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Chapter9 残された火

挿絵(By みてみん)


 夜。


 王宮の浴室には、白い湯気が漂っていた。


「……広っ」


 ミナの声が響いた。


 白い石で造られた浴室。


 高い天井。


 太い柱が何本も並び、その向こうまで湯気が漂っている。


 壁際には彫像。


 大きな窓の向こうには、夜の王都。


 浴槽というより、小さな池に近い。


「これ、お風呂なの?」


「そうみたいね」


 ルティスは湯に肩まで沈んだ。


 ミナも広い浴槽だが、ルティスに並んで浸かる。


 しばらく、二人とも何も話さなかった。


 湯の揺れる音だけが、広い浴室に響いている。


「ねえ、ルティス」


「何?」


「リシェルって、アッシュのこと好きだよね」


 ルティスが横を見る。


「……急ね」


「だって、見てれば分かるよ」


 ミナは湯船の縁に腕を預けた。


挿絵(By みてみん)


「Ignis(イグニス)のことを聞いたときもそうだったけど……アッシュを見るときだけ、ちょっと違う」


「そう?」


「うん」


 ルティスは昼間のリシェルを思い出した。


 ――食事をして。


 ――眠って。


 ――息をして。


 ――心臓が動いて。


 ――また、生きられるのではないですか。


 あの言葉は死者を哀れんで出たものではなかった。


「……そうかもしれない」


「でしょ?」


 ミナは少し嬉しそうに笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「だから、元に戻れたらいいね」


「……うん」


「でも」


 ミナは湯を見つめた。


「アッシュは、どうなんだろ」


 ルティスは答えなかった。


 リシェルが希望を口にしたとき。


 アッシュは喜ばなかった。


 ただ。


 ――どうだろうな。


 そう言っただけだった。


「本人にしか分からないわね」


 ルティスが言う。


 ミナは小さく頷いた。



 同じ頃、王宮の西棟。


 アッシュは、焼け残った廊下に立っていた。


 煤の残る壁。


 歪んだ窓枠。


 炎に舐められ、黒く変色した石柱。


 数年前、自分が死んだ場所。


「ここでしたか」


 背後から声がした。


 アッシュは振り返る。


「殿下」


 リシェルが歩いてきた。


 彼の隣で足を止める。


「……Ignis(イグニス)」


 アッシュが呟いた。


「はい」


「殿下は、期待してるんですか」


 リシェルは答えなかった。


 アッシュは自分の胸に触れる。


「これがあれば、俺が元に戻るかもしれないって」


「……期待しています」


 リシェルは静かに答えた。


「俺は、このままでもいいんですけどね」


「私はよくありません」


 アッシュが彼女を見る。


「俺は動ける」


 胸の奥。


 止まった心臓のさらに奥で、赤い炎が揺れている。


「あなたを守ることもできる」


 リシェルはしばらく黙っていた。


「それで十分です」


「……」


「俺には」


 短い沈黙。


 リシェルは焼けた廊下の先を見つめた。


「私は」


 その声は小さかった。


「十分ではありません」


 アッシュは何も言わなかった。


 リシェルも、それ以上は言わなかった。



 深夜。


 ルティスはベッドに横たわっていた。


 眠れない。


 窓から差し込む月明かりが、天井を白く照らしている。


 昼間の光景が頭から離れなかった。


挿絵(By みてみん)


 Ignis(イグニス)。


 そして、それに呼応するアッシュの胸。


 ――ドクン。


 同じ間隔。


 同じ赤い光。


 まるで離れていることの方がおかしいように。


「……」


 ルティスは自分の右手を持ち上げ掌を見る。


 Umbra(アンブラ)。


 宝玉と言う形は取らず、自分の中にある。


 ルティスは目を閉じた。


 あのとき、自分はどうした?


 Umbra(アンブラ)を奪ったのか。


 手に入れたのか。


 選ばれたのか。


 違う。


 最後には自分で受け入れた。


 そうだった。


「……エレナ」


 小さく名前を呼ぶ。


 エレナは。


 どうやって自分にUmbra(アンブラ)を託したのだろう。


 なぜ自分だったのか。


 最初から知っていたのか。


 それともあの瞬間に何かを見つけたのか。


 考えても答えは出ない。


 ただ、一つだけ。


 今のアッシュを見ていて感じるものがあった。


 Ignis(イグニス)がアッシュを呼んでいる。


 アッシュの中にある炎も、Ignis(イグニス)を呼んでいる。


 だとしたら、離れたまま宝玉だけを眺めていても。


 何も分からない。


 ルティスは目を開いた。


「……確かめよう」


 何が正しいのかではない。


 何が起きているのか。


 それを自分の目で。



 翌朝。


 王宮の中庭に集まった一行を前に、ルティスはアッシュへ向き直った。


「アッシュ。少しいい?」


「何だ?」


「あなたの炎を見せてほしい」


 アッシュが僅かに眉を上げる。


「炎?」


「昨日から気になってるの」


 ルティスは彼の左胸を見る。


「Ignis(イグニス)が反応するたび、あなたの中の炎も反応してる」


「……それは俺も感じてる」


「だから、ちゃんと見てみたい」


 アッシュは右手を上げた。


 掌に赤い炎が灯る。


 揺れる炎を、ルティスはじっと見つめた。


「……」


「何か分かるか?」


「分からない」


「おい」


 カイルが呆れた声を出した。


 だがルティスは炎から目を離さない。


 何か引っかかる。


 見たことがある。


 けれど、ただ灯しているだけでは分からない。


「もっと強く」


 炎が大きくなる。


 それでも違う。


 ルティスが見たいのはこれではない。


「……戦ってるときは?」


「何?」


「昨日、リシェルが言ってた。あなたは戦うとき、自分の身体から炎を放つって」


「ああ」


「その炎を見たい」


「ここでか?」


 ルティスは少し考えた。


 そして腰の短剣へ手を置く。


「そうね――」


 アッシュを見る。


「少し、付き合って」


 アッシュがルティスの手元を見る。


「手合わせか?」


「うん」


「ルティス?」


 ミナが驚いたように声を上げる。


「本気の炎を見たいだけ」


 そこでノアが口を挟む。


「考えるより肌で感じるタイプか」


 ルティス自身にも、まだ説明できなかった。


 ただ、昨夜からずっと引っかかっている。


 Umbra(アンブラ)を受け入れた自分。


 Ignis(イグニス)に呼応するアッシュ。


 そして彼が戦うときに使うという炎。


「見れば、何か分かる気がする」


 アッシュはしばらくルティスを見ていた。


 やがて。


「分かった」


 黒い上着を脱ぎ、近くの石台へ置く。


「付き合うよ」


「アッシュ」


 リシェルが呼ぶ。


「大丈夫ですよ」


 アッシュは中庭へ出た。


「殺し合うわけじゃない」


 ルティスも、その向かいへ立つ。


 カイルたちが距離を取った。


 ポップはミナの右肩に乗ったまま、尻尾を揺らしている。


「妙なことを考えるな」


 ノアが言った。


 ルティスは答えなかった。


 腰の短剣から手を離す。


 アッシュも武器を持っていない。


 二人の間に朝の風が通り抜けた。


「いつでも」


 アッシュが言った。


「じゃあ」


 ルティスの右手に魔力が集まる。


 赤い光。


 アッシュの目が僅かに細くなった。


 次の瞬間、ルティスの手から火球が放たれた。


 炎が中庭を走る。


 アッシュは避けなかった。


 右手を振る。


 炎が生まれた。


 二つの火が衝突し、爆ぜる。


「ルティスが炎?」


 ミナが驚く。


「使えないわけじゃない」


 カイルが言う。


 ルティスは次の火球を作る。


 アッシュが踏み込んだ。


 速い。


 ルティスは後ろへ跳ぶ。


 アッシュの拳が地面を掠めた。


 炎が弾ける。


 ルティスは火球を三つ放った。


 アッシュが腕を振る。


 赤い炎がそれを呑み込む。


「……」


 ルティスは目を細めた。


 違う。


 自分の炎とは明らかに違う。


 熱量ではない。


 色でもない。


 もっと。


 根本的な何か。


 もう一度。


 ルティスは炎を放つ。


 アッシュがそれを正面から受ける。


 そして。


 炎の中から飛び出した。


「っ」


 拳を躱す。


 すれ違う。


 その瞬間、ルティスは見た。


 アッシュの胸の赤い光。


 炎が生まれるたびに、そこが脈打っている。


 ――ドクン。


 記憶が重なる。


 炎。


 赤い光。


 あの熱。


「……」


 ルティスの動きが止まった。


 アッシュも攻撃を止める。


「どうした?」


 ルティスは答えない。


 思い出していた。


 かつてIgnis(イグニス)を手に入れるために戦った存在。


 炎を纏い宝玉を守っていた。


 Ignis(イグニス)の守護者。


「……同じ」


「何が?」


 ルティスはアッシュを見る。


「あなたの炎」


 息を整える。


「Ignis(イグニス)の守護者と同じ」


 カイルが顔を上げた。


「守護者?」


「Ignis(イグニス)を手に入れたときに戦ったの」


 ルティスはアッシュの胸を見る。


 炎がまだ揺れている。


 同じだった。


 似ているのではない。


 同じ力。


 同じ炎。


 ルティスは振り返った。


 荷物の中から、布に包んだIgnis(イグニス)を取り出す。


 布を開く。


 赤い宝玉が姿を現した。


 ――ドクン。


 アッシュの胸。


 ――ドクン。


 Ignis(イグニス)。


 ルティスは二つを見比べた。


 昨日までは共鳴していると思っていた。


 けれど、違う。


「……求めてる」


「何?」


 ミナが訊く。


「お互いを」


 Ignis(イグニス)の光が強くなる。


 アッシュの胸も同じように強くなる。


 ルティスはアッシュへ歩いていった。


「ルティス?」


 リシェルが呼ぶ。


 ルティスは止まらない。


 アッシュの前まで来る。


 そしてIgnis(イグニス)を差し出した。


「持って」


「……いいのか?」


「うん」


「昨日は止めただろ」


「昨日は分からなかった」


 ルティスはIgnis(イグニス)を見る。


「今も全部は分からない」


 それでも一つだけ分かったことがある。


 ルティスはアッシュを見る。


「これは、あなたを求めてる」


 アッシュは赤い宝玉を見る。


「そして」


 ルティスは彼の胸を見る。


「あなたの中にある炎も、これを求めてる」


「……」


「だから」


 Ignis(イグニス)を差し出す。


「決めるのは、あなた」


「何を?」


「受け入れるかどうか」


 その言葉を口にした瞬間。


 ルティス自身が、僅かに目を見開いた。


 受け入れる。


 なぜ、そう思ったのか。


 分からない。


 けれどUmbra(アンブラ)を思い出していた。


 自分が最後にしたこと。


 アッシュはIgnis(イグニス)を見つめた。


 それからリシェルを見る。


 彼女は何も言わなかった。


 止めもしない。


 ただ、アッシュを見ている。


 やがてアッシュが手を伸ばした。


 Ignis(イグニス)を掴む。


 ――ドクン。


 大きな音。


 アッシュの目が見開かれる。


 ――ドクン。


 赤い光が指の隙間から溢れる。


「アッシュ!」


 リシェルが叫ぶ。


 宝玉に一本の亀裂が入った。


 ――パキッ。


「……!」


 さらに亀裂。


 一本。


 二本。


 三本。


 Ignis(イグニス)全体へ広がっていく。


「割れちまうぞ!」


 カイルが叫ぶ。


 だが。


「待って!」


 ルティスが止めた。


 アッシュはIgnis(イグニス)を離さない。


 ――パキン。


 宝玉が割れた。


 だが破片は落ちなかった。


 砕けたIgnis(イグニス)は赤い光へ変わっていく。


 炎。


 無数の火の粉。


 それらがアッシュの腕をつたい、皮膚の下を赤い光が走る。


 腕。


 肩。


 首。


 そして。


 胸。


 すべてが。


 止まった心臓の奥へ吸い込まれていく。


 最後の光が消えた。


 静寂。


「……アッシュ?」


 リシェルが近づく。


 アッシュは立ったまま。


 動かない。


 誰も声を出さない。


 待つ。


 ――ドクン。


 その音を。


 だが、何も聞こえない。


 リシェルの表情が変わる。


「アッシュ」


 彼の胸へ手を当てる。


 待つ。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 何もない。


「……心臓は?」


 アッシュ自身も胸に手を置いた。


 しばらくして首を振る。


「止まったままです」


 リシェルの手が僅かに震えた。


「そんな……」


 元には戻らなかった。


 生き返らなかった。


 ルティスはアッシュを見ていた。


 失敗した?


 違う。


 何かが変わっている。


「アッシュ」


 彼が自分の右手を見ていた。


「どうした?」


 カイルが訊く。


「……熱くない」


 指先。


 小さな炎が灯った。


 いつもの炎。


 そう見えた。


 だが、違う。


「……」


 ルティスだけが気づいた。


 燃えているのではない。


 指先そのものが炎になっている。


 皮膚が消え。


 肉が消え。


 赤い炎が、指の形を作っている。


 アッシュが息を呑む。


 次の瞬間。


 炎が収束する。


 元の青白い指に戻る。


「今の……」


 ミナが呟く。


 誰も答えられない。


 アッシュ自身も、自分の手を見つめている。


 ルティスは無意識に自分の手を見た。


 思い出す。


 影。


 自分の意思とは関係なく動く影。


 傷を負ったとき。


 ほんの一瞬。


 身体と影の境目が曖昧になる感覚。


 今まで。


 Umbra(アンブラ)の力が強くなっただけだと思っていた。


 でも。


 もし。


「……私と同じ」


 小さな声だった。


「何?」


 ミナが振り返る。


 ルティスは答えなかった。


 まだ分からない。


 何が起きたのか。


 なぜ宝玉が消えたのか。


 なぜアッシュの身体が炎になったのか。


 そして。


 なぜ。


 自分にも似たことが起きているのか。


 答えはない。


 ただ。


 アッシュの胸から。


 昨日まで聞こえていた。


 あの偽物の鼓動はもう聞こえなかった。


 心臓も動いていない。


 それなのにアッシュは立っている。


 その身体の奥でIgnis(イグニス)はもう宝玉ではなく、アッシュ自身の炎として静かに燃えていた。


 Chapter 9 ― 残された火 END

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