Chapter11 空を駆ける雷
雲の切れ間を、一隻の飛行船が駆け抜けていた。
船体は細く、長い。
使い込まれた木製の甲板。何度も補修された帆。船腹には、白い鳥が翼を広げた紋章が描かれている。
飛行船、アルバトロス号。
その船首で、シエナ・クロウは遠くの空を睨んでいた。
右腕が、疼く。
「……また」
黒い包帯の隙間から、紫色の光が漏れた。
シエナは左手で右腕を押さえた。
何年も付き合ってきた傷だ。
痛むことは珍しくない。
だが、こんな反応は初めてだった。
「シエナ!」
背後から声が飛んだ。
振り返ると、船長のリゼット・ヴァンが操舵室から顔を出していた。
金茶色の長い髪が風に舞う。紺色のロングコートを翻しながら、彼女は後方の空を指さした。
「あの船、見えるかい?」
「見えてる」
「どこの船だと思う?」
「知らないわよ」
「王家の船だよ。あの船首の紋章、見覚えがある」
シエナは目を細めた。
雲の向こうから現れた小型飛行船。
確かに、その船首には王国の紋章が刻まれていた。
「……追手?」
「さあね。でも、わざわざこんなところまで来る王家の船が、観光目的とは思えないだろ?」
リゼットは楽しそうに笑った。
「逃げるよ!」
「……あんた、何かしたの?」
「失礼だねえ。心当たりが多すぎて分からないだけさ!」
「それ、何かしたって言ってるのと同じでしょ!」
リゼットの笑い声が風に流れた。
直後、飛行船の帆が大きく膨らんだ。
船体が傾き、速度を上げる。
シエナは手すりを掴んだ。
右腕の奥で、再び雷が走った。
遠ざかっていく王家の飛行船。
その姿を見つめながら、シエナは小さく呟いた。
「……何なのよ、いったい」
答えるように、包帯の下で紫電が瞬いた。
「逃げてる?」
ミナが船首から身を乗り出した。
遠くの飛行船が、急に速度を上げたのだ。
「間違いないな」
カイルが目を細める。
「こっちに気づいた途端だ」
ルティスは胸元のペンダントを見た。
Voltを示す紫色の光が、強く明滅している。
方角は変わらない。
あの船だ。
「船長さん!」
ミナが操舵室に向かって叫んだ。
「前の船、追いかけられる?」
王家の飛行船を預かる船長が、困ったように眉を寄せた。
「速度では向こうが上です。ですが、距離を保つことなら」
「お願い!」
「……王女殿下からは、皆様のご希望に沿うよう仰せつかっています。できる限りのことはいたしましょう」
船長が舵を切った。
船体がゆっくりと旋回する。
その様子を見ていたノアが、口元に笑みを浮かべた。
「面白いことになったな」
「何が?」
ルティスが訊く。
「あの船、こちらを追手だと思っているんじゃないか?」
「追手?」
「王家の紋章を掲げた船が、進路を合わせて近づいてくる。何か後ろ暗い事情があれば、逃げたくもなるだろう」
カイルが腕を組んだ。
「なら、無理に追いかけるのはまずいな」
「でも、目的地はあの船にある」
ルティスはペンダントを握った。
「少なくとも、Voltが反応してる人と話がしたい」
そのとき。
「……おい」
ミナの右肩で、ポップが耳を伏せた。
「なんだか嫌な予感がするぞ、毛がチリチリするぜ」
「ポップちゃん、怖いの?」
「ちゃんを付けるな! それに怖いんじゃない!」
黒猫の金色の瞳が、前方の雲を見つめる。
「……あの雲の流れ、おかしい」
ルティスが顔を上げた。
飛行船が向かう先。
白い雲の壁が、山脈の上空を覆っていた。
「船長! 前方、乱気流帯です!」
見張りの声が響いた。
「分かってるよ!」
リゼットは舵輪を握り直した。
前方には、切り立った山々が連なっている。
山肌に沿って上昇する風が、雲を激しく巻き上げていた。
通常の商船なら、大きく迂回する空域だ。
だが、リゼットは速度を落とさなかった。
「左の帆を絞って! 高度を少し下げる!」
「船長、本当に抜けるんですか!」
「抜けられなきゃ、あたしがこんなところを選ぶもんか!」
甲板でシエナが呆れた顔をした。
「その自信、どこから来るのよ」
「経験と勘!」
「一番信用できない組み合わせね」
「褒め言葉として受け取っとくよ!」
飛行船が雲の中へ突入した。
船体が激しく揺れる。
帆が唸り、索具が軋んだ。
シエナは槍を片手に、甲板を踏みしめる。
その瞬間、右腕が強く脈打った。
「っ……!」
包帯の下から紫色の雷が弾ける。
思わず膝をついた。
「シエナ!」
「触らないで!」
リゼットの声を遮り、シエナは右腕を押さえた。
雷が、勝手に動いている。
何かを求めるように。
何かに呼ばれるように。
「……やめて」
小さな声が漏れた。
その目には、先ほどまでの強気な光がなかった。
同じ頃。
ルティスの手の中で、ペンダントが激しく震えた。
「……っ!」
紫色の光が、指の隙間から溢れる。
「ルティス!」
カイルが駆け寄る。
「大丈夫。でも……」
ルティスは前方を見た。
雲の向こうに、飛行船の影が見える。
「近づいてる」
ノアがペンダントを覗き込んだ。
「宝玉が反応しているだけじゃないな」
「どういうこと?」
「向こうからも、何かが応えている」
その言葉が終わるより早く。
雲の奥で、紫色の閃光が走った。
雷鳴。
次の瞬間、王家の飛行船が大きく揺れた。
「きゃっ!」
ミナが手すりにしがみつく。
「落雷か!?」
カイルが叫ぶ。
だが、ルティスは見ていた。
雷は空から落ちたのではない。
前方の飛行船から、放たれたのだ。
「シエナ!」
リゼットの声が響いた。
甲板の中央で、シエナが右腕を押さえている。
その周囲に、紫電が渦巻いていた。
金属製の留め具が火花を散らす。
近くの船員たちが慌てて離れた。
「……近づかないで!」
シエナは叫んだ。
「私にも、分からないの!」
雷が右腕から槍へ流れ込む。
槍の穂先が紫色に輝いた。
シエナは必死に力を抑えようとした。
だが、雷は止まらない。
むしろ、後方の飛行船が近づくほど強くなる。
「……あの船」
シエナが顔を上げた。
「なんなの……?」
そのとき、飛行船が激しく傾いた。
乱気流だ。
甲板に積まれた木箱が滑り出す。
「危ない!」
船員の一人が逃げ遅れた。
重い木箱が、その身体へ迫る。
シエナは反射的に槍を突き出す。
紫電が走り、木箱を粉砕した。
だが、放たれた雷はそこで止まらなかった。
甲板を走り、船縁の金具へ飛び移る。
そして――
後方から接近していた王家の飛行船へと伸びた。
「伏せて!」
ルティスが叫んだ。
紫色の雷が、船首の金具に直撃する。
轟音。
船体が大きく傾いた。
「うわああっ!」
ミナの身体が手すりの外へ投げ出される。
「ミナ!」
カイルが腕を伸ばした。
だが、届かない。
その瞬間。
黒い影が甲板を走った。
ルティスの影だ。
影は手すりを越え、落下するミナの腰に絡みつく。
「……っ!」
ルティスが歯を食いしばった。
ミナの身体が宙で止まる。
カイルが手を伸ばし、その腕を掴んだ。
「引き上げるぞ!」
二人がかりで、ミナを甲板へ戻す。
「……助かったぁ」
ミナが大きく息を吐いた。
ポップはすでに甲板の柱にしがみついていた。
「だから言っただろう! 嫌な予感がすると!」
「ポップちゃん、逃げるの早いね……」
「生き残るための判断が早いと言え!」
そのやり取りを聞きながら、ルティスは前方を見た。
飛行船が、雲の中で大きく旋回している。
その甲板に、一人の少女が立っていた。
黒紫色の髪。
長い槍。
右腕を包む、紫色の雷。
「……あの人」
ルティスはペンダントを握った。
Voltの光が、激しく明滅する。
「船長!」
飛行船の見張りが叫んだ。
「後方の船、まだ追ってきます!」
「しつこいねえ!」
リゼットが舵を切る。
だが、先ほどの放電で船体の一部が損傷していた。
右舷の帆を支える索具が、一本切れている。
風を受けた帆が不規則に暴れた。
「このままじゃ速度が出ない!」
「修理します!」
「駄目だ! 今あそこに登ったら振り落とされる!」
リゼットは舌打ちした。
そして、甲板のシエナを見た。
「シエナ! 動けるかい!」
「……ええ」
シエナは槍を支えに立ち上がった。
右腕の雷は、まだ消えていない。
「後ろの船を止められる?」
「……止める?」
「沈めろって言ってるんじゃないよ! これ以上近づけさせないでほしいんだ!」
シエナは王家の飛行船を見た。
先ほどの雷で、船首が焦げている。
それでも追跡をやめない。
「……分かった」
槍を握り直す。
「少し、話をしてくる」
「は?」
リゼットが振り返った。
「ちょっと待ちな! 話って、どうやって――」
シエナは船縁へ駆け出した。
足元に紫電が走る。
「おい、シエナ!」
彼女は振り返らなかった。
甲板を蹴る。
その身体が、雲の中へ飛び出した。
「……人がこっちに来るよ?」
ミナが目を丸くした。
飛行船から、一人の少女が飛び出してきた。
紫色の雷を纏いながら。
シエナは空中で槍を振るう。
穂先から放たれた雷が、王家の飛行船の金属製の手すりへ伸びた。
雷は手すりに絡みつくように走り、シエナの身体を引き寄せる。
次の瞬間、彼女は甲板へ着地した。
重い音が響く。
長い髪が風に舞った。
「……あんたたち」
シエナは槍を構えた。
「いつまで追いかけてくるつもり?」
カイルが一歩前へ出る。
「待て。俺たちは――」
「王家の船で追い回しておいて、言い訳?」
「違う!」
ミナが叫んだ。
「私たち、あなたたちを捕まえに来たわけじゃないの!」
「じゃあ何?」
シエナの紫色の瞳が、ルティスを捉えた。
その瞬間、右腕が、激しく疼いた。
「……っ!」
ルティスのペンダントも強く光る。
シエナの視線が、胸元へ落ちた。
「それ……」
紫色の光。
右腕の雷と、同じ色。
「……何よ、それ」
ルティスはペンダントを隠さなかった。
「あなたに反応してる」
「……は?」
「私たちは、これを追ってきたの」
シエナの表情が険しくなる。
「つまり……この腕が疼くのはあんたたちのせい……?」
「分からない。でも――」
「ふざけないで!」
シエナが踏み込んだ。
槍が鋭く突き出される。
ルティスは身を捻ってかわした。
穂先が頬のすぐ横を通り抜ける。
「ルティス!」
カイルが剣を抜いた。
槍と長剣が激しくぶつかる。
金属音が響いた。
シエナは槍を引き戻し、すぐさま横薙ぎに振るう。
カイルが受け止める。
だが、次の突きが速い。
「……っ!」
カイルは一歩下がった。
シエナはその隙を逃さず、さらに踏み込む。
槍の間合い。
剣では届かない距離から、正確に急所を狙ってくる。
「やるな……!」
カイルが低く呟いた。
「そっちこそ!」
シエナが笑う。
ほんの一瞬。
戦いを楽しむような表情だった。
だが、右腕から紫電が弾けた。
「……っ!」
シエナの動きが止まる。
槍を握る手が震えた。
雷が穂先へ流れ込む。
「……駄目」
小さな声が漏れた。
「今は……!」
カイルが異変に気づく。
「おい、どうした!」
「離れて!」
シエナが叫んだ。
次の瞬間、槍から巨大な雷が放たれた。
カイルは咄嗟に身を投げ出す。
雷が甲板を走り、船縁の支柱を砕いた。
木片が飛び散る。
飛行船が大きく揺れた。
「まずい!」
船長の怒号が響く。
「これ以上、船の上で暴れるな!」
シエナは槍を握ったまま、動けずにいた。
右腕が震えている。
雷が、止まらない。
「……また」
その声は、ひどく小さかった。
「また、同じことを……」
ルティスはその表情を見た。
怒りではない。
恐怖だった。
「カイル、剣を下ろして」
ルティスが言った。
「だが――」
「大丈夫」
ルティスはシエナへ歩み寄った。
「来ないで!」
シエナが槍を向ける。
穂先から雷が散った。
「近づいたら、どうなるか分からない!」
「分かってる」
「だったら!」
「あなたも、止めたいんでしょ?」
シエナの目が揺れた。
ルティスは歩みを止めた。
「さっきから、ずっと抑えようとしてる」
「……」
「私たちを傷つけたいわけじゃないんだよね」
シエナは答えなかった。
ただ、槍を握る手に力を込める。
右腕の雷痕が、紫色に輝いた。
ルティスは胸元のペンダントを見た。
Volt。
勇気を象徴する宝玉。
その光が、目の前の少女を求めている。
「……少しだけ、見せてもいい?」
ルティスはペンダントに手を添えた。
シエナは警戒したまま、視線を向ける。
ルティスは小さな紫色の宝玉を取り出した。
球体の宝玉。
その内部で、細い雷が走っている。
シエナの呼吸が止まった。
「……それは」
右腕の雷が、一瞬だけ静まる。
まるで、何かを見つけたように。
シエナは宝玉を見つめた。
「……私を、呼んでたの?」
ルティスは答えなかった。
まだ、確かなことは分からない。
ただ一つ。
この少女とVoltの間に、何かがある。
それだけは間違いなかった。
「おーい!」
頭上から声が響いた。
飛行船が、王家の飛行船のすぐ横へ並んでいた。
船縁からリゼットが身を乗り出している。
「シエナ! あんた、よその船で何やってんだい!」
「……船長」
「しかも王家の船だよ! 修理代を請求されたらどうするんだ!」
ミナが思わず笑いそうになる。
リゼットはさらに叫んだ。
「そこの黒髪のお嬢さん!」
ルティスが顔を上げた。
「あたしはこの飛行船の船長、リゼット・ヴァン!」
「……ルティス」
「よし、ルティス! 事情はさっぱり分からないけど、ひとまず話し合いにしようじゃないか!」
リゼットは豪快に笑った。
「これ以上、船を壊されたら商売あがったりだからね!」
シエナが深いため息をつく。
「……あんた、本当にそればっかりね」
「当たり前だろ! 船はあたしの家なんだから!」
その言葉に、シエナは少しだけ表情を緩めた。
ルティスは二人を見た。
豪快な船長。
雷を纏う槍使い。
そして、Voltの宝玉。
新たな出会いは、まだ始まったばかりだった。
雲の切れ間から、陽の光が差し込む。
二隻の飛行船が、青い空に並んでいた。
Chapter 11 ― 空を駆ける雷 END




