第19章 名前のある居場所
1
三十脚の椅子が、白い床の上に並んでいた。照明は、普段のスタジオで使われている天井灯だけだった。舞台を区切る段差も、色とりどりのレーザーもない。スモークも、巨大なスクリーンも用意されていない。
部屋の奥に三本のマイクが立ち、その後ろに小さなスピーカーが二台置かれている。それだけだった。LUMINAがこれまで立ってきたステージの中で、最も簡素な場所かもしれない。
だが、私たちにとっては、どんな大きな会場よりも慎重に選んだ場所だった。小さな歌の場を開きたいと三人から聞かされた後、私はすぐには動かなかった。
会場の候補を調べる前に、三人が本当に望んでいることを何度も話し合った。ライブという言葉は使わない。復帰公演とも呼ばない。衣装は着ない。
振付も、無理に入れない。歌うのは三曲まで。途中で止まっても、初めからやり直す必要はない。三人のうち誰か一人でも難しいと感じたら、その場で終了する。
観客には事前に事情を説明し、撮影も録音も禁止する。関係者も、必要最低限に絞る。私は舞台袖ではなく、客席の最後列に座る。音響の操作は、地下時代からLUMINAを知るスタッフの一人だけに任せる。
そして、招待する三十人については、三人と事務所スタッフが一緒に決めた。地下時代から来てくれていた人だけを選ぶのではない。応援してきた期間の長さを、優先順位にはしなかった。
ライブへ来たことがない人にも声をかけた。遠方に住んでいるため、配信だけを見ていた人。最近LUMINAを知った人。休養中に手紙を送ってくれた人。
学生、会社員、主婦、夫婦で応援している二人。年齢も、住んでいる場所も、LUMINAを知ったきっかけも異なる人たちを選んだ。招待状には、ハルカが考えた文章を添えた。
完璧なライブではありません。三人とも、まだ迷いながら歌っています。途中で歌えなくなるかもしれません。
それでも、今の私たちの声を受け取ってくださる方に、そばにいてほしいと思っています。参加できなくても、応援する気持ちが小さいということではありません。
いつか、もっと多くの方へ届けられる日を目指して、今は小さな一歩を踏み出します。招待状を送る前、三人は文章を何度も読み直した。
「完璧なライブではありませんって、書いてもいいのかな」
ユイが不安そうに言った。
「お金を取らないとしても、見てもらう以上はプロでしょう。最初から言い訳をしているように見えない?」
以前の私なら、同じことを考えたかもしれない。だが、リナが首を振った。
「これは言い訳じゃない。条件を伝えてるだけ」
「でも、がっかりされるかも」
「何も伝えないで、急に止まる方が怖いと思う」
ハルカも頷いた。
「今できることを、できる形で見せる。それでいいんじゃないかな」
三人の話を聞き、私は文章を変えなかった。招待状を送ると、参加できる人から次々に返事が届いた。歌えなくても大丈夫です。同じ場所にいられるだけで嬉しいです。
無理をしないでください。三人が終わりと言った時には、拍手で送り出します。その言葉を読んだユイは、何度も頷いていた。
それでも当日の朝になると、緊張は隠せなかった。スタジオの控室で、ユイは椅子に座り、両手を膝の間へ挟んでいた。衣装ではなく、淡い水色のシャツと白いスカートを身につけている。髪も、自分で簡単に整えただけだった。
ハルカは紺色のブラウスとデニム。リナは白いシャツに黒いパンツ。三人とも、舞台に立つアイドルというより、休日に待ち合わせをした友人同士のように見えた。
「あと十分です」
私が告げると、ユイの肩がわずかに動いた。
「怖い?」
尋ねると、ユイは頷いた。
「はい」
理由は聞かなかった。
「赤にしますか」
テーブルの上には、榊原から教えられた三色のカードが置かれていた。赤は中止。黄色は休憩。青は答えたくない、あるいは少し時間がほしい時。
言葉が出なくなった時にも意思を伝えられるよう、三人が一枚ずつ持っている。ユイは赤いカードへ手を伸ばしかけた。指先で角に触れ、そのまま止まる。
「まだ、持っておきます」
「分かった」
私は時計を伏せた。開始時間が遅れても構わない。予定どおり進めることより、三人が自分で扉を開けることの方が大切だった。隣の部屋から、小さな話し声が聞こえてくる。
招待された人たちが、すでに席へ着いている。廊下には事務所スタッフが立ち、スマートフォンの電源を切ってもらったことを一人ずつ確認していた。
「私、最初の挨拶できるかな」
ユイが呟いた。
「私がやるよ」
ハルカが答える。
「途中で言いたくなったら、代わって」
「うん」
「一曲目、振付なしにする?」
リナが尋ねた。ユイは少し考えた。
「最初は、三人で立って歌いたい。身体が動きそうなら、途中から少しだけ踊る」
「分かった」
誰も、大丈夫だとは言わなかった。頑張ろうとも言わなかった。三人は互いの状態を確かめ、その時できる形を選んでいた。ハルカが私を見る。
「青木さん」
「何?」
「行ってきます」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。以前なら、「行ってらっしゃい。必ず成功させましょう」と答えただろう。今日は違った。
「行ってらっしゃい。途中で戻ってきてもいいから」
三人が頷いた。控室の扉が開く。先頭をハルカ、その後ろをユイ、最後にリナが歩く。私は少し間を置いてから、客席の後方へ向かった。
三人が部屋へ入ると、三十人の観客が静かに立ち上がった。歓声は起こらなかった。事前に、驚かせるような大きな声は控えてほしいと伝えていたからだ。
代わりに、温かな拍手が広がった。ハルカがマイクの前へ立つ。
「今日は、来てくださってありがとうございます」
声が少し震えていた。
「私たちは今も、完全に元どおりというわけではありません。元どおりって何だろうって、最近は三人でよく話しています」
客席は静かだった。誰も先を急かさない。
「前と同じように歌えることが、戻ることなのか。怖くない顔を見せることが、プロとして正しいのか。まだ、答えは分かりません」
ハルカは左右にいる二人を見た。
「でも、歌いたいと思いました。誰かに届けたいと思いました。今日は、その気持ちだけを持って、ここへ来ました」
拍手が起きた。先ほどよりも少し大きく、それでも三人を包むような柔らかい音だった。ユイは目を閉じ、ゆっくり息を吸った。音響スタッフが、三人の様子を確認してから音源を流す。
一曲目は、LUMINAが地下時代から大切に歌ってきた曲だった。華やかなイントロではない。静かなピアノから始まり、少しずつ三人の声が重なっていく。
ハルカが最初の歌詞を歌う。リナの低い声が支える。ユイは一拍遅れてマイクを上げた。最初の声は、わずかに掠れていた。
それでも、途切れなかった。客席にいる三十人は、ほとんど動かなかった。ペンライトも、うちわもない。
ただ、三人の声を聞いている。ユイの視線が、ゆっくりと客席へ向いた。最前列に座る女性と目が合う。女性は泣いていた。
声を上げず、両手を胸元で組み、ユイを見つめていた。ユイの表情が揺れた。一瞬、声が細くなる。ハルカが隣からユイを見る。
リナも、動きを小さくして呼吸を合わせる。ユイは二人を見て、再び客席へ顔を向けた。歌は最後まで続いた。一曲目が終わる。
三人は、すぐに次の曲へ進まなかった。ユイが胸元へ手を当てている。ハルカがマイクを下ろした。
「少し、待ってください」
客席の誰も、不安を煽るような声を上げなかった。静かな時間が流れた。私は最後列からユイを見つめた。駆け寄りたい気持ちはあった。
だが、三人から合図はない。私は椅子に座ったまま待った。ユイが黄色いカードを取り出し、胸の前で客席に見せた。
「少しだけ、休ませてください」
声は震えていた。客席から拍手が起きた。失望ではない。休むと伝えられたことを受け止める拍手だった。
ユイは用意された椅子に座り、水を飲んだ。ハルカとリナも隣へ座る。三人はマイクを通さず、小さな声で何かを話していた。五分ほど経った頃、ユイが立ち上がった。
「もう一曲、歌いたいです」
今度は、客席から少しだけ笑い声が漏れた。安心から生まれた、温かな笑いだった。
「でも、途中でまた休むかもしれません」
ユイが続ける。前方に座る男性が、ゆっくり頷いた。
「待ってます」
その一言が、静かな部屋によく響いた。続いて、別の場所からも声が上がる。
「ゆっくりでいいよ」
「おかえり」
三人の目から、一斉に涙がこぼれた。ユイは泣きながら笑った。
「ただいまって言っても、いいですか」
今度は、三十人の声が重なった。
「おかえり!」
決して大きな歓声ではなかった。それでも私には、Zeppを満たした地鳴りのような声よりも、深く胸に響いた。三人は二曲目を歌った。途中から、ユイの身体が自然に動き始めた。
決められた振付ではない。音に合わせて肩が揺れ、片手が客席へ伸びる。ハルカとリナも、その動きに合わせた。三人は完璧には揃っていなかった。
立ち位置も、振付の角度も違っている。けれど、その瞬間にしか生まれない呼吸があった。三曲目まで歌い終えた時、三人は深く頭を下げた。特効も、銀テープもない。
アンコールもない。
「今日は、ここまでにします」
ハルカが言った。
「ありがとうございました」
三十人は立ち上がり、長い拍手を送った。三人は頭を上げ、客席にいる一人一人の顔を見た。ユイは泣いていた。ハルカも泣いている。
リナは唇を強く結んでいたが、頬には涙が流れていた。私は最後列で拍手をしながら、三人が自分たちの意思で終わりを選んだことを見届けた。もっと歌えたかもしれない。
観客も、もう一曲聞きたかったかもしれない。それでも、三人は決めた場所で止まった。止まっても、何も壊れなかった。観客は失望せず、拍手を送ってくれた。
三人が部屋を出るまで、その拍手は途切れなかった。
2
控室へ戻ると、ユイは椅子に座り込んだ。
「終わった……」
「終わったね」
ハルカが隣へ座る。リナは壁に背を預け、天井を見上げた。
「三曲しか歌ってないのに、Zeppより疲れた」
「私も」
ハルカが笑う。ユイは両手で顔を覆った。
「怖かった」
「うん」
「最初の曲で、客席の人が泣いてるのを見たら、また息ができなくなりそうだった」
「黄色、出せたね」
「出せた」
「自分で休むって言えた」
リナの言葉に、ユイは顔を上げた。
「みんな、待ってくれた」
「待つって言ってくれてたから」
「本当に待ってくれると思ってなかった」
ユイの目から、また涙が落ちた。
「休んだら空気が悪くなると思ってた。せっかく来たのにって、がっかりされると思ってた」
私は、三人から少し離れた場所に立っていた。
「青木さん」
ハルカが私を呼んだ。
「はい」
「後ろで見てて、どうでしたか」
以前なら、改善点から話しただろう。一曲目の入りが遅れた。マイクの距離が一定ではなかった。二曲目の立ち位置が客席から見て左へ寄っていた。
音響にも、いくつか調整すべき点があった。しかし、それらは今日の目的ではない。
「三人が自分たちで始めて、自分たちで休んで、自分たちで終わりを決められた。それが一番よかったと思う」
「歌は?」
ユイが不安そうに尋ねた。
「歌もよかったわ」
「本当に?」
「最初のユイの声は、少し震えていた。ハルカも、それを気にして声を抑えすぎていた。リナの立ち位置も、二曲目で少しずれていた」
三人が顔を見合わせる。
「やっぱり見てる」
リナが言った。
「見ていたわ。ただ、それを失敗だとは思わなかった」
私は続けた。
「三人が互いの呼吸を見ながら、曲の形を変えていた。以前のように正確ではなかったかもしれない。でも、今日しか歌えない歌だったと思う」
ユイが小さく笑った。
「それならよかった」
控室の扉がノックされた。事務所スタッフが、大きな箱を抱えて入ってくる。
「皆さんへ、お手紙をお預かりしました」
参加者には、直接話しかけたり、贈り物を手渡したりしないよう事前に伝えていた。その代わり、入口に手紙を入れる箱を用意していた。箱の中には、三十通の封筒が入っている。
三人は、まだ汗が乾いていない状態で、床へ座って手紙を開いた。最初の一通には、短い文章が書かれていた。歌ってくれてありがとう。休む姿を見せてくれて、もっと好きになりました。
無理をして笑うことだけがプロではないと、今日、三人から教えてもらいました。ユイは便箋を胸元へ抱いた。別の手紙には、こう書かれていた。
今日、この場所に来られなかった人にも、三人が少しずつ前へ進んでいることを伝えたい。でも、三人が望まないなら、何も話さず胸の中にしまっておきます。
いつか、また会える場所を作ってください。ハルカが、その一文を何度も読み返した。
「また会える場所」
「ライブじゃなくてもいいのかもしれない」
リナが言った。
「いつも会う必要もない。離れていても、つながってるって分かる場所」
「この前、話してたことですね」
ユイが私を見る。
「ファンの人が帰ってこられる場所」
私は頷いた。三人の中に生まれた思いは、一度きりのものではなかった。
「青木さん」
ハルカが言う。
「ファンクラブを作りたいです」
「三人で話し合ったの?」
「はい。まだ細かいことは決めてないです。でも、今日、来られなかった人にも居場所を作りたいと思いました」
「ファンクラブって、チケットを早く取るためだけのものじゃなくてもいいですよね」
ユイが尋ねる。
「もちろん」
「私たちが元気な時だけ、きれいな写真を見せる場所にもしたくないです」
「では、何を届けたい?」
私が尋ねると、三人はそれぞれ手元の手紙を見た。
「今の気持ち」
ハルカが答えた。
「うまく話せない日があっても、そのことを伝えられる場所がいいです」
「練習の動画も、完成したものだけじゃなくていいと思う」
リナが続ける。
「できなかったところや、途中で止めた日も、見せていい。もちろん、三人とも見せたいと思った時だけ」
ユイは少し考えた。
「会員の人からも、手紙みたいに言葉を送ってもらいたいです。でも、数字が見えるのは怖いかも」
「数字?」
「いいねの数とか、誰の投稿が一番人気かとか。三人で比べられるようなものは嫌です」
それは重要な意見だった。一般的なファンクラブサイトでは、投稿への反応や閲覧数が表示される場合がある。人気を測る指標になり、メンバー間の比較を生む可能性もある。
「では、反応の数はメンバーから見えないようにしましょう。運営側でも、人気順に企画を決めない」
「コメント欄は?」
ハルカが尋ねる。
「自由に書けるようにすると、SNSみたいになるかもしれない」
「投稿前に運営スタッフが確認する方法もある。ただし、すべてを管理すると、言葉が届くまで時間がかかる」
「時間がかかってもいいです」
ユイが答えた。
「早く届くことより、安心して読めることの方が大事です」
三人は疲れているはずだった。それでも、ファンクラブについて話す声には、少しずつ力が戻っていた。誰かに決められた仕事ではない。三人が必要だと思い、自分たちから作ろうとしている場所だった。
私はノートを開きかけ、三人を見る。
「書いてもいい?」
確認すると、三人が笑った。
「それは書いてください」
「企画書がないと、高橋さんに説明できないから」
リナが言う。私はノートを開いた。最初のページに、大きく書いた。ファンとLUMINAが、安心して帰ってこられる場所。
その下に、三人の言葉を一つずつ記していった。
3
高橋との打ち合わせは、一週間後に行われた。ネクストウェーブ本社の会議室には、高橋のほか、デジタル事業部の担当者二人と、ファンクラブ運営会社の責任者が同席していた。
私の隣には、ハルカ、ユイ、リナが座っている。以前なら、三人を連れてこなかったかもしれない。条件交渉は私が行い、決まった内容だけを三人へ伝える。
その方が効率的で、三人に余計な負担もかけないと思っていた。だが、今回は三人自身が作りたいと望んだ場所だ。会費も、内容も、運営方針も、三人のいないところで決めるべきではない。
高橋は企画書へ目を通し、眼鏡を押し上げた。
「理念は理解した」
最初の言葉から、簡単には通らないと分かった。
「ファンとLUMINAが安心して帰ってこられる場所。会員間の競争を煽らず、メンバー間の人気比較も行わない。投稿への反応数は非表示。コメントは事前確認制」
高橋は企画書を閉じた。
「美しい理念だ。だが、ファンクラブは慈善事業ではない」
「承知しています」
「運営には費用がかかる。サイトの構築、決済システム、個人情報の管理、コンテンツ制作、問い合わせ対応。コメントを一件ずつ確認するなら、そのための人員も必要になる」
高橋の隣に座る担当者が、収支の試算表をテーブルに置いた。
「弊社としては、月額千二百円を提案します」
ユイの表情が動いた。ハルカとリナも、試算表へ目を落とす。月額千二百円。年間では一万四千四百円になる。
大手アーティストのファンクラブとして、極端に高い金額ではない。限定動画や先行チケット、デジタル会報を含めれば、十分成立する価格だ。
しかし私は、その金額を受け入れるつもりはなかった。
「月額六百六十円を希望します」
高橋の眉が動いた。
「約半額か」
「はい」
「その価格では、会員数が想定を下回った場合、運営費を回収できない」
「初年度の不足分については、スターライト側とネクストウェーブ側で比率を決めて負担する案を提示しています」
「レーベルに赤字を負担しろと?」
「LUMINAの継続的な顧客基盤を作るための初期投資と考えてください」
「君は、レーベルの金を使う時だけ、随分と大胆になるな」
「三人を量産型のコンセプトへ変えるために一億円を使うより、長く支えてくださるファンとの関係に投資する方が合理的です」
高橋の口元がわずかに歪んだ。過去の交渉を蒸し返したことを、面白がっているようだった。
「六百六十円でなければならない根拠は?」
「LUMINAのファンには、十代、二十代の若い方が多くいます。地方在住で、ライブへ来るために交通費を貯めている方も少なくありません。月額千二百円が払えない金額だとは言いません。しかし、加入を迷う人は確実に増えます」
「高いと思う者は入らなければいい。それが有料会員制度だ」
「私たちを応援したい気持ちを、お金の額で分けたくありません」
ハルカが口を開いた。高橋の視線が、私からハルカへ移る。
「ファンクラブに入れない人の気持ちが小さいとは思いません。でも、入ろうとしてくれた人が、料金を見て諦めるような場所にはしたくないです」
「安くすれば、会員の質が下がるという意見もある」
高橋が言った。
「入会への敷居が低いほど、軽い気持ちで加入する人間も増える。情報の流出や、限定コンテンツの無断転載も起こりやすくなる」
ユイが膝の上で手を握った。
「軽い気持ちで入っても、いいと思います」
「ユイ」
私は思わず名前を呼んだ。だが、ユイは高橋から視線を逸らさなかった。
「最初から、ずっと応援すると決めて入る人ばかりじゃないと思います。テレビで一度見ただけとか、曲を一曲だけ知ってるとか。それでも、少し気になると思って来てくれたなら、私は嬉しいです」
高橋は黙って聞いていた。
「そこで私たちのことを知って、好きになってもらえるかもしれない。すぐに退会する人もいると思います。でも、最初から熱量が高い人だけの場所にしたら、新しい人は入りにくいです」
「古参と新規を分けないということか」
「はい」
ユイの声は、少し震えていた。それでも、自分の言葉で続けた。
「私たち、ファンの人に順位をつけたくないです。長く応援してくれた人には、もちろん感謝しています。でも、今日知ってくれた人も、同じように大切にしたいです」
リナも口を開いた。
「会費を高くして、さらに上位会員のコースを作る案にも反対です」
担当者が資料をめくる手を止めた。試算表には、月額千二百円の通常会員と、月額三千円のプレミアム会員を設ける案が記載されていた。プレミアム会員には、限定生配信、優先チケット、誕生日メッセージ、特別な会員証が用意される。
収益を上げるには、合理的な設計だった。
「三千円払った人だけが、私たちの言葉を多く聞けるのは違うと思います」
リナは資料を指した。
「チケットの先行受付も、プレミアム会員から先にする。これだと、お金を多く払える人ほど、前に行ける仕組みになります」
「資本主義とは、そういうものだ」
高橋が言う。
「支払った対価によって、受けられるサービスに差が生まれる」
「音楽を売ることは否定しません」
リナは一歩も引かなかった。
「私たちも、この仕事で生活しています。無料だけでは続けられないことも分かっています。でも、ファンの気持ちそのものを階級にする必要はないと思います」
高橋は三人の顔を順番に見た。
「では、君たちはファンクラブで利益を出したくないのか」
「利益は必要です」
ハルカが答えた。
「赤字になって、すぐになくなったら、帰れる場所にならないから。でも、できるだけ多く利益を出すことが、一番の目的ではありません」
「何が一番の目的だ」
「続くことです」
ハルカは迷わず言った。
「私たちが調子のいい時だけじゃなくて、迷った時にも続いている場所。ファンの人が、一度ライブへ来られなくても、戻ってこられる場所。それを長く守ることです」
会議室に、静寂が落ちた。以前の三人なら、高橋を前にして、ここまで自分たちの考えを話せなかったかもしれない。大手レコード会社の会議室。
並べられた試算表。スーツを着た大人たち。そのすべてに圧倒され、私の言葉を待っただろう。今、三人は自分たちで話している。
私は口を挟まず、隣で聞いていた。高橋が椅子の背もたれへ身体を預けた。
「青木君」
「はい」
「君が言わせているのか」
「違います」
私は即答した。
「三人が考え、三人が決めた方針です。私は収支と運営条件を資料にしただけです」
「君自身は、どう考えている」
「月額六百六十円、会員区分は一種類。限定コンテンツへのアクセス権も、チケットの先行受付も全員同じにすることを希望します」
「それで赤字が出たら?」
「初年度は投資として負担する。二年目以降、会員数と運営費を見直す。ただし、値上げが必要な場合は、理由と使途を会員に説明する」
「説明すれば、値上げを受け入れると?」
「全員が受け入れるとは思いません。退会する方もいるでしょう。だからこそ、使途を隠さないことが必要です」
私は試算表の別紙を開いた。
「運営費を抑えるため、豪華な会報誌の定期発送は行いません。デジタル会報を基本とします。物理的な会員証や記念品も、全員へ毎年送る形にはしない。欲しい方だけが原価に近い価格で購入できるようにします」
「特典を減らせば、加入する魅力も下がる」
担当者が言った。
「魅力を物の量だけで作らない方針です」
私は答えた。
「三人の言葉、音楽、日々の記録を届ける。そこに価値を感じてくださる方に入っていただく。その方が、長期的な継続率は高くなると考えています」
「根拠は?」
高橋が尋ねる。私は、ファンクラブの継続率に関する資料を提示した。会費の高低。特典の更新頻度。
会員限定イベントの開催回数。アーティスト本人の言葉が届けられる頻度。複数の事例を比較すると、豪華な物品よりも、本人から定期的に言葉が届く仕組みの方が継続につながる傾向が見られた。
「ただし」
私は資料を閉じた。
「今回は、数字だけで決めるつもりはありません」
高橋が片方の眉を上げる。
「君の口から、その言葉を聞くとはな」
「数字は必要です。しかし、数字のために、三人が作りたい場所の意味を失えば、ファンクラブを発足する価値そのものがありません」
高橋は、しばらく何も言わなかった。
やがて試算表を手元へ引き寄せ、ペンを取る。通常会員とプレミアム会員の間に、大きな斜線を引いた。
「会員区分は一種類」
次に、月額千二百円の数字を消した。
「月額六百六十円。ただし、初年度の会員数が想定の七割を下回った場合、コンテンツ制作費を再協議する」
「値上げではなく、まず制作方法を見直すという条件であれば受け入れます」
「相変わらず、最後まで条件をつける」
「三人の居場所を守るためです」
高橋は苦笑し、三人を見た。
「君たちも、随分と青木君に似てきたな」
ユイが首を振った。
「青木さんが、私たちに似てきたんだと思います」
高橋は一瞬、驚いたような表情を見せた。
やがて声を上げて笑った。
「なるほど。その可能性もあるか」
その笑いによって、張りつめていた会議室の空気が少しだけ緩んだ。ファンクラブ発足の企画は、正式に承認された。
4
運営の準備が始まった。名称は、すぐには決めなかった。三人がいくつかの候補を出したが、どれも決め手に欠けた。LUMINA ROOM。
LIGHT HOUSE。LUMINA PORT。光の部屋。帰る場所。
どれも思いを表してはいるが、三人だけで決めてしまうことに、ユイが違和感を示した。
「ファンの人も一緒に作る場所なら、名前も一緒に決めたいです」
そこで、発足時は単に「LUMINA Official Fan Club」として登録を始め、最初の会員から名称を募集することになった。
サイトの最初の画面には、三人の写真を大きく載せなかった。代わりに、白い背景の中央へ、ハルカが書いた文章を置いた。ここは、LUMINAと皆さんが帰ってこられる場所です。
毎日来なくても大丈夫です。すべてのライブへ来られなくても、グッズをたくさん持っていなくても、応援してきた時間が短くても、その気持ちに違いはありません。
私たちも、元気な日だけではなく、迷っている日があります。そんな時にも、互いの存在を思い出せる場所にしたいと思っています。三人の言葉の下に、私からの説明も掲載した。
会費の使途。個人情報の管理方法。コメントが掲載されるまでの手順。誹謗中傷や会員間の攻撃を認めないこと。
限定情報を無断で転載した場合の対応。退会はいつでも可能で、引き止める仕組みを設けないこと。会員数や売上にかかわらず、メンバー間の人気を比較する企画は行わないこと。
「青木さんの文章だけ、契約書みたいです」
ユイが言った。
「大切なことだから、曖昧にはできません」
「でも、少し怖いです」
「では、三人の言葉で柔らかく直して」
最終的に、私の文章は半分ほど書き換えられた。誹謗中傷は禁止します、という一文の前には、ハルカが考えた言葉が加わった。誰かを好きな気持ちが、別の誰かを傷つける理由にならない場所を、一緒に作ってください。
退会についての説明には、ユイの言葉が加わった。少し離れたくなった時は、無理をしないでください。また会いたくなった時に、帰ってきてもらえたら嬉しいです。
限定情報の取り扱いについては、リナが書いた。ここでしか見せられない私たちを守るために、外へ持ち出さないでください。それが、この場所を長く続ける力になります。
三人の言葉が加わると、規則は単なる禁止事項ではなくなった。なぜ守ってほしいのか。何を一緒に守るのか。その思いが伝わる文章になった。
最初のコンテンツについても、三人で考えた。月に一度、三人が今の気持ちを話す音声配信。完成していない振付や、練習の途中を記録する短い動画。
三人が順番に書く日記。ファンから届いた質問へ答えるページ。ライブへ来られない人のための、限定写真と舞台裏の文章。誕生日には、豪華な映像ではなく、三人が会員のために歌う短い音声を届ける。
「更新日を固定しすぎない方がいいです」
リナが言った。
「毎週何曜日って決めると、無理してでも撮らなきゃいけなくなるから」
「ただ、何ヶ月も何も届かなければ、会員は不安になる」
私が答える。
「最低限の更新回数だけ決めて、内容はその時の状態に合わせるのはどう?」
ハルカが提案した。
「月に一度は、三人の誰かから言葉を届ける。でも、動画じゃなくてもいい。短い文章だけの日があってもいい」
「三人全員が出なくてもいい?」
ユイが尋ねる。
「もちろん。休んでいる人を無理に出さない」
私はノートに記した。
「その代わり、出られない理由を詳しく説明する必要もないことにしましょう。今日は二人で届けます、それだけでいい」
「ファンの人に、心配をかけませんか」
「心配する人はいると思う。でも、休むたびに理由を説明しなければならない場所にしたら、三人にとって帰れる場所ではなくなるわ」
三人は納得したように頷いた。最初の動画は、事務所の会議室で撮影することになった。壁には、四人で作った約束の紙が貼られている。三人は、衣装ではなく私服で並んだ。
カメラは一台。撮影スタッフも一人だけ。台本は作らなかった。話す内容は、ファンクラブを作ろうと思った理由だけだった。
「皆さん、こんにちは。LUMINAです」
ハルカの挨拶から始まる。
「私たちは少しの間、皆さんの前から離れていました」
ユイが続ける。
「その間に、たくさんの手紙をいただきました。待ってるよって書いてくれた人、ゆっくりでいいよって言ってくれた人。その言葉に、何度も助けてもらいました」
リナはカメラをまっすぐに見た。
「活動している時だけつながるのではなく、止まっている時にも互いを思い出せる場所が必要だと思いました」
ハルカが微笑む。
「ここでは、完璧な私たちだけを見せるつもりはありません。うまくいかなかった日も、迷っている日もあります。それでも一緒に歩いてくださる方に、私たちの今を届けたいと思っています」
ユイが、少しだけ身を乗り出した。
「皆さんが、この場所へ素敵な名前をつけてください。帰ってきた時に、ただいまって言えるような名前を、一緒に考えてもらえたら嬉しいです」
一度で撮影を終えた。ユイは途中で言葉に詰まり、リナも話し始めるタイミングが少し遅れた。
それでも撮り直さなかった。三人が今の言葉で話した映像だった。公開前、高橋が動画を確認するため事務所を訪れた。最後まで無言で見た後、腕を組む。
「編集しないのか」
「不要だと思います」
「間が長い。ユイが言葉に詰まった部分もある」
「そのまま出します」
「以前の君なら、三秒の沈黙も切っただろう」
「以前は、迷っている時間に価値があると思っていませんでした」
高橋は壁の約束へ目を向けた。
「君は本当に変わったのか。それとも、今だけ慎重になっているのか」
「分かりません」
私は正直に答えた。
「また焦ることもあると思います。数字を優先したくなる日も来るでしょう」
「随分と弱気だな」
「完璧に変わったと宣言する方が、無責任だと思っています」
高橋はしばらく私を見つめた。
「それなら、数字を見る人間は私が引き受けよう」
「どういう意味ですか」
「君まで数字を捨てる必要はない。ただ、三人のそばで数字を見ることが苦しい時は、私へ持ってこい。採算と理念の間に立つのが、プロデューサーの仕事でもある」
「高橋さんが理念を語るとは思いませんでした」
「利益の出ない理念は長続きしない。理念のない利益も、いずれ客に見抜かれる」
高橋は動画の画面を止めた。そこには、言葉を探して少し俯いているユイと、待っているハルカとリナが映っていた。
「この間を残せ」
「そのつもりです」
「ファンが何を求めるのか、私にも興味がある」
高橋は立ち上がり、会議室を出ようとした。
「高橋さん」
「何だ」
「入会してくださいますか」
彼は振り返った。
「私が?」
「この企画に投資する以上、会員の目線も知っておいた方がよいのでは?」
高橋は眼鏡の奥から私を見つめた。
「会費は経費で落ちるのか」
「月額六百六十円です。そのくらい、ご自身でお支払いください」
「レーベルのチーフプロデューサーからも金を取るのか」
「ファンの気持ちに、役職による無料枠はありません」
高橋は呆れたように息を吐いた。
「検討しておく」
そう言って部屋を出た。
翌日、運営会社から届いたテスト会員の一覧には、高橋の名前があった。表示名は、本名ではなく「T」だけだった。私は何も言わなかった。運営の準備が終盤に入った頃、経理担当から会計処理の確認が来た。
ファンクラブ会費は、前受金として計上したうえで、月割りで売上へ振り替える。物販や公演収入とは別の勘定になるが、最終的には同じ一本の線へ流れ込む。スターライトエージェンシーの、営業利益という一行へ。
私は書類の、その一行をしばらく見ていた。
「何か問題ありますか」
経理担当が尋ねる。
「いいえ。処理はこれで正しいです」
実際、正しかった。会員が増えれば、事務所の利益が増える。当たり前のことだった。三人の生活が安定し、スタッフへ正当に払え、次の会場を借りられる。四年間、私が欲しがってきたものそのものだ。
それなのに、そのとき、指先の奥に薄い違和感が残った。何かを見落としている、という感覚だけがあって、何を見落としているのかが分からない。
大類社長は、その表を見て機嫌がよかった。
「三十人で始めたのに、もう千を超えるのか」
「まだ初月です」
「利益率が違うんだよ、こういうのは。在庫もいらん、輸送もいらん」
「解約率を見てから判断してください」
「お前は本当に、いいことがあると先に悪いことを探すな」
私は何も言い返さなかった。悪いことを探していたのではない。探し当てられないまま、探していただけだった。
5
ファンクラブの受付開始は、金曜日の午後八時に設定された。三人は事務所の会議室に集まっていた。テーブルには、四つのカップが並んでいる。
ハルカの深い青。ユイの淡い黄色。リナの白。私の濃い緑。
仕事の話を始める前に、四人でサンドイッチを食べた。大類はピザを注文したがったが、緊張で食べられなくなるというユイの意見で、軽いものに変えた。
受付開始まで、あと五分。ユイは時計を見て、落ち着かない様子でカップを持ち上げていた。
「誰も入ってくれなかったら、どうしよう」
「それはないでしょ」
リナが答える。
「三十人は入ってくれる」
「三十人だけ?」
「この前来てくれた人は、全員入ってくれると思う」
「入れなかった人もいるわ」
ハルカが言った。
「でも、六百六十円払うんだよ。手紙をくれた人が、みんな入れるとは限らないよね」
「入らなくても、応援していないことにはならない」
私は言った。
「分かってます。でも、数字が出ると思うと怖いです」
「会員数を、三人に見せない方法もあるわ」
「それは嫌です」
ユイはすぐに答えた。
「知らないままにするのも怖いから」
「では、どのくらいの頻度で確認する?」
「一時間ごとは多すぎるよね」
ハルカが言う。
「一日一回?」
リナが提案する。
「最初の一週間だけ、一日一回。その後は月に一回でいいと思う」
三人の意見がまとまる。
「分かった。私も同じ頻度で確認する」
「青木さんも?」
「私だけが毎時間見ていたら、数字に反応して余計な企画を考えるかもしれないから」
「自分で分かってるんですね」
リナが言った。
「少しずつね」
午後八時。運営スタッフが受付開始の操作を行った。同時に、公式SNSと公式サイトで発足を発表する。三人の最初の動画も公開された。
ユイが自分のスマートフォンを伏せる。
「見ないの?」
ハルカが尋ねる。
「今見たら、更新を押し続けると思う」
「青木さんと同じになってきた」
「それは困る」
四人で笑った。最初の会員数を確認するのは、午後九時と決めた。その一時間は、名称募集へ寄せられる候補だけを見ることになった。会員数は表示せず、名前と込めた意味だけが画面に流れる設定にしている。
最初の候補が届いた。
『LUMINA LIGHTS』
LUMINAとファン、一人一人の光が集まる場所という意味だった。次は、『Three Stars』。三人が迷っても、空を見れば同じ星を見つけられる場所。
『LUMINA PORT』。
長い航海から帰る港。
『灯りの部屋』。
疲れた時に、小さな灯りがついている部屋。
『LUMINA HOME』。
離れても、帰りたい時に帰れる家。
『NOCTURNE』。
LUMINAの都会的な夜のイメージから考えた名前。
『Luminous Path』。
三人とファンが、それぞれの歩幅で進む道。次々に候補が届いた。添えられた言葉を読むたび、三人の表情が変わる。
「みんな、すごく考えてくれてる」
ユイが言った。
「名前だけじゃなくて、理由まで」
「この人、ライブへ一度も来たことがないんだって」
ハルカが画面を指す。
「でも、ずっと曲を聴いてくれてたみたい」
リナは『LUMINA PORT』という候補を見つめた。
「港もいい」
「でも、HOMEも分かりやすいよ」
ユイが言う。
「名前は投票で決める?」
「数が多いものを選ぶだけでいいのかな」
ハルカが考え込む。
「三人が呼びたい名前も大事だと思う」
私は口を挟まなかった。名称の決め方も、三人と会員で作っていけばいい。
午後九時になった。運営画面を開く。会員数を表示する前に、ユイが私の手を止めた。
「待って」
「どうしたの」
「何人だったら、成功ですか」
誰も答えられなかった。企画書には、初月の目標会員数が記載されている。運営費を回収するために必要な人数。年間の収支を安定させるための人数。
次のライブで、一定の動員を見込める人数。私はすべて把握していた。
「事業としての目標はあるわ」
私は答えた。
「でも、今夜、その人数へ届かなかったから失敗になるわけではない」
「一人でも入ってくれたら成功?」
「事業としては、一人では続けられない」
曖昧に慰めるのではなく、事実を伝えた。
「ただ、一人を数字の一としてだけ見れば、少なく感じる。でも、その一人が六百六十円を払って、私たちの作る場所へ入りたいと思ってくれた。その重さは、人数だけでは決められない」
リナが頷いた。
「じゃあ、見る時は、一人ずつに生活があるって思い出そう」
「うん」
ハルカが言う。
「数字を見て、少ないって言うのはやめよう。もっと来てほしいとは思っても、今いる人を足りない人みたいに扱わない」
ユイが深く息を吸った。
「見ます」
私は画面を開いた。受付開始から一時間の会員数が表示される。三人が息を呑んだ。想定していた初日の目標を、一時間で大きく上回っていた。
ユイが両手で口元を覆う。
「こんなに?」
「数字、合ってますか」
ハルカが尋ねる。
「決済の完了数だから、間違いではないわ」
リナは画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「この人たち全員が、待っててくれたんだ」
その言葉に、会議室が静かになった。大類が廊下から顔を出す。
「どうだった! 何人だ!」
「社長、声が大きいです」
「目標、超えたのか?」
私は数字を見せた。大類の目が大きく開く。
「すごいぞ! この勢いなら、月額をもう少し上げても――」
「社長」
四人の声が重なった。大類が口を閉じる。
「冗談だよ」
「目が本気でした」
リナが言う。
「少しだけだ」
「駄目です」
ユイが笑った。会員数は、その後も増え続けた。
しかし、三人は午後九時以降、運営画面を開かなかった。代わりに、届いた名称候補と最初のメッセージを読んだ。ここへ入れて嬉しいです。これから、よろしくお願いします。
毎日来られないけれど、ずっと応援しています。休みたい時は休んでください。三人が帰ってくる場所を、私たちも一緒に守ります。一つのメッセージに、ユイの手が止まった。
『LUMINA HOME』という名称を提案した会員からだった。
家は、毎日楽しく過ごすだけの場所ではありません。疲れて帰る日も、何も話したくない日もあります。
それでも、扉を開けた時に灯りがついているだけで、安心できることがあります。このファンクラブが、LUMINAの三人と、三人を好きな人たちにとって、そんな場所になればいいと思います。
ユイは、メッセージを声に出して読んだ。読み終えると、会議室の壁に貼られた約束の紙を見た。
「私、この名前がいいです」
「LUMINA HOME?」
ハルカが尋ねる。
「うん。ファンの人が帰る場所だけじゃなくて、私たちも帰れる場所だから」
リナは画面の文字を見つめた。
「分かりやすいし、呼びやすい」
「でも、すぐ決めない方がいいよね」
ハルカが言う。
「他の名前を考えてくれた人もいるから、全部見てから決めたい」
「それがいいと思う」
私は答えた。
「募集期間を一週間にして、その後、三人が最終候補を選ぶ。会員の投票だけで決めるのではなく、三人の気持ちも伝えた上で相談しましょう」
「四人で?」
ユイが尋ねる。私は少し考えた。
「名前を呼ばれるのは三人だから、最後は三人で決めていいと思う」
「青木さんは入らないんですか」
「私は運営する側だから」
「でも、青木さんも帰ってくる場所ですよ」
ハルカが言った。
「四つのカップがあるんだから」
テーブルには、色の違うカップが並んでいる。私は濃い緑のカップへ手を伸ばした。以前なら、自分は裏方だからと断っただろう。三人が光の中心に立ち、私は外から守る。
そうやって自分の居場所を決めてきた。けれど、三人は私も同じ家へ帰るのだと言ってくれている。
「では、四人で決めましょう」
私が言うと、ユイが笑った。窓の外には、夜の街が広がっていた。ビルの窓に、一つ一つ異なる灯りがついている。その光の向こうには、それぞれの生活がある。
仕事から帰った人。食事をしている人。一人で音楽を聴いている人。誰かと話している人。
LUMINAを応援している人も、今、同じ画面を見ているかもしれない。
一週間後、寄せられたすべての候補を読み、会員からの意見も聞いた上で、ファンクラブの名前は正式に決まった。LUMINA HOME。ロゴの下には、ハルカが考えた短い言葉が添えられた。
離れても、迷っても、また光のそばへ。名前の発表と同時に、三人は最初の音声を届けた。豪華なスタジオではなく、いつもの会議室で録音したものだった。
「ただいま」
ハルカが言う。
「おかえり」
ユイが答える。
「ここにいる皆さんにも、同じ言葉を届けたいです」
リナが続けた。
「帰ってきた時は、ただいまと言ってください。少し離れる時は、行ってきますでも、またねでも大丈夫です」
最後に、三人の声が重なった。
「LUMINA HOMEへ、ようこそ」
録音を止めた後、三人は少し照れたように笑った。私は公開の操作を行い、画面を閉じた。すぐに会員数や反応を確認することはしなかった。今、この場所には名前がある。
誰かが戻りたいと思った時に、呼ぶことのできる名前がある。それだけで、十分だった。四つのカップから、温かな湯気が立ち上っていた。私たちは同じテーブルを囲み、窓の向こうに広がる無数の灯りを見つめた。
LUMINA HOMEの扉は、静かに開かれたばかりだった。




