第九話 背骨はやがて、灰となり —— 陸
深い海の目印——三角岩の向こうで夕陽が輝く様は、いつか私の背を焼いた炎を彷彿とさせる。
炎と夕焼け、ガマズミの実と兎の瞳。これらが少しずつ違いながらもどうしようもなく似ている理由を、私は終ぞ知らないまま。
調べることもせず、勝手に『美しいから』と納得している。
浜を漕ぎ出してしばらく。私は三角岩を見据えたまま言った。
「いい天気だな」
板の舟から返事はない。
「いい景色だな」
兎は何も言わず、隣からは櫂が水を掻く音がするだけ。
「三角岩に着いたら、私は魚を取って食べようと思うが、君は何か食べるものを持って来ているか?」
尋ねたら、ようやく兎が「ないよ」と答えた。
「見ればわかるでしょ。私は何も持って来てない」
どこか不機嫌そうな声。私はそれに安堵する。
「じゃあ、今日は君も魚を食べてみるか?」
「食べないよ。私は草と木の実が好きだから」
「そうだったな」
彼方の水平線に太陽が触れる。冬の氷が溶けるように、燃える火が消えるように、落ちていく。
私の背骨の熾火は消えない。例え水底まで沈もうとも。
「腹が減っただろう」
私は、今この瞬間に思いついたように言う。
「私は魚を食べてから戻るから、君は先に浜辺へ引き返したらどうだ?」
横目にそっと確認すると、隣に浮かぶ板の舟から、兎がじっとこちらを見つめていた。
「……本当に、あなたは戻って来るの?」
私が「もちろん」と答えると、兎は悔しそうに「嘘つき」と言う。
ふと、夕陽が消えた。
青白い夜が周囲を満たし、土に染みた海水が私の足先を湿らせる。
櫂を掛けていた縁が崩れ、波がざぱっと音を立てて舟の中へ。
「やあ、大変だ。舟が壊れてしまったな」
私は敢えてやれやれと首を振り、お手上げとばかりに櫂を放り投げる。海水は横から飛び込み、下から湧き出し、私に染みる。
「ああ、困ったな。沈んでしまう」
ずぶ濡れの体を見下ろしたところで、「『助けて』って言わないの?」と兎の声。「言ったら助けてくれるのか?」と問いを返すと、彼女はこちらへ櫂の先を伸ばした。
「掴まって」
苦虫を噛み潰したような顔をしているのは、きっと、心の中が揺れているからだろう。
ジジイに誓った仇討ちを果たすべきか、目の前の沈みゆく私を助けるべきか。
そんなものを悩む必要など、どこにもないだろうに。
「違うだろう」
私は差し伸べられた櫂を手の甲で払い、「違うだろう」と繰り返す。
「君は何をするために、ここへ来た?」
諭すように言うのは、自分に言い聞かせるためでもある。
「君は何のために存在する?」
私と彼女の境界線を見つめる。
背中の傷を思い出す。
もう痛みなどすっかり消えてしまって、あとは背骨が焼け落ちるのを待つばかり。
「今、君は、草も木の実も持っていない。だが、何も持っていないわけではないはずだ」
夕焼けに照らされる彼女の白い毛は、柔らかな布団のようで可愛らしい。
今、夜の星々の輝きを反射する彼女の姿は、月の化身を思わせる。
「君には、やるべきことがあるだろう」
兎はぎゅっと口を噛み締めると、櫂を置いて立ち上がった。舟と共に沈みゆく私を見下ろす。
「ざまぁ見ろ! おばあさんを殺して、おじいさんにババア汁を食べさせた報いだよ!」
張り上げられた彼女の声は、夜の静寂に溶けて消えた。土の舟が崩壊して、一足先に水底へ落ちていく。
私もまた沈みながら、「それでいい」と言おうとして、
「どうして、あんなことしたの?」
ぽろぽろ溢れる兎の涙に閉口した。
月光を反射する大粒の涙が、流れ星のように落ちていく。綺麗だ、と思った。
「面白いからさ」
「嘘。……あなたはいっつも、嘘ばっかり」
「どうして嘘だと思う?」
「それは、わからないけど……」
私は水面で半纏を脱ぎ捨てる。能天気な色使いのそれは、ぷかぷか浮かんだまま沖の彼方へ流れていった。
露わになった背中の毛に海水が染みて、ひりっとした痛みが脊髄を走る。
未だ火を灯したままの背骨の奥に、海水がひたひたと流れ込む。私の体は沈んでいく。
「わからない、けど……あなたは、あんなことをしないと、確かに思うの」
海水が顔に打ち付け、呼吸を阻む。
私はそれを受け入れ、しかし顔を傾けた。最後まで耳が沈まぬように。彼女の声を聞いていられるように。
「ねえ、あなたはどうして、あの日、私に声をかけて来たの? あなた、本当は誰なの?」
泣いている彼女に、私は今、何を言うべきか。
「……誰でもない」
そんなことはわかりきっている。
私は悪。惨たらしくババアを殺し、残虐な形でその死をジジイに突きつけた、礼儀正しい悪役だ。
彼女に打ち滅ぼされるべき私に、彼女の涙を止める権利はない。
「私は君にとって何者でもなく、君も、私にとって何者でもない。偶々そこにいただけの、何の因果もない存在だ」
沈む。
兎が口を開き、何かを言いかけた瞬間、私の顔に大きめの波が打ち付けた。
そのまま顔が水に沈む。
海面の向こうに彼女の姿が歪んで見えるが、その表情を窺い知ることはできない。
波に閉ざされた聴覚は水音だけを伝え、透明の向こうの彼女の姿が遠ざかる。
(ああ、やっと終わった)
歪んだ月、歪んだ星空、板の舟の底、夜の淡い光。何もかもが向こうへ。私は世界から離れていく。
細長く巨大な魚が眼前を通過した。
岩陰で眠る小魚が、ぷかぷかと口を動かしている。何か、美味いものを食べる夢でも見ているのだろうか。
(終わった、終わった)
水の中にあってなお、私の背骨は燃え続けている。それは水底に至っても変わることなく、燃え尽きた骨は海底の虫も食わない。
(これで、彼女の物語が始まる)
徐々に暗くなる景色の中、私は、あの山が実り多き秋を迎えることを祈った。




