Chapter10空を追う
Ignisが消えてから、しばらく誰も動かなかった。
王宮の中庭。
アッシュは、自分の右手を見つめている。
先ほどまで確かにその指先は炎になっていた。
炎を纏ったのではない。
燃えていたのでもない。
指そのものが炎へ変わった。
「もう一度できる?」
ルティスが訊いた。
「……分からない」
アッシュは右手を開く。
意識を集中させるように、指先を見つめる。
小さな炎が灯った。
いつもの炎。
だが、その炎がゆっくりと指先へ沈んでいく。
皮膚の輪郭が崩れた。
「……!」
ミナが息を呑む。
一本の指が赤い炎へ変わる。
火の粉を散らしながら。
それでも確かに、指の形を保っている。
「熱くないの?」
「何も感じない」
アッシュが答える。
握る。
炎が収束する。
再び人間の指が現れた。
「すげえな……」
カイルが呟く。
だがルティスだけは笑わなかった。
自分の手を見る。
影。
これまで何度かあった。
攻撃を受けた瞬間。
身体と影の境目が曖昧になるような感覚。
ただUmbraの力が強くなっただけだと思っていた。
でも今のアッシュを見ていると。
違う気がする。
「ルティス?」
ミナに呼ばれ、顔を上げる。
「何でもない」
まだ言葉にできない。
「心臓は?」
リシェルが訊いた。
アッシュは左胸へ手を置く。
しばらく待つ。
「変わりません」
「……そうですか」
リシェルの声が僅かに沈む。
アッシュは彼女を見る。
「殿下」
「大丈夫です」
リシェルは微笑んだ。
けれどその笑顔が本心ではないことくらい。
ここにいる誰にでも分かった。
Ignisはアッシュの中へ入った。
それでも止まった心臓は動かなかった。
部屋へ戻ったあと、ルティスは机の上にペンダントを置いた。
カイル。
ミナ。
ノア。
そして、ミナの右肩に乗ったポップ。
全員がそれを覗き込んでいる。
「やっぱり……」
ルティスが呟いた。
一つ。
色が失われている。
Ignis。
昨日まで赤く輝いていた部分。
そこから完全に色が消えていた。
「Umbraと同じだね」
ミナが言うIgnisん」
Umbra。
最初から色を失っていた場所。
そしてUmbraはルティスの中にある。
「ということは」
カイルが腕を組む。
「Ignisも、アッシュの中に入ったから消えたってことか?」
「たぶん」
「宝玉は砕けたんじゃない」
ノアが言った。
ルティスが見る。
「何?」
「場所が変わっただけだ」
ノアはペンダントの色を失った部分を指す。
「Umbraがお前の中にあるなら」
次に扉の向こう。
アッシュのいる方を見る。
「Ignisは、あいつの中にある」
ミナが黙る。
カイルも。
ルティスはペンダントを見つめた。
二つ。
色を失った場所。
Umbra。
Ignis。
「……器」
ノアが小さく呟く。
ルティスが睨む。
「その呼び方、嫌い」
「分かりやすいだろ?」
「人間よ」
ノアはそれ以上言わなかった。
ルティスはペンダントを持ち上げる。
「……Ignisを取り込んでも心臓は動かなかった」
カイルの言葉に、ノアが顔を上げた。
「当然かもしれないな」
「どういう意味?」
ルティスが訊く。
「考えてみろ。あいつは数年前に死んでる。心臓も止まったままだ。それなのに歩いて、喋って、炎まで使っていた」
「……」
「死んだ身体を動かしていたのが、あいつ自身の生命力なわけがない」
ルティスは黙った。
「Ignis……」
「そう考えるのが自然だろうな」
ノアはペンダントを見る。
「宝玉を受け入れる前から、あいつの中にはIgnisの力があった。そして宝玉そのものが同化した」
「じゃあ……」
ミナの声が小さくなる。
「Ignisがなくなったら、アッシュはどうなるの?」
誰も答えなかった。
ルティスは自分の手を見つめる。
Umbra。
自分の中にある影。
アッシュの中にある炎。
もし、それが失われたら。
「……分からない」
ルティスは答えた。
「でも、確かめるために取り出すようなことは、したくない」
ノアが僅かに笑った。
「随分と慎重だな。まぁ、取り出し方も分からないけどな」
「人の命がかかってるかもしれないから」
「もう死んでる男だぞ」
「だから何?」
ルティスはノアを見る。
「今、ここにいる。それで十分でしょ」
ノアは何も言わなかった。
まだ五つの色が残っている。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
そのときだった。
――バチッ。
「……?」
小さな音。
ペンダントの一部に。
紫色の光が灯った。
「光った!」
ミナが身を乗り出す。
「Volt……」
雷を司る宝玉。
紫の光が一度だけ強くなった。
そしてペンダントが僅かに西を指す。
「次はそこか」
カイルが地図を広げた。
ルティスは頷く。
「たぶん」
Ignisが示した先にはアッシュがいた。
なら今、ペンダントが示している先に 何かがある。
昼過ぎ、ルティスたちは再びペンダントを確認していた。
「……おかしい」
ルティスが言った。
「何が?」
ミナが覗き込む。
紫色の光。
消えてはいない。
だが示している方向が違う。
「朝は西だった」
カイルが地図を見る。
「今は……南西だな」
ミナが首を傾げる。
「壊れた?」
「簡単に壊れてもらっちゃ困る」
ルティスはペンダントを傾ける。
それでもVoltの光は南西を示している。
ポップがミナの肩から覗き込んだ。
「その石が間違っているのではないか?」
「今まで間違えたことはない」
「なら」
ノアが窓の外を見た。
「動いてるんだろ」
「何が?」
ミナが訊く。
「向こうが」
全員がノアを見る。
「俺たちはここに留まってる」
ノアが地図を指す。
「それなのに方角が変わるなら、探してるものが移動してる」
「……移動距離が半端なくないか?」
カイルが地図を見る。
朝は西の方面、今は南西を向いている。
かなりの距離を移動していることになる。
「馬かな?」
ミナが訊く。
「それにしては速い」
カイルが答える。
ルティスは窓の外を見る。
空には白い雲が流れていた。
「飛行船かもしれません」
その言葉を口にしたのは、リシェルだった。
「飛行船?」
ミナの声が一段高くなる。
午後、再び集まった小さな応接室。
机の上にはエルディア周辺の地図が広げられている。
リシェルは西側を指した。
「エルディアの西には山岳地帯があります。その先は海です」
指が地図の上を進む。
「陸路で大きく移動するなら、通れる道は限られます」
「海路でも速度が合わない」
ルティスが言う。
「はい」
リシェルは頷いた。
「空路なら説明できます」
「飛行船……」
ミナの目が輝いている。
ポップがその横顔を見る。
「お前、乗りたいって思ったろ?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとには見えんぞ」
「だって飛行船だよ?」
カイルが地図から顔を上げる。
「船着場に先回りするしかないか?」
「狙った船着場にうまく停泊するとは限らん」
ノアが冷たく言う。
「王都の西に飛行船港があります」
リシェルが答えた。
「交易船が主ですが、王家が使う小型船もあります」
「小型船?」
ルティスが訊く。
「えぇ。それを使って下さい」
リシェルが言う。
「……いいの?」
「皆さんには、アッシュのことがありますから」
リシェルは微笑む。
「それくらいはさせてください」
ルティスは少し黙ったあと。
「ありがとう」
そう答えた。
翌朝、王宮の門。
旅支度を整えた一行を、リシェルとアッシュが見送っていた。
アッシュの姿は昨日までと変わらない。
青白い肌。
黒灰色の髪。
煤けた黒い外套。
胸の奥に心臓の鼓動はない。
けれどそこには確かにIgnisがある。
「アッシュ」
ルティスが呼ぶ。
「何だ?」
「何か変わったことがあったら覚えておいて」
「変わったこと?」
「身体」
ルティスは自分の手を見る。
「炎になる場所が増えたとか。感覚が変わったとか。何でも」
「分かった」
「次に会ったとき教えて」
アッシュが少し笑った。
「次もあるんだな」
「ないと困る」
「そうか」
ルティスはリシェルを見る。
「色々とありがとう」
「こちらこそ」
ルティスは二人を見る。
結局、Ignisはアッシュを生き返らせることは出来なかった。
でもあの宝玉は確かに彼を選んだ。
アッシュもIgnisを受け入れた。
そして互いを結びつけるかのように宝玉は消えた。
「行こう」
ルティスは振り返った。
王都の西。
丘を越えた先に巨大な塔が見えてきた。
その周囲、空に船が浮いている。
「……わぁ」
ミナが立ち止まった。
巨大な気嚢。
その下に吊られた木と金属の船体。
何本もの係留索が地上へ伸びている。
塔の周囲では、人々が荷物を運び。
甲板からは声が飛び交う。
風に煽られた旗が大きな音を立てていた。
「本当に船が飛んでる……」
「飛行船だからな」
カイルが言う。
「分かってるけど!」
ミナの右肩でポップは露骨に顔をしかめていた。
「……俺は聞いていないぞ」
「昨日聞いてたでしょ」
「乗るとは言っていない」
「大丈夫だよ、ポップちゃん」
「ちゃんを付けるな」
ルティスは二人を横目にペンダントを取り出した。
――バチッ。
Volt。
紫色の光。
南西。
まだ動いている。
「行こう」
ルティスは飛行船を見上げた。
ゆっくりと地面が離れていく。
甲板の端から、エルディアの王都が見えた。
白い石造りの街。
中央の丘に建つ王宮。
さらに向こうには広大な畑と川。
それらすべてが少しずつ小さくなっていく。
「すごい……!」
ミナは手すりから身を乗り出していた。
「落ちるぞ」
カイルが服を掴む。
「落ちないって」
「その台詞、信用できないんだよ」
ミナの右肩ではポップが四本の脚で必死にしがみついている。
「風が強い!」
「飛んでるんだから当たり前でしょ」
「猫は空を飛ばないっ!」
「ネフィルでしょ?」
「今は猫だ!」
少し離れたところでノアが空を見ている。
ルティスも手すりへ近づいた。
雲。
どこまでも続く青。
地上とはまるで違う世界。
ルティスはペンダントを取り出す。
紫の光。
まだ。
南西。
「追えてる?」
ミナが訊く。
「うん」
「どれくらい先?」
「そこまでは分からない」
風が吹く。
ルティスの黒髪が大きく揺れた。
そのとき。
――バチッ。
「……?」
ペンダントの光が強くなった。
ルティスが眉を寄せる。
――バチッ。
もう一度。
「どうした?」
カイルが近づく。
「反応が強くなってる」
ルティスはペンダントを持ち上げた。
光の向き。
南西。
その先を見る。
雲しかない。
だが次の瞬間、白い雲の中から黒い影が現れた。
「……船?」
ミナが呟く。
もう一隻の飛行船。
こちらよりも細い。
速度も速い。
風を切りながら雲の間を進んでいる。
――バチッ。
Voltが強く光った。
「まさか」
ルティスは向こうの船を見る。
距離が縮まる。
甲板。
何人かの人影。
その中に一人。
船首近くに立つ女がいた。
風に揺れる。
黒紫の髪。
長い槍。
右腕には黒い包帯。
「……」
女がこちらを見た。
視線が合う。
その瞬間。
――バチッ。
女の右腕。
包帯の隙間を紫色の雷が走った。
「……っ」
女が顔をしかめる。
自分の右腕を見る。
そしてもう一度。
ルティスたちの船を見る。
――バチッ。
ルティスの手の中。
Voltが今までで一番強く輝いた。
「ルティス」
ミナが呼ぶ。
「うん」
間違いない。
ペンダントが示しているのはあの船。
いや。
その甲板に立つあの女。
ルティスは紫の光を見つめた。
「……見つけた」
風が二隻の飛行船の間を駆け抜ける。
向こうの女は右腕を押さえたまま、こちらを見つめていた。
その瞳にも紫電と同じ色の光が宿っていた。
Chapter 10 ― 空を追う END




