第十話 水底の後悔
私は兎を愛していたわけではない。
そもそも、私はタヌキで彼女はウサギ。互いに恋愛対象外だ。
彼女は、ただそこにいただけだ。
春の花々や夏の入道雲、秋の紅葉や冬の薄氷——そんなものと同じように。
花の香りを、青空を、山々の色彩を、氷の輝きを愛でることはあっても、草木や太陽を愛することはない。
だから私は彼女がいる世界にいただけで、彼女もまた、私がいる世界に居ただけのこと。
ただ、それだけの話。
* * *
私と兎の出会いは偶然だった。
偶々同じ時代の同じ山に生まれ、同じ時間を生き、ふと、ある時、互いの道が交わっただけ。
初めて会った日、私たちは二、三言葉を交わして別れた。
次に会った時、私たちは互いの好きな食べ物を語った。
その次はよく行く場所を紹介し合った。
ちょうど秋だったので、私はとっておきの栗の木がある丘を、彼女は柔らかい草が生える崖を教えた。
それから、私たちにとってはそこそこ長い時間が、世界にとっては刹那の時が流れ、私たちは毎日会うようになった。
会うと言っても、別段何かをするわけではない。
天気の話をしてみたり、静かな草むらで昼寝をしてみたり、川の上流を辿ってみたり、いつも行かない道の先で美しい花園を見つけたり。
何でもない時間を過ごしていた。
つまり、私たちの間に物語はなかった。
運命的な出会いも、劇的な日々も、おかしな出来事も、驚くべき瞬間も。
私たちはただ、そこにいた。
それだけで良かった。
それが一番、幸せだった。
あの老夫婦と私がかつてある程度友好的な関係にあったことは、今となってはまるで嘘のような話だ。
兎と出会うより前、私は時折ジジイの畑を訪れた。
木陰に座る私を認めたジジイは、「タヌ公、また来たのかい」と声をかけた。私が鳴いて返事をすると、まだ濁ってない瞳で微笑んだ。
秋の収穫期、その日の作業を終えたジジイが、稀に芋を投げて寄越すことがあった。「婆さんには内緒だよ」と言って帰っていく。
私は翌日、木苺のたくさん生った枝を折って持っていく。休憩中のジジイの横に置いてやると、彼は「賢いタヌキだね」と感心した様子で言った。
ジジイは木苺が好きなようで、私は彼にたくさん生える窪地を教えてやろうと思ったが、何度森へ呼んでも彼がついて来ることはなかった。
そう。この時のジジイは木苺の窪地を知らず、それからもずっと知らないままだった。彼がいつも森で何も得られなかったのは、単に森歩きが下手くそだったというだけの話。
ババアはタヌキがあまり好きではないようだったが、ある日私がジジイの後を歩いて家を訪れても、追い払うことはしなかった。
「家には入らないでおくれよ」
私がその言いつけを守って玄関の戸口にいると、「まるで人間の言葉がわかるようだね」と呟き、夕餉の魚の切れ端をくれた。
私たちは近づき過ぎず、離れ過ぎない距離で存在していた。だから私は忘れていた。
日々を兎と過ごすようになってからしばらく。
私たちが森を歩いていると、偶然ジジイが通りかかった。
「おや。お前、いつものタヌ公かい?」
驚いた兎は私の後ろに隠れ、私はしばらくジジイと見つめ合った。
「最近めっきり来なくなったじゃないか。元気にしてたかい?」
「キュー……」
「婆さんが、お前の姿が見えないって寂しがってるよ。今度会いに来てやってくれな」
「キュ」
ジジイは「じゃあなぁ」と言って去って行った。その手には、獣の匂いがする袋が一つ、ぶら下がっていた。
私はこの時に思い出すべきだった。
しかし、私はどうしようもなく愚かで、
「狸は人間と知り合いなの?」
恐る恐る尋ねる兎に、己のすごいところを見せたくなった。
「そうだ。あのジジイと番のババアとは見知った仲で、時々食べ物をもらうことがある」
「人間から、食べ物を?」
「ああ」
「すごいね。人間は山から食べ物を持っていくことはあっても、私たちにくれることなんてないのに」
兎が「どうやったの?」と首を傾げ、私は「簡単なことだ」と答える。
「ジジイの畑か、彼らの家。どちらかの近くの目につく場所に座っていると、芋とか魚を投げてくれる」
「芋はいいけど、魚かぁ……」
「春に行けば、高確率で栗の実をもらえるぞ」
愚かな私は得意げに言って彼女の問いを待った。「どうして春なのに栗なの?」と彼女が期待通りに尋ねてくる。
「冬は人間にとっても厳しい季節だ。飢え死にしないよう、秋にたくさんの食糧を貯めて、少しずつ食べて、無事に春を迎えられたら残りを食べ尽くす」
「でも、そんなに置いておいた栗の実じゃ、芽が出てるんじゃない?」
「それが、出ていないんだ。人間は栗の実の管理が上手い」
私は「しかも」と続け、とっておきの秘密を話すように声を顰め、「うんと甘い」と付け加える。
「甘いの?」
「ああ。不思議なことに、栗の実は上手く貯蔵すると甘くなるらしい」
兎は「へえ」と言って微笑み、「食べてみたいなぁ」とふわふわの頬に手を当てた。
「あなたが昨日教えてくれた、とっておきの栗の木の実とどっちが甘い?」
「……私が教えた方だ」
「本当に?」
「……ああ」
「ふふっ。それ、嘘でしょ」
「…………」
「春は栗の実で、今は何をもらえるの?」
「……秋はほとんど魚だ」
本当は魚と芋の確率が半々だが、私は何だか悔しくて嘘をついた。「魚かぁ」と独りごちる彼女は、私の嘘を信じたようで、
「あなたにとってはいい季節だね」
と微笑んだ。私がよく魚を捕まえに川を訪れるのは、魚を見た彼女が「綺麗」と言って笑うからで、別段好物というわけではないけれど、
「ああ」
私は深く考えずに肯定した。
兎が姿を消したのは、この翌日のことだった。
私はきちんと話すべきだった。魚が好きなのではなく、君の笑顔が好きだったのだ、と。
兎は魚をもらいに行った。
私が肉の臭いタヌキだから狩らずにいただけの、老夫婦の家へ。
彼女は私の言葉を最後まで信じていたのだと思う。
あの老夫婦は森の動物に食糧を分け与える、私たちにとって無害な存在だと。
私の鈍足とは違う、俊敏な彼女の足なら、簡単に逃げられたはずだから。
兎の息の根を止めたのは人間。しかし、彼女を殺したのは私だ。
* * *
水底の暗がりに至ってなお、私は己の罪を数えている。
それから、背骨が灰と化した後に向かう先を。
正義を学ぶ桃源郷があるのなら、悪を煮詰める地の底も存在するだろうか。
そこで悪を研ぎ澄ませたなら、彼女のように、この場所へ戻ることができるだろうか。
彼女と正反対のものとして。
正義の傍らにある悪として。
(そうしたら、また、君は私を殺してくれるか)
水底は暗く冷たく、どこまでも静かだ。眼前を巨大魚が泳ぎ去っても、微かな物音ひとつしない。




