エピローグ 泡沫に消えず
兎はお爺さんの元を訪れて、言いました。
「おじいさん、やったよ」
囲炉裏のそばで項垂れていたお爺さんはパッと顔を上げて、兎を家の中へ招き入れました。兎が向かいに座るや否や、「やったとは、もしや」と瞳を輝かせます。
「うん。おばあさんの仇討ち」
「そうかい、そうかい、ありがとうなぁ。タヌキは苦しんでおったかい?」
「……うん」
兎はズキズキ痛む胸を押さえて、狸のことを話し始めました。
「芝を運ぶのを手伝ってもらうフリをして、狸の背負い子に火をつけたよ」
「おお! よく燃えたかい?」
「うん。メラメラ燃えて、狸は『熱い、熱い』って地べたを転がって、火傷は背骨が見えるくらい」
「おお、それはすごいなぁ」
兎は話しながら、背中を焼かれても平然としていた狸を思い出しました。
『君の分の芝も、私が持って行こう』
そう言う彼は、痛みを受け入れているような顔だった——と。
「それからね、火傷に辛子味噌を塗ってやったの」
「何と! 辛子味噌だって?」
「うん。『熱い、熱い』って言って痛がって、巣穴を転げ回ってたよ」
「それは大したものだなぁ」
あれが薬などではないことを兎が知ったのは、狸の背中に塗ってやってから数日後のことでした。彼が『良くなった』と棲家を訪れる前日です。
偶然森で再開した猿が、薄ら笑いを浮かべながら『狸は痛がっていたか?』と尋ねたことがきっかけでした。
「それから……それからね、狸と海に出たの」
「海に?」
「うん。私は板で舟を作って、狸は土で舟を作って」
「何だぁ。土で舟を作るなんて、狸は本当に馬鹿だなぁ」
「うん。……それで、沖の三角岩にどっちが早く着けるか競走して、……競走、して……」
胸の痛みが酷くなって、兎はここで言葉を切りました。おじいさんが「どうしたんだい?」と心配そうに言います。兎は「ううん。何でもない」と言って微笑んで、
「案の定、狸の舟は途中で壊れてしまってね、溺れる狸に、私は言ってやったんだ。『ざまぁ見ろ!』って」
「おお! それは勇ましい」
「狸は……何度も何度も、謝ってたよ。『ごめんなさい』『もうあんなことは二度としません』『だから助けてください』って」
「それで、それで、どうしたんだい?」
「そのまま、『助けて』って言いながら、沈んでいったよ」
兎の説明に、お爺さんは「あのタヌキ、死におったか!」と喜んで踊り出しました。兎は座ったままそれを眺め、ふと、狸の最後の言葉を思い出します。
『私は君にとって何者でもなく、君も、私にとって何者でもない。偶々そこにいただけの、何の因果もない存在だ』
(だったら、どうして、こんなに胸が痛いの)
ひとしきり踊ったお爺さんは、「ありがとう、ありがとうなぁ」と言って兎の手を握りました。その手のカサカサした感触に、兎は狸と手を繋いだ時のことを考えました。
『私の毛はガサガサで、人間が売り物にできないくらい醜い』
そう言った狸は、自分の姿を恥じているようでした。
『一方で、君の毛は真っ白で柔らかくて美しくて、きっと高値で売れるだろう』
この時の彼は誇らしげな顔をしていて、けれどどこか悲しげでした。
『だから、この手は離すべきだ』
そう言われた時、兎はとても嫌な気持ちになりました。
(私は、狸と手を繋いでいたかった)
どうしてそう思ったのかわかりません。ただ、間違いなく、そう思っていました。狸の手は確かにガサガサしていましたが、兎にとって、その感触はなぜだか安心するものでした。
(彼は……)
彼は一体誰だったのか。
狸はその答えを教えてはくれませんでした。
考え続ける兎は、しかし、未来永劫その答えを知ることはないでしょう。
「兎や。お礼に何か欲しいものはあるかい?」
ふと、お爺さんが尋ねました。兎は「最初にもらったよ」と言いますが、「それじゃあ足りないよ」とお爺さんは食い下がります。
「欲しいものを言ってごらん」
老いて目が少し白く濁った、優しい顔のお爺さん。兎は彼を優しい人間だと確かに思っていますが、しかし、何かが違う気もします。
(優しいのは、狸……)
残虐な方法でお婆さんを殺して、お爺さんを深く悲しませた狸。それが優しいはずなどないのに、しかし、兎はそう思いました。
「そうだ。また栗をやろうかね」
お爺さんが手を離し、「よっこいせ」と立ち上がりました。兎はそれを見上げて、「魚はない?」と尋ねます。
「魚? お前さん、ウサギなのに魚を食べるのかい?」
お爺さんの質問に、兎は「桃源郷のウサギだからね」と答えます。それは真っ赤な嘘ですが、お爺さんは納得した様子で、「少し待っててくれなぁ」と言って台所の方へ行きました。
兎の頭の中で、狸の言葉がこだまします。
『三角岩に着いたら、私は魚を取って食べようと思う』
狸は結局、魚を食べないまま死んだのでした。
* * *
葉っぱで包んだ焼き魚をもらった兎は、お爺さんの家を出て、森の中にある狸の巣穴へ向かいました。
「狸」
彼がいないことはわかっているのに、けれど兎は呼んでしまいます。
「ねえ、狸」
土手の下の方に開いた巣穴は、いつ手入れをしたかわからないくらい荒れています。
まるで、最初から彼はどこにも存在しなかったかのように。
「狸、ねえ、狸……」
兎はその場へ蹲り、それからゆっくりと顔を上げて巣穴を覗きました。
「何者でもないわけないよ。あなたは、私にとって『誰か』だったよ。あなたにとっての私もそうでしょう? ねえ、あなたは、誰だったの?」
ポロポロと涙を流して尋ねます。しかし、やはり、そこには誰もいないし返事もなく、兎はただ、魚の包みを胸に抱えて泣き続けました。




