5話 ~オオサンショウウオ~
「ひふー……」
あまり聞き馴染みのない、気の抜けた吐息と共にリビングへと戻ってきたのは、シャワーを浴び終えたばかりの真利亜だった。
少しだけ湿り気を帯びた黒髪のボブカットは、朝の光を湛えてしっとりと輝き、どこぞのアイドルグループのセンターでも通用しそうな彼女の美貌を、より一層引き立てている。
しかし、そんな彼女の釣り上がった瞳が、テーブルの上を捉えた瞬間に細められた。
そこにいたのは、さっき自分の頭の上を不法占拠していた、あの黒くてぬめぬめした体に愛嬌のある顔を持つオオサンショウウオ――フレイヤの魔法生物だった。
「すばらしいな……」
いつもは感情をほとんど表に出さず、淡々と喋る兄の招福が、珍しく心底感心したような声を漏らしていた。
「……ちょっと、何してるのよ?」
真利亜が怪訝そうな顔で、兄と金髪の美女から少し距離を置いて問いかける。招福はエプロン姿のまま、テーブルの上の生き物を指差して振り返った。
「いや、フレイヤがね。この『ぬめぼん』という生き物は、生命を持たないものなら何でも食べることができると言うからさ。試しに、キッチンに溜まっていた生ゴミを食べてもらったところなんだよ」
「生ゴミ!?」
真利亜のアイドルのような顔が、一瞬で引きつった。
「ちょっと大丈夫なの、そんなの食べさせて!? お腹壊して、テーブルの上でブッと吐き出したりしないでよ!?」
真利亜は『ぬめぼん』と呼ばれたオオサンショウウオを恐る恐る凝視した。しかし、ぬめぼんは腹を壊すどころか、短い四肢をペタペタと動かし、心なしか嬉しそうな顔でつぶらな瞳を輝かせている。
「食べる、ではありません。正しく言うと、吸い込む、です」
フレイヤが、パジャマの長すぎる袖からすらりとした手を出し、拙い日本語で補足の説明を入れた。モデルのような美しい顔立ちを、今はどこか誇らしげに輝かせている。
「『ぬめぼん』はその魔法を持っています。なので、自分の体より大きい、石や木も、ぜんぶ吸い込みます。消えます」
「へー……。魔法って、意外と生活に便利なのね」
真利亜は呆れ半分、感心半分といった様子で、小さな肩をすくめた。
「んぼー!」
突如、テーブルの上で『ぬめぼん』が奇妙な声を張り上げた。
「……な、なに?」
「撫でて欲しい、と言っています」
「ええ?!なんでよ!」
驚きの余り真利亜は声を張り上げた。
「んぼー……」
ぬめぼんは再び鳴いた。しかし、今度の声には先ほどのような張りがなく、どこか力抜けた響きだった。
「あー……、ぬめぼんが悲しんでいます」
フレイヤが、モデルのような端正な顔をこれ以上ないほど痛ましげに曇らせて呟く。
「どうしてよ?」
「動物というのは繊細だからね」
隣から、兄の招福が感情の起伏のない淡々とした声で口を挟んだ。
「撫でるのを本気で嫌がった真利亜の拒絶を、敏感に察知してしまったのだろう。かわいそうに、すっかり落ち込んでしまっている……」
見れば、ぬめぼんは小さな四肢をちんまりと折り畳み、テーブルの隅で悲しそうに頭を垂れていた。ぬめぬめした体表が、心なしか朝の光の中で寂しげに光っている。
「仕方ないじゃない。私は爬虫類とか両生類とかそういうぬめぬめした生き物は苦手なのよ。それに、今シャワーを浴びて上がってきたばっかりだし」
「ぬめぼん、悪くない」
フレイヤが落ち込んでいるぬめぼんを撫でながら、冷たい視線を真利亜に向ける。
「フレイヤ、兄として妹の失態を謝らせてくれ。申し訳なかった」
招福が淡々と頭を下げると、真利亜の釣り上がった大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
「なによ、なんなのよその目は……!」
フレイヤの異国情緒あふれる冷ややかな青い瞳と、兄の平凡で容赦のない視線を同時に浴びて、真利亜はたじろぎながら声を荒らげた。
「真利亜、悪い事をした時はどうするんだ?」
「私は悪い事なんかしてないわよ! いきなり頭の上に乗られた被害者よ!」
「真利亜……」
招福がいつも通りの平坦な声で、けれど有無を言わせぬトーンで妹の名前を呼んだ。
二対一の圧倒的なアウェー。真利亜は、ぐっと言葉を詰まらせ、観念したように肩を落とした。
「……分かったわよ! ごめんなさい! 私が酷いことを言っちゃったわよ。ぬめぼん、ごめんなさい!」
真利亜は不貞腐れた顔のまま、テーブルの上のオオサンショウウオに向かって、投げやり気味に頭を下げた。
「よく謝れたな。偉いぞ、真利亜」
「子供扱いしないでよね!」
お座りを覚えた犬を褒めるような兄の態度に、真利亜は寝癖のついた黒髪を揺らして激しく噛みついた。
「んぼー」
ぬめぼんがまた鳴いた。心なしか、先ほどよりも傲然とした響きがあった。
「フレイヤ、ぬめぼんは今、何と言っているんだ?」
招福の問いかけに、フレイヤはぬめぼんをじっと見つめ、それから大真面目な顔で薄い唇を開いた。
「……許さない、と言っています」
「なんでよ!」
真利亜は、首にかけていたスポーツタオルをリビングのフローリングへと力任せに叩きつけた。
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