Chapter8 灰の中の男
北西へ向かって、三日。
街道は深い森を抜け、緩やかな丘陵地帯へと変わっていた。
見渡す限りの麦畑。
低い石垣に囲まれた牧草地。
遠くでは羊の群れが、白い点のように丘を移動している。
その間を縫うように一本の川が流れ、ところどころに小さな水車が回っていた。
「……あ」
先を歩いていたミナが足を止めた。
「見えた」
丘の向こう。
町があった。
灰色や赤茶色の屋根が並び、その中央を大きな通りが貫いている。
そして町のさらに奥。
小高い丘の上に、白い石造りの城が建っていた。
いくつかの尖塔。
青灰色の屋根。
周囲を囲む石壁。
アルヴェリアの王都とは比べものにならないほど小さい。
けれど、その城を中心に家々や畑が広がる景色には、不思議なまとまりがあった。
「エルディア王国」
ノアが言った。
「ここが?」
「ああ」
ルティスは胸元へ手を伸ばした。
ペンダント。
――ドクン。
指先に、はっきりとした熱が伝わる。
「……強くなってる」
カイルが振り返る。
「昨日より?」
「うん」
北西へ進むほど、反応は強くなっていた。
もう方角を確かめる必要もない。
ペンダントは、明らかにこの国を示している。
「じゃあ」
ミナが王都を見た。
「例の亡霊さんも、あそこにいるのかな」
「たぶんな」
ノアが答える。
「亡霊がいる国かぁ……」
「勝手に国ごと不吉にするな」
カイルが呆れた。
「でも、もっとこう……」
ミナは両手を広げる。
「ずっと曇ってて、枯れた木がいっぱいあって、お城に雷が落ちてるような場所を想像してた」
「どんな国だよ」
「亡霊がいる国」
「お前の中の亡霊の扱い、どうなってるんだ」
足元を歩いていたポップが鼻を鳴らした。
「くだらねえこと言ってねえで行くぞ」
「ポップもちょっと想像してたでしょ?」
「してねえ」
「ほんと?」
「してねえって」
一行は丘を下っていった。
王都へ近づくにつれ、人の数が増えていった。
荷車。
商人。
農民。
旅人。
門の前には、ちょっとした列までできている。
「……多いな」
ポップが呟いた。
猫の姿では、人の足ばかりが視界を横切る。
荷車の車輪も近い。
「ポップ、大丈夫?」
ミナが足元を見る。
「何が」
「踏まれそう」
「誰が踏まれるか」
そう言った直後。
横を通り過ぎた男の踵が、ポップの尻尾すれすれを通った。
「……」
「ほら」
「うるせえ」
ポップは少し考えた。
そして突然、地面を蹴る。
「わっ!」
ミナの服に爪を掛け、そのまま腕を駆け上がった。
「ちょ、ポップ!」
もう一度跳ねる。
すとん。
ミナの右肩。
「……」
ミナが横を見る。
すぐ隣に金色の目がある。
「何?」
「ここが一番見やすい」
「いきなり乗らないでよ!」
「歩くより楽だ」
「でも肩乗り猫かぁ、憧れだったんだよね!」
「降りようかな…」
ミナはポップが落ちないよう片手を添えた。
口元が少しだけ緩んでいる。
「落ちないでね、ポップちゃん」
「ちゃんを付けるな」
「嫌なら降りる?」
「……」
ポップは前を向いた。
「早く行け」
「はいはい」
カイルが小さく笑った。
それからポップが肩を降りることはなかった。
エルディア王都は、王都というより大きな町に近かった。
門を抜けると、すぐに市場がある。
焼きたてのパン。
果物。
野菜。
干した肉。
陶器。
色とりどりの布。
店主たちの声が飛び交い、子供たちが人の間を走り抜けていく。
兵士の姿もある。
だが、人々を威圧するような雰囲気はない。
荷車の車輪が溝にはまれば一緒に押し、迷子になった子供がいればしゃがんで話を聞いている。
「なんか」
ミナが周囲を見る。
「いい国だね」
「そうね」
ルティスが言う。
「みんなのびのび生活してる感じ!」
「とても亡霊がいる感じには見えないな」
ミナの肩でポップが鼻を動かした。
「酒の匂いがする」
「最初に見るところ、そこ?」
「重要だろ」
「朝からエール飲んでた人は違うね」
「まだ言うのか」
ルティスはそんな二人のやり取りを聞きながら歩いていた。
胸元では。
――ドクン。
ペンダントが脈打っている。
町の中心へ進むほど。
王宮へ近づくほど。
反応は強くなっていた。
やがて一行は、王宮へ続く坂道の前に立った。
白い石造りの王宮。
近くで見ると、かなり古い。
新しい白い石と、長い年月を重ねた灰色の石が混じっている。
「……あれ」
ミナが指を差した。
西側。
そこだけ、色が違った。
黒い。
焼けた石壁や歪んだ窓枠、全て煤だらけだ。
他の場所は綺麗に修復されているのに、その一角だけが炎に焼かれた姿のまま残されている。
「火事……?」
ルティスが呟く。
ノアが目を細めた。
「大火災の傷跡だな」
カイルが振り返る。
「例の?」
「ああ」
ルティスは焼け跡を見る。
そして胸元へ手を当てた。
――ドクン。
強い。
「……この先」
ルティスが言った。
「王宮か?」
「たぶん」
ノアが口元を上げる。
「亡霊が城勤めとはな」
「勤めてるかは分からないじゃない」
「行けば分かるさ」
一行は坂を上った。
当然。
王宮の門で止められた。
「ご用件を」
二人の衛兵が立っている。
ルティスは少し考えた。
「人を探してるの」
「お名前は?」
ルティスはノアを見る。
「名前は知らない。この世にいないはずの奴だ」
ノアが答えた。
衛兵の表情が僅かに変わった。
「……どのようなご関係でしょうか」
「関係はない」
「おい」
カイルが小声で言う。
「それじゃ余計入れないだろ」
「嘘をついてどうする」
ノアは平然としている。
衛兵の表情が固くなった。
「では、お通しすることはできません」
「だろうな」
「納得するなら言い方考えろよ」
カイルが額を押さえる。
ミナの肩でポップが呟いた。
「こいつ、本当に頭いいのか?」
「聞こえてるぞ」
「聞かせてんだよ」
ルティスは会話を無視してペンダントを握った。
強い。
今までで一番。
試すように、荷物からIgnisを取り出す。
赤い宝玉。
その瞬間だった。
――ドクン。
「……っ」
ルティスの掌で、Ignisが脈打った。
赤い光。
一度。
二度。
衛兵もそれを見る。
「それは……?」
ルティスが答えるより早く。
王宮の中。
どこか遠くで何かが弾けたような音がした。
王宮の西棟で一人の青年が足を止めた。
「……」
左胸へ手を置く。
――ドクン。
黒いコートの奥で、赤い光が走る。
「……またか」
灰を被ったような黒灰色の髪。
血の気のない白い肌。
赤い瞳。
青年――アッシュは眉を寄せた。
ここ数日。
胸の奥が騒がしい。
だが、今日は違う。
何かが近い。
今までとは比べものにならないほど。
――ドクン。
赤い亀裂が胸元から首筋へ浮かび上がる。
「……」
アッシュは窓の外を見る。
王宮の正門。
そこに何かがいる。
理由は分からない。
それでも身体がそう告げていた。
アッシュは踵を返した。
「……何だ?」
衛兵が王宮を振り返る。
ルティスの手の中では、Ignisがまだ脈打っている。
――ドクン。
――ドクン。
やがて門の向こうから、一人の青年が歩いてきた。
黒いロングコート。
背は高い。
二十歳ほどに見える。
コートの裾には焼け焦げた跡が残り、裂けた箇所には何度も縫い直した痕がある。
武器は持っていない。
青年が近づく。
ルティスは、すぐに違和感を覚えた。
肌が白い。
夜でもないのに、血の色がほとんどない。
唇も冷えたように色を失い、目の下には深い影が落ちている。
それなのに赤い瞳だけが、不自然なほど鮮明だった。
「アッシュ様」
衛兵が驚く。
「どうされました?」
「……分からない」
低い声だった。
アッシュは左胸を押さえている。
「こっちに来たら、少しうるさくなった」
「うるさい?」
「胸が」
そのときアッシュの視線が止まった。
ルティス。
いや、その手に持っているIgnis。
「……」
――ドクン。
Ignisの左胸が赤く光った。
同時に。
――ドクン。
Ignisも脈打つ。
「……!」
衛兵が一歩退いた。
ミナの肩で、ポップの毛が僅かに逆立つ。
カイルがルティスの前へ出ようとする。
「大丈夫」
ルティスが止めた。
アッシュはIgnisだけを見ている。
「……それ」
「知ってるの?」
ルティスが訊く。
「いや」
アッシュは首を横に振った。
「知らない」
左胸へ手を置く。
赤い亀裂。
「でも」
少しだけ眉を寄せる。
「俺の中にある火と、似てる」
ノアの目が細くなった。
「やっぱりな」
アッシュが初めてノアを見る。
「何が?」
「いや」
ノアは笑う。
「面白くなってきた」
「……?」
そのとき。
「アッシュ?」
女性の声がした。
アッシュが振り返る。
「殿下」
王宮の中から、一人の女性が歩いてきた。
三十代後半ほど。
長い髪。
青い瞳。
白を基調とした衣装に深い青を重ね、繊細な金の装飾を身につけている。
華美ではない。
けれど、自然な気品がある。
彼女が近づくと、衛兵たちが頭を下げた。
「リシェル殿下」
リシェルはそれに軽く応え、すぐアッシュを見る。
「また胸が?」
「ええ」
「痛みは?」
「ありません」
リシェルは少し安心したように息を吐いた。
そして赤い光に気づく。
アッシュの胸ではない。
ルティスが持ってる宝玉に。
「……その石」
ルティスがIgnisを見る。
「これ?」
リシェルの青い瞳が、僅かに見開かれた。
「もしかして……」
数歩近づく。
衛兵が動こうとしたが、リシェルが片手で止めた。
「その宝玉の名前を、聞いても?」
「Ignis」
リシェルの表情が変わった。
「……やはり」
ルティスが目を細める。
「知ってるの?」
「見たことはありません」
リシェルはIgnisから目を離さない。
「ですが、名前なら知っています」
「どうして?」
「王家に残る古い記録です」
リシェルが答える。
「七つの宝玉について書かれたものがあります」
ノアの表情が僅かに変わった。
「どこまで?」
「詳しいことまでは。ただ、名前と、それぞれが司る力については」
リシェルは赤い宝玉を見る。
「Ignis――炎を司る宝玉」
そしてゆっくりとアッシュへ視線を移した。
赤い亀裂。
その奥で揺れる炎。
「……炎」
アッシュがリシェルを見る。
「殿下?」
リシェルは答えない。
何かを考えている。
「どうしたの?」
ルティスが訊く。
リシェルはしばらく黙ったあと、口を開いた。
「アッシュも、炎を使います」
「炎?」
「はい」
リシェルはアッシュの左胸を見る。
「大火災のあとから」
ルティスの目が僅かに動く。
「戦うとき、アッシュは武器を使いません」
リシェルは続ける。
「自分の身体から直接、炎を放つように戦います」
ノアがアッシュを見る。
「強いのか?」
「お前に答える必要あるか?」
「興味があるね」
「答える必要はない」
リシェルが少しだけ微笑んだ。
だが、すぐに表情を戻す。
「強い炎です」
そして。
「大きな力を使うほど、アッシュの胸の光も強くなる」
ルティスはIgnisを見る。
赤い宝玉。
そしてアッシュ。
――ドクン。
二つが同時に脈打つ。
リシェルの目が、その光を追った。
「……やっぱり」
「何?」
「関係があるのかもしれません」
リシェルはルティスを見る。
あなた方のお話を聞かせてもらえませんか」
今度は衛兵も止めなかった。
通されたのは、王宮の小さな応接室だった。
白い壁。
大きな窓。
深い青の絨毯。
豪華ではあるが、王族の部屋としては驚くほど簡素だった。
リシェル。
アッシュ。
ルティス。
カイル。
ミナ。
ミナの肩にはポップ。
そしてノア。
テーブルの中央には、Ignisが置かれている。
赤い光が、ゆっくりと揺れていた。
「……まず」
リシェルが言った。
「あなた方が、なぜアッシュを訪ねて来たのか。それを聞かせてください」
ルティスは頷いた。
INTERISで起きていること。
三つの世界が壊れ始めていること。
そして宝玉を探す旅で自分たちを導いたペンダントが、再び反応し始めたこと。
全てを話したわけではない。
けれどIgnisが北西を示し、その先に、この国があったこと。
そしてアッシュを前にして、今までとは比べものにならないほど強く反応したこと。
そこまでは話した。
「……そうでしたか」
リシェルはIgnisを見つめた。
「今度は、こちらからお話しする番ですね」
アッシュがリシェルを見る。
「殿下」
「必要なことです」
リシェルは静かに言った。
「この方たちは、あなたの胸にあるものについて知る手掛かりを持っているかもしれない」
アッシュは何も言わなかった。
否定もしない。
リシェルは窓の外を見る。
そこから黒く焼けた西棟の一部が見えていた。
「ご存知かもしれませんが、数年前に我が国は大火災の被害に遭いました」
リシェルは当時を思い出したのか、苦しそうに話す。
「あの火災で、彼、アッシュは一度死んでいます」
ミナの表情が変わる。
ポップの耳が動いた。
「一度?」
カイルが訊く。
「はい」
リシェルは頷いた。
「火災が起きたとき、まだ西棟に人が残っていました」
少しの沈黙。
「私は一度避難しましたが、西棟にまた戻りました」
リシェルはそこで一度、言葉を止めた。
膝の上で重ねた指に、僅かに力が入る。
「なんで戻ったんですか?」
ミナが尋ねる。
「まだそこに逃げ遅れた人々がいて、どうしても放っておけなくて……」
「殿下を止めたんですがね」
アッシュが淡々と言った。
リシェルが彼を見る。
「ごめんなさい…」
アッシュの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
それだけで二人が長く一緒にいることが分かった。
「それで?」
ルティスが訊く。
「アッシュは私を追って、炎の中へ戻りました」
リシェルの指が、膝の上で重なる。
「私と、中に残っていた者たちを外へ出してくれた」
声は穏やかだった。
「ですが――」
そこで止まる。
「アッシュ自身は、助かりませんでした」
誰も口を挟まない。
「我々を救い出したあと、彼は命を落としました」
リシェルが言った。
「呼吸も止まり」
ミナがアッシュを見る。
アッシュは何でもないような顔をしている。
「治癒魔法も効きませんでした」
リシェルの声が少しだけ低くなる。
「諦めるしかありませんでした……アッシュを失ったのは、私のせいだと思っていました」
左胸へ手を置く。
「ですがその日の夜。アッシュの胸に、赤い炎が灯りました」
ルティスの視線がアッシュの胸へ向く。
「そして、身体が動き始めた」
「心臓は?」
カイルが訊く。
リシェルは首を横に振った。
「今も止まったままです」
沈黙。
ノアの目が細くなる。
「なるほど」
リシェルはIgnisへ視線を戻す。
「ずっと分からなかったのです」
「何が?」
ルティスが訊く。
「なぜアッシュが動いているのか」
リシェルは赤い宝玉を見る。
「もともと剣術を使う彼が、なぜ炎を使うようになったのか」
そして。
「なぜ、心臓が止まった身体が今もここにあるのか」
――ドクン。
Ignisが脈打つ。
同時に、アッシュの胸。
――ドクン。
リシェルがそれを見る。
「でも」
青い瞳に、初めて違う感情が宿った。
「もし……」
言葉を止める。
「もし、アッシュの中にある炎がそのIgnisと繋がっているのなら」
ルティスは何も言わない。
「この宝玉なら」
リシェルの声が僅かに揺れた。
「アッシュを元に戻すことができるのではないですか」
アッシュの目が動いた。
「……元に?」
リシェルが彼を見る。
「食事をして」
「殿下」
「眠って」
アッシュは黙る。
「息をして」
そして。
リシェルの視線が、アッシュの左胸へ落ちる。
「心臓が動いて」
ほんの少しだけ、笑おうとした。
「また、生きられるのではないですか」
アッシュは答えなかった。
自分の胸を見る。
赤い亀裂。
死んでもなお、自分を動かし続けている炎。
そして、テーブルの上にあるIgnis。
「……どうだろうな」
それだけだった。
喜びも、期待もない。
リシェルとは違う。
ルティスは、その違いに気づいた。
「約束はできない」
ルティスが言った。
リシェルがこちらを見る。
「この宝玉がアッシュと関係している可能性は高いと思う」
――ドクン。
まるで肯定するようにIgnisが脈打つ。
「でも、それがアッシュを元に戻すものなのかは分からない」
「はい」
「逆に、何が起こるかも」
「……分かっています」
リシェルは頷いた。
それでもIgnisを見る目から、希望は消えなかった。
「なら」
アッシュが口を開いた。
全員が彼を見る。
「確かめればいい」
「アッシュ」
「俺の身体だ」
アッシュは静かに言った。
「俺が決める」
リシェルは何も言えなかった。
アッシュがテーブルへ手を伸ばす。
「待って」
ルティスが止めた。
アッシュの手が止まる。
「今はまだ」
「何で?」
「分からないもの同士を、いきなり触れさせたくない」
ノアが鼻で笑う。
「慎重になったな」
テーブルの上。
Ignisはまだ赤く輝いている。
そしてアッシュの左胸も同じ間隔で。
――ドクン。
――ドクン。
二つの炎が互いの存在を確かめるように。
静かに脈を打ち続けていた。
Chapter 8 ― 灰の中の男 END




