第六話 流しの下の骨について
兎が桃源郷から戻ったことを知ったのは、ほんの偶然、彼女がクマに襲われる人間を助ける場面に通りかかった時だった。
兎は冬眠前の食欲旺盛なクマを宥めすかし、栗の木が連なる丘を教えてやった。そこは私が彼女に教えた場所で、私のとっておきの栗の木もそこにある。
だからてっきり、彼女は私を覚えているものと。
「あなた、誰?」
声をかけた私に、彼女は言った。
あの頃と同じ、真っ白でふわふわの美しい姿で。ガマズミの実のように艶やかな赤の瞳に私を映して。
「……狸だ」
「あら、そうなの? タヌキにしては随分と黒くてずんぐりしてるね」
「タヌキは皆、ずんぐりしているものだ」
「でも、あなたはもっとずんぐりしてる。それに、毛が黒くてゴワゴワだね」
「私は少し、他と違うから」
この時の私の胸中には、さまざまな言葉が渦巻いていた。
どうして私を忘れてしまったんだ。
あの時、私は待っていると言ったのに。
君はありがとうと言ったのに。
忘れてしまったのか。一切、全て、忘れてしまったのか。
栗の木の場所は覚えているのに。
そんな、どうでもいいことより、私の——
「君は、この辺りで見ない顔だな。どこかから引っ越して来たのか?」
私は全てを飲み込み、平静を装った。
「私は桃源郷で修行をしたウサギなの。ここへは、悪いものを倒しに来たんだよ」
「へえ。君の力を必要とするほど、この山には悪者がたくさんいるのか?」
私の問いに、兎は「そのはずだけど」と首を傾げた。
「でも、どうしてか、ちっとも悪いものが見当たらないの。さっきのクマだって、ただお腹を空かせてただけ。襲われる人間からしたら悪いものだけど、クマから見たら何も悪いことなんかしてない」
私は「では、なぜ君は、ここに悪者がいるはずだと?」と尋ねる。兎がさらに首を傾げた。
「わからない。でも、確かにそう思ったの。修行が終わったら真っ先にこの山にいかなくちゃ、って。ここでやるべきことがあるから、って」
そこで、ようやく私は悟った。確証を得たくて問いを重ねる。
「桃源郷に行く前に君が暮らしていた棲家は、覚えているか?」
「ええ、もちろん」
「行ってみたか?」
「最初に行ったよ。そこに悪いものがいるはずだったんだけど……でも、誰もいなかった」
つまり、彼女は私を忘れてしまったが、事の根本は覚えているということ。それは本能に近い感覚として。記憶を伴わない意思として。
あの日、私は「待つ」と言った。彼女が断罪者として帰って来るまで、怨念を抱えたまま、復讐を「待つ」と。
「どうして君は、悪がいないことを語るのに、そんなに浮かない顔をしてるいるんだ?」
私は尋ねる。呆れてしまうほど、白々しく。
「悪がいないことは幸せなことだ」
「うん。……うん。もちろん、そうなんだけど……」
「君は悪が在って欲しいのか?」
「そんなことないよ。悪いものがいるってことは、そのせいで誰かが悲しんでるってことだから」
「そうだな。誰かを悲しませないものなど、悪じゃあない」
そう。私はあの日、彼女が桃源郷に行くと聞いて、彼女の正義の始まりになりたいと思った。
誇らしげに語る彼女が最初に歩く道の、踏みつける地面に落ちる小石でありたいと。
彼女の棲家だった崖の岩穴は泥が入り込んでしまって、もう住めたものではない。ここは彼女が暮らした山であって、暮らす山ではない。
しかし彼女はここへ帰って来た。あの日の約束は形を変えたが、ここにある。
「そんな顔をしなくても大丈夫だ」
だからここから始めよう。
「君はきっと、長く後世に語り継がれる、立派な白兎になれるさ」
語気を強めて断言すると、彼女は少しだけほっとした様子で微笑んだ。
* * *
ババアの肉を煮込んでいる間、私が考えていたことは二つ。
一つは、「この行動は本当に『復讐』と呼べるのか」ということ。
もう一つは、「これで確かに彼女に裁いてもらえるのか」ということ。
つまり、他の命を殺して口に入れることは、命あるものにとって当然の行動だ。
私がそのことに気づいたのは、ババアを殴殺しても彼女が来ず、そのことを不思議に思った時。
彼女の言葉を思い出した。
『さっきのクマだって、ただお腹を空かせてただけ。人間からしたら悪いものだけど、クマから見たら何も悪いことなんかしてない』
つまり、これまでの全ては、単なる視点の問題だった。
私がジジイの畑を荒らしても彼女が来なかったのは、タヌキが畝を知らずにその上を歩くことなど、至極当然のことだから。
私が種芋を齧って捨てても彼女が来なかったのは、動物がそうすることは当たり前だったから。タヌキは比較的食い散らかさない部類だが、食事の仕方など個体による。
私がババアを殴殺しても彼女が来なかったのは、あらゆる生物が、他の生物を殺して食って生き延びるものだから。クマが人間を襲うことと同じだ。
そしてそれは、ババア汁を作ることも。
したがって、私は悪者になりきれておらず、ゆえに私の行いは未だ罪の領域に足を踏み入れていないということ。
「……惨たらしいことを成さねばならない」
私は独りごち、何の気なしに視線を横へ動かした。流しの上に、ババアの骨をまとめてある。
「単なる殺害よりも悍ましいことを。他者を絶望に突き落とすことを、唯一の目的とした……」
ひたすら考え続け、ババアの肉がすっかり柔らかく煮えた頃。
私はようやく、ババアの骨を使った残虐な行いを思いついた。




