。
「歌詞の入れ替えは、一節だけにする。メロディーは変えない。その条件なら認める」
曲の形が決まると、リナが振付を作り直した。テレビ局から共有されたカメラ割りでは、最初の八秒はハルカの顔を大きく映す。ユイの歌い出しで右側のカメラへ切り替え、サビでは三人を正面から捉える。
最後のサビ前には、クレーンカメラが上空から三人を映す。
「この位置だと、三人の間隔が狭すぎる」
最初のリハーサルで、リナは不満を隠さなかった。
「サビで腕を広げると、ユイに当たる」
番組の振付担当者が答える。
「腕を前へ出す動きに変えるのはどうでしょう」
「前だと、曲の広がりがなくなります」
「カメラが寄るので、指先まで映ります。大きく広げるより、前へ伸ばした方が、視聴者に届くように見えます」
リナは納得していなかった。何度か同じ動きを試す。モニターで確認すると、ライブでは小さく見える動きが、テレビ画面では想像以上に大きく映っていた。
指先のわずかな震え。視線の移動。呼吸に合わせて動く肩。すべてが画面に映る。
「テレビって、隠せないんですね」
ユイが呟いた。
「ライブの後ろの席なら見えないことも、全部見える」
「だから、無理に大きく動かなくていいんです」
振付担当者が言った。
「カメラの前では、止まることも振付になります」
リナが、その言葉に反応した。
「止まることも?」
「はい。三人が同時に動きを止めて、目線だけを変える。その一秒が、画面では強く見えることがあります」
リナはもう一度映像を再生した。
やがて床へ座り込み、ノートへ線を引き始める。
「サビの最初、全員止まってみる」
「止まるの?」
ユイが尋ねる。
「一拍だけ。その後、手を前へ出す。客席じゃなくて、カメラの向こうにいる一人へ渡す感じ」
「それなら、歌詞にも合うかも」
ハルカが頷いた。三人は何度も試した。ライブの振付を小さくするのではない。テレビ画面の中で、別の大きさを作る。
リナは新しい表現を見つけ始めていた。トークの練習も行った。回答時間は、一人十五秒。
「初めて全国放送で歌う今のお気持ちは?」
番組スタッフが司会者役となって尋ねる。ハルカが答える。
「これまで応援してくださった方にも、今日初めて私たちを知ってくださる方にも、今の三人の歌をまっすぐ届けたいと思っています。短い時間ですが――」
スタッフが手を上げた。
「今ので十八秒です」
「もう終わり?」
「はい。本番では、司会者が次へ進みます」
ハルカが困ったように台本を見る。
「伝えたいことを全部入れたら、十五秒では足りません」
「一番伝えたいことを、一つに絞ってください」
「一つ……」
ライブのMCなら、観客の反応を見ながら何分でも話せる。テレビでは、十五秒の中に自分の言葉を収めなければならない。ハルカは何度も文章を削った。
最後に残ったのは、短い言葉だった。
「初めて私たちを見てくださる方にも、今日の歌が、明日を歩く小さな光になれば嬉しいです」
十二秒。スタッフが頷いた。ユイには、LUMINA HOMEを作った理由についての質問が用意された。最初の答えは、途中で言葉が止まった。
「ファンの皆さんと、私たちが……その、いつでも、戻ってこられる……」
ユイは俯いた。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
スタッフが答える。
「台本どおりでなくても構いません。誰か一人の顔を思い浮かべて話してみてください」
ユイは、休養中に届いた手紙を思い出した。
「離れていても、同じ場所を思い出せるように作りました。帰りたい時に、ただいまって言ってもらえたら嬉しいです」
十秒だった。リナは、これから立ちたい場所について尋ねられた。
「大きな場所だけを目標にはしたくありません。今日、私たちを必要としてくれる一人の前でも、全力で踊れる三人でいたいです」
十四秒。三人の答えが揃った。私はそれを台本へ書き込もうとした。
だが、ユイが首を振った。
「文章を全部覚えると、忘れた時に怖くなるから、言いたいことだけ覚えます」
「その方がいいと思う」
私は台本を閉じた。
「違う言葉になっても、意味が届けばいい」
本番までの三週間、予定を増やさなかった。雑誌から新しい撮影依頼が来た。地方イベントからも出演打診があった。話題の動画配信者との共演案も届いた。
私はすべて、高橋へ相談した上で断った。以前なら、テレビ出演との相乗効果を考え、可能な限り詰め込んだだろう。今は、一つの仕事に集中する。
テレビ用の練習は一日二時間。終了時刻になったら、途中でも終える。ユイが黄色いカードを出した日は、カメラを使わない。ハルカの声に疲れが見えた日は、トーク練習だけにする。
リナが振付を作り込みすぎた時には、榊原との面談で、自分から休む日を決めた。順調な日もあった。何も進まなかったように見える日もあった。
それでも、三人は少しずつ、テレビという未知の場所へ近づいていった。
5
本番当日の朝、私は午前五時に目を覚ました。集合時間は午前十一時。まだ眠っていられる時間だった。もう一度目を閉じようとしたが、頭の中では本日の流れが動き始めていた。
午前十一時、テレビ局入り。十一時半、楽屋挨拶。
正午、ヘアメイク。
午後一時、トーク打ち合わせ。
午後二時、音合わせ。
午後三時半、カメラリハーサル。
午後五時、夕食。
午後六時、最終打ち合わせ。
午後八時四十五分、スタジオ待機。
午後九時、生放送開始。LUMINAの出演は、午後九時二十六分頃。秒単位で組まれた予定が、頭の中に浮かぶ。私はベッドから起き上がり、予定表を開きかけた。
すでに何度も確認している。変更があれば、番組スタッフから連絡が来る。今、見る必要はない。私はスマートフォンを置き、台所で湯を沸かした。
朝食を取る。自分も無理をしない。それも四人で決めた約束だった。
午前十時半、ハイエースで三人を迎えに行った。ユイは大きな鞄を抱えて出てきた。
「何が入っているの?」
「必要かもしれないものです」
中を確認すると、水、タオル、着替え、常備薬、三色のカード、LUMINA HOMEへ届いた手紙が数通、四人で撮った写真、予備の靴下、菓子、文庫本が入っていた。
「遠足みたい」
リナが言う。
「何時間もいるんだから、必要でしょ」
「靴下は二足もいらないと思う」
「テレビ局で水をこぼすかもしれない」
「どうして靴下にだけこぼすの」
後部座席から聞こえる会話に、少し緊張が和らいだ。ハルカは、窓の外を見つめていた。
「緊張してる?」
私が尋ねる。
「はい。母から、録画するって連絡が来ました」
「お父さまは?」
「何も言ってません。でも、たぶん家にはいると思います」
「見てもらいたい?」
「見てほしいです」
ハルカは、迷わず答えた。
「もう、認めてもらうためだけに歌ってるわけじゃない。でも、今の私を見てほしいと思います」
リナは、イヤホンを片耳に入れ、短縮版の楽曲を聞いていた。指先が、膝の上で振付をなぞっている。
「リナ、練習はもう終わりよ」
「確認してるだけ」
「確認も練習です」
「一回だけ」
「昨日で終わりにすると決めたでしょう」
リナは不満そうにイヤホンを外した。
「青木さん、細かい」
「本番当日に振付を変えないためです」
「変えない。確認だけ」
「頭の中で繰り返すと、直したくなるでしょう」
リナは否定しなかった。
「今日は、作ったものを信じて」
私が言うと、リナはイヤホンを鞄へしまった。テレビ局へ到着したのは、予定より十五分早かった。入口には、番組スタッフが待っていた。入館証を受け取り、四人で中へ入る。
見学の日に一度歩いたはずなのに、局内は前回と違って見えた。出演者やスタッフが行き交い、衣装を運ぶラックが通路を塞ぐ。無線機から、いくつもの指示が飛び交っている。
「三番スタジオ、セット転換入ります」
「出演者車両、一台到着です」
「照明チェック、十五分押し」
誰も立ち止まらない。大勢の人間が、それぞれの時計に従って動いていた。楽屋までの道も複雑だった。エレベーターを降り、右へ曲がり、長い通路を進む。
防火扉を抜け、別の棟へ渡る。壁には、いくつもの番組名が書かれた紙が貼られている。
「一人で歩いたら、絶対戻れない」
ユイが小声で言った。
「必ずスタッフと一緒に動いて」
「青木さんは覚えましたか」
「だいたいは」
その直後、案内スタッフが左へ曲がったにもかかわらず、私は右へ進みかけた。
「青木さん、こっち」
ハルカに袖を引かれる。
「分かっていました」
「今、絶対間違えましたよね」
「動線を確認しただけです」
三人が笑った。楽屋の扉には、白い紙に黒い文字で「LUMINA様」と印刷されていた。ユイが、その紙を見つめる。
「本当に、私たちの楽屋がある」
「写真、撮りますか」
番組スタッフが尋ねた。ユイの表情が一瞬だけ強張った。
「私のスマホで撮ってもいいですか」
自分で撮ることを選んだ。三人が楽屋札の前に並び、私がユイのスマートフォンを受け取る。
「撮るわよ」
シャッターを一度だけ押した。ユイは画面を確認し、笑った。
「LUMINA HOMEに載せたいです」
「放送前に楽屋の場所が分かる投稿はできない。終わってからにしましょう」
「はい」
楽屋へ入り、荷物を置いた。休む間もなく、挨拶回りが始まった。廊下へ出ると、隣の楽屋には、ハルカが子どもの頃から聴いていた人気バンドの名前があった。
「私、ここへ入るんですか」
「ご挨拶だけよ」
「何て言えば」
「本日ご一緒させていただきます、LUMINAです。よろしくお願いいたします。それで十分」
「声、裏返りそう」
「裏返っても死なないから」
リナが言う。スタッフへ確認し、三人で楽屋を訪ねる。扉が開き、テレビで何度も見たメンバーが姿を見せた。
「本日ご一緒させていただきます、LUMINAです。よろしくお願いいたします」
三人の声は、きれいに揃った。人気バンドのボーカルが笑顔で答える。
「よろしく。今日が初出演なんだって?」
「はい」
「緊張するよね。でも、あのスタジオ、音がいいから。楽しんで」
たったそれだけのやり取りだった。楽屋を離れた瞬間、ハルカが壁へ手をついた。
「心臓、止まるかと思った」
「普通に話せてたよ」
ユイが言う。
「顔、見られなかった」
「後半、床に挨拶してた」
リナの言葉に、三人が小さく笑う。別の楽屋では、女性ソロ歌手から「曲、聴いてます」と声をかけられた。男性グループのメンバーは、ユイの振付動画を知っていた。
「妹が真似してるんです。今日、生で見られるのを楽しみにしてます」
ユイは驚き、何度も頭を下げた。自分たちがテレビで見ていた人たちが、LUMINAを知っている。その事実を、三人はすぐには受け止めきれないようだった。
楽屋へ戻ると、ユイが椅子に座った。
「緊張しました」
「黄色?」
私が尋ねる。
「まだ大丈夫です。でも、少し静かにしたい」
「分かった」
三人とも話すのをやめた。テレビがついていたが、音量を下げる。私は楽屋の外へ出て、扉に「休憩中」と書かれた札を下げた。
数分後、ヘアメイクの時間になった。鏡の前に三人が並ぶ。テレビ用のメイクは、普段より細かかった。強い照明で顔が白く飛ばないよう、陰影をつける。
目元も、カメラが寄った時に表情が伝わるよう整えられる。ユイは、顔へ触れられるたびに少し身体を強張らせていた。
「一度、止めますか」
ヘアメイク担当者が尋ねる。
「大丈夫です」
ユイが答えかけ、鏡の端にある黄色いカードを見た。
「いえ。少しだけ、休ませてください」
「もちろん」
担当者はすぐに手を止めた。誰も困った顔をしない。ユイは三分ほど目を閉じ、再開を自分で伝えた。その姿を見て、私は胸の奥で静かに息をついた。
止めることが、少しずつ特別ではなくなっている。テレビ局の秒単位の世界でも、三分の休息を作ることはできる。
午後二時、音合わせが始まった。三人が初めて、本番と同じスタジオへ入る。見学の日には何もなかった空間に、巨大なセットが組まれていた。銀色の柱。
青く光る床。何十台もの照明。客席には、番組観覧へ当選した人が座るための椅子が並んでいる。正面には大型カメラ。
左右に移動式カメラ。天井付近には、クレーンカメラが待機している。
「前と全然違う」
ユイが呟いた。
「セットがあると、狭く見える」
リナは床の立ち位置を確認している。三人の場所には、色の違うテープが貼られていた。ハルカは青。ユイは黄色。
リナは白。イヤーモニターを装着し、マイクを持つ。音響スタッフが、一人ずつ声を確認した。
「ハルカさん、声をください」
「はい。ハルカです。よろしくお願いします」
「もう少し歌っていただけますか」
ハルカが短いフレーズを歌う。巨大なスタジオに、声が響いた。ユイの番になる。マイクを握る手に力が入っている。
「ユイです。よろしくお願いします」
声は出ていた。次に、リナ。三人の音量を調整し、短縮版の音源が流れる。リナが一歩目を踏み出す。
カメラが動く。赤いランプが点灯する。ユイの視線が、一瞬だけ泳いだ。
それでも、ハルカを見てから、正面へ戻る。一番のサビ。三人が動きを止める。一拍の静止。
次の瞬間、三人の手が、カメラの向こうへ伸びる。モニターには、まるで画面を越えて視聴者へ触れようとしているような三人が映った。テレビ用に作り直した動きは、想像以上の強さを持っていた。
歌唱を終えると、リナがすぐにモニターへ向かった。
「サビ前、ユイが半歩後ろにいる」
「カメラでは、ほとんど分かりません」
振付担当者が言う。
「でも、最後に三人が並んだ時、肩の位置がずれています」
「次で直しましょう」
リナが床へ戻ろうとする。
「今日は一回だけです」
私が言った。
「音合わせだから、もう一度できると思ってました」
「カメラリハーサルは、この後に一度ある。本番前に繰り返しすぎないと決めたでしょう」
「でも、今のずれは」
「映像を見て確認できた。次に直せるわ」
リナは不満そうだった。それでも、床へ戻らなかった。
「分かりました」
自分で止まることを選んだ。
午後三時半。カメラリハーサルが始まった。観覧客はまだ入っていない。
それでも、本番と同じ照明がつき、司会者役のスタッフが台本を読み、すべてのカメラが動く。
「本番三十秒前です」
フロアディレクターの声が響く。巨大な時計の数字が減っていく。二十九。二十八。
二十七。普段のライブにはない緊張だった。
「十秒前」
スタッフが指を折る。五。四。三。
二。一。赤いランプがつく。司会者役が、明るい声で紹介した。
「今、若い世代を中心に注目を集める三人組、LUMINAの皆さんです!」
三人がカメラへ向かって頭を下げる。
「よろしくお願いします」
声は揃った。ハルカへの質問。回答は十二秒。次にユイ。
「LUMINA HOMEを作った理由を教えてください」
ユイがカメラを見る。赤い光。言葉が出ない。一秒。
二秒。生放送であれば、長く感じられる沈黙だった。ユイの目が揺れる。司会者役のスタッフが、ハルカへ視線を送った。
ハルカが口を開こうとする。その直前、ユイが息を吸った。
「離れている時にも、同じ場所を思い出せるように作りました」
声は震えていた。
「帰りたい時に、ただいまって言ってもらえたら嬉しいです」
予定より三秒長かった。それでもスタッフは止めなかった。リナへの質問へ移り、トーク部分が終わる。三人が歌唱位置へ移動する。
音源が流れた。ハルカの歌い出し。ユイの声。リナの動き。
カメラが切り替わる。正面。右。左。
クレーン。赤い光が次々に移動する。ユイはすべてを追わなかった。事前に決めた二ヶ所だけで、カメラを見る。
それ以外は、ハルカとリナを見た。最後のサビ。三人の手が、画面の向こうへ伸びる。楽曲が終わった。
照明が落ちる。
「カメラリハーサル終了です!」
スタッフの声が響いた。ユイが、その場で大きく息を吐いた。ハルカが背中へ手を添える。リナも近づく。
私は床へ入らず、三人が自分たちで戻ってくるのを待った。ユイは胸元から黄色いカードを出した。
「休みたいです」
「十分、休憩を取ります」
フロアディレクターが即座に答えた。
「次の確認は、立ち位置だけにします。歌唱は行いません」
「ありがとうございます」
三人がスタジオを出る。廊下へ出た瞬間、ユイの膝から力が抜けた。ハルカとリナが両側から支える。私は少し離れた場所で尋ねた。
「触れてもいい?」
ユイが頷いた。私は背中へ手を添えた。呼吸は速いが、乱れてはいない。
「怖かった?」
「はい」
「本番、出られそう?」
以前なら、その質問をしていたかもしれない。だが、口に出さなかった。今は、次の判断を求める時ではない。
「楽屋へ戻りましょう」
四人で、テレビ局の長い廊下を歩いた。似たような扉が並び、何度曲がっても出口が見えない。
だが、私たちはもう、初めて来た時のように完全に迷ってはいなかった。壁の案内を確認し、分からなければスタッフに尋ねる。止まりたい時には止まり、また歩けると思った時に進む。
楽屋へ戻ると、ユイは黄色いカードをテーブルに置いたまま、椅子に座った。
「本番まで、あと何時間ですか」
「五時間ほど」
「長いですね」
「休むための時間よ」
「さっき、答えるの遅れました」
「でも、自分の言葉で答えられた」
ハルカが言った。
「私が代わろうと思ったけど、ユイが話し始めたから待った」
「三秒、長かったよ」
リナが言う。
「テレビでは長いかもしれない。でも、言葉が出るまで待てる三秒だった」
ユイは二人を見て、少し笑った。
「本番でも、待ってくれる?」
「待つよ」
ハルカが答える。
「司会者さんが次に行ったら、私たちが別の質問でつなげる」
リナも続けた。
「全部、台本どおりにできなくてもいい」
私は三人の言葉を聞きながら、壁の時計を見た。秒針が動いている。テレビの世界は、一秒も止まらない。
それでも、その中で三人が呼吸できる場所を作ることはできる。
「今日は、これ以上トークの練習をしません」
私が言った。
「歌も、本番まで通さない。立ち位置確認だけにする」
「でも、さっきの映像を見て直さなくていいんですか」
リナが尋ねる。
「映像は私と振付担当者で確認する。三人には、修正が必要な一ヶ所だけを伝える。それ以上は増やさない」
リナは少し迷い、頷いた。
「分かりました」
「夕食まで、三人で休んで。私は外にいる」
「青木さんは?」
ユイが尋ねる。
「番組スタッフと、緊急時の動線を最終確認する」
「仕事、増やしてませんか」
「必要な確認だけよ」
「ご飯は食べますか」
「四人で食べるわ」
三人が納得したのを確認し、私は楽屋を出た。廊下には、出演者、スタッフ、機材が絶えず行き交っている。巨大なテレビ局の中で、LUMINAに与えられた時間は、トーク二分、歌唱二分十五秒。
四分少々のために、何百人もの人間が動いている。照明を作る人。音を届ける人。カメラを動かす人。
出演者を案内する人。秒数を管理する人。衣装やメイクを整える人。緊急時に映像を切り替える人。
以前の私は、そのすべてを自分で把握しなければ三人を守れないと思っていただろう。今は違った。私は一人ではない。三人も、自分たちの状態を言葉にできる。
高橋がいる。榊原がいる。大類や事務所のスタッフがいる。番組のスタッフも、三人が安心して歌えるよう動いてくれている。
誰かへ任せることは、責任を放棄することではない。それぞれの役割を信じることだ。私は緊急時の対応を確認し、楽屋へ戻った。扉の前で、三人の笑い声が聞こえた。
中へ入ると、ユイが持ってきた菓子を、ハルカとリナが勝手に食べたことで言い合いになっていた。
「私、本番前に食べようと思ってたのに」
「まだ残ってるでしょ」
「一番好きな味がなくなってる」
「ハルカが食べた」
「リナも食べてたよ」
三人が同時に私を見る。
「青木さん、どっちが悪いと思いますか」
「本番前に余計な争いを持ち込まないで」
私が答えると、三人が笑った。テレビ局という巨大な迷路の中でも、三人は三人だった。その事実に、私は少しだけ安心した。あと数時間で、赤いランプの向こうにいる何百万人もの人へ、LUMINAの歌が届けられる。
成功するかは分からない。ユイが言葉に詰まるかもしれない。カメラを見失うかもしれない。音程を外すことも、振付を間違えることもある。
それでも、今日ここまで来たのは、誰かに引っ張られたからではない。三人が自分たちで、出演したいと決めたからだ。私はその決断を守りながら、同じ迷路を歩くだけだった。
楽屋の壁にある時計が、午後四時を示していた。テレビ局の外では、少しずつ夜が近づいていた。




