第七話 背骨はやがて、灰となり —— 伍
兎は塗り薬を届けた次の日も私の巣穴を訪れたが、その翌日からぱたりと来なくなった。
それから二日、三日が経つものの、やはり兎は来ない。
(私の火傷が治るのを待っているのだろうか)
しかし、そういうことだと、私は永遠に兎と会えないことになる。背骨はジリジリと燃えていくばかりで、いつか燃え尽き、終わるから。
私はふと思い立って巣穴を出た。遠くの人間の村まで行って、留守の家から半纏を盗む。それを着て背中の火傷を隠し、兎がいそうなところを歩いて回った。
「兎、いるか?」
まず、近くの川の小さな死水域へ向かった。ここにはよく小魚が迷い込む。私が昔、よく食事処として使っていた場所だ。
兎は魚を食べないのにいつもついて来て、私が小魚を捕まえると「綺麗だね」と言って笑った。
「兎、どこだ?」
次に、桑の木が生い茂る谷へ。兎は栗が一等好きだが、桑の実もまた喜んで食べた。私が木に登って実を落としてやると、「私も木登りができたらいいのに」と羨ましそうにこちらを見上げた。
「兎、兎……」
それから、秋に黄金色のススキが揺れる丘を。睡蓮が咲く池を。実が赤くなり始めた桜の木の下を。
どこを見ても、兎の姿はない。
「兎……」
そうして、ようやく、いないだろうと思いつつ彼女のかつての棲家を訪れると、岩穴の中から「あら?」と彼女の声がした。
兎がひょこっと顔を出し、「もう治ったの?」と赤い目を丸くする。
「ああ。だいぶ良くなった。君がくれた塗り薬のおかげだ」
「そう」
「ここ、直したのか?」
「うん。泥を掻き出して、新しい草を敷いたの」
兎が出てきて、誇らしげな顔で棲家を指す。私が中を覗き込んで「上手だ」と言うと、一層得意げに胸を張った。
それから、「治ったなら、海に行く?」と尋ねる。
「あなた、行きたいって言ってたでしょ?」
急いたように続ける彼女は、いかにも考えがありそうな顔だ。どうやら今回はきちんと作戦を立てているようで、私はその表情に気づかないフリをする。
「そうだな。いつ行こうか?」
「今すぐ行こうよ」
兎がすっと私の手を取る。その柔らかく温かな感触に、私は少しだけ気分を良くして、
「どうした? 今日はやけに急いでいるな」
「えっ!? ぜ、全然、私、急いでなんかないよ」
「君が私の手を取るなんて珍しい。何か思惑でもあるのか?」
「そんなのないよ。私は、ただ……出不精のあなたが巣穴に戻ってしまわないように、捕まえてるだけ!」
「本当に?」
私がこれみよがしに疑り顔をして見せると、兎は焦ったように赤い瞳を右へ左へと動かした。私はその様子に心底満足し、眉間の力を抜いて繋いだ手を見下ろす。
「ならば、こんな風に手を取る必要はない」
「え?」
「私は巣穴に戻らない。今日、これから、君と一緒に海へ行く。だから離していい」
私が視線を上げると、今度は兎が手を見下ろした。「離さないとダメなの?」と上目遣いにこちらを窺う。
私は彼女の意図を思考する。
こう尋ねるということは、彼女の作戦の中に手を繋がなければならない理由があるということだろうか。そんな作戦、微塵も想像がつかないけれど。
「私の毛はガサガサで、人間が売り物にできないくらい醜い」
私の言葉に、兎がキョトンとした顔になる。
「一方で、君の毛は真っ白で柔らかくて美しくて、きっと高値で売れるだろう」
実際に売れたことを、私はジジイとババアの会話から知った。
「だから、この手は離すべきだ」
言うと、兎はしばらく呆気に取られた顔をして、それからむっと顔を顰めて「何それ」と言って外方を向いた。「早く行こう」と言って歩き出す。
「兎、手を——」
「見て。今日はよく晴れて、雲があんなに綺麗に見える」
「……あ、ああ。そうだな」
「だから私は今日、朝からずっと気分がいいの」
「そうなのか? じゃあ、どうしてさっきまで棲家にいて——」
一歩前を歩いていた兎が、「今日のあなたはおしゃべりだね」と私の語尾を遮り、半分だけ振り返る。
「私はおしゃべりが好きだけど、そのおしゃべりは嫌い」
「そ、そうか。すまない……」
「だから別の話をしようよ。ねえ、狸。私は海に着いたら、舟で沖に出てみたい」
「それはいいな」
私が応えると、兎は「でしょ?」と言って表情を緩め、前を向いた。
つまり、私たちが手を繋ぐことは、彼女の作戦に必要なことだったのか。
舟で沖に出ることも、必要なことだったりするのだろうか。
* * *
海に到着したことで、私が抱える種々の問いは答えを得た。
砂浜の端に、板と土がそれぞれ積み上げられている。
「沖に出るには、丈夫な舟を作らないとね」
そう言って笑う兎が運んで来たものだろう。この小さな手で、これだけのものを運ぶのに、一体どれだけの時間がかかったことか。
考えて、私は気づく。
ここ数日、私の巣穴を訪れなかった彼女は、これらを用意していたのだろう。大好きな晴天の日に棲家にこもっていたのは、疲れて休んでいたためか。
(やはり甘いな、彼女は。私に土の舟を作らせるなら、板はもっと少なくしておかないと)
「どっちが早く作れるか、競争だよ」
兎が笑い、板を手に取り組み合わせていく。私はその隣にしゃがみ込み、土を手で押し固める。兎が不思議そうにこちらを見た。
「どうした?」
「えっ? ……いや、その……てっきり、あなたは板で舟を作ろうとすると思ったから」
「その板は君が使うのだろう?」
兎が「そうだけど……」と言い淀む。私は、昔川縁で見た、白と黒の斑らの石を思い出す。
「知っているか、兎。石は土が固まってできたものなんだ」
「砂じゃないの?」
「砂の場合もあるかなぁ……それから、山三つ向こうにある人間の里では、家の屋根に固めた土が使われている」
「へえ。人間って変なことをするんだね。土の屋根なんて、嵐が来たら溶けて崩れてしまうのに」
私は「そうだな」と言って顔を上げる。キョトンとした顔でこちらを見ていた兎が、何かに気づいた様子で目を見張った。
きっと、私が土の舟の問題点に気づいたと思ったのだろう。
「しかしな、兎。不思議なことに、その屋根はどんなに酷い嵐が来ても溶けないんだ」
私が続けると、今度は不思議そうな顔になる。
「すごく硬くて、決して水を通さない。しかも、板のように腐ったりしないんだ。便利だろう?」
私は舟作りの作業に戻り、「だから、舟を作るなら土が一番だ」と付け加える。彼女がちゃんと板の舟を完成できるか、案じながら。
「沖に出たら、魚がたくさんとれるかな」
兎が「もちろんだよ」と答え、板を組み立てる。
「それなら私にとって嬉しい限りだが、君にとっては退屈だろうな」
「どうして?」
「君は魚を食べないから」
「でも、魚は好きだよ」
「なぜ?」
兎は一息の間を置いて、「綺麗だから」と言った。
私は胸から迫り上がる数々の言葉を飲み込んで、「そうか」とだけ応えた。




