Chapter6 狭間
翌朝、町を出てしばらくすると、道は森へと変わった。
先頭を歩いているのは、一匹の黒猫。
赤い布を首に巻き、大きな金色の鈴を下げている。
数日前まで二本足でエールを飲んでいたポップは、すでにいつもの姿へ戻っていた。
「ねえ、ポップちゃん」
「…………」
「ポップちゃん」
「…………」
「ポーップちゃーん」
ちりん。
前を歩いていたポップの尻尾が、不機嫌そうに揺れた。
「ちゃんを付けるな」
「喋った!」
「昨日から喋ってるだろ!」
ミナが嬉しそうに駆け寄る。
「ねえねえ。狭間って猫いっぱいいる?」
「……いる」
「何匹?」
「知らねえよ」
「百匹くらい?」
「数えたことねえ」
「千匹?」
「お前、何しに行くつもりだ」
「猫ちゃんに会いに」
「目的変わってんじゃねえか!」
後ろを歩くカイルが笑った。
「猫の村だと思ってんじゃねえか?」
「違うの?」
「ネフィルの村だ!」
ポップが振り返る。
「昨日見せただろ! 俺たちは猫じゃねえ!」
「でも今、猫じゃん」
「これはこっちの世界での姿だ!」
「かわいいよ?」
「そういう話じゃねえ!」
森にポップの声が響く。
ルティスは三人の少し後ろを歩きながら、そのやり取りを眺めていた。
昨日まであの黒猫が何者なのかさえ分からなかった。
それが今では、自分たちを別の世界へ案内しようとしている。
――狭間。
人間界でもASTRAでもない場所。
二つの世界の間に存在する場所。
そこへ行けばエレナへ続く道が見つかるかもしれない。
「ルティス?」
ミナの声で我に返る。
「なに?」
「置いてくよ?」
「今行く」
ルティスは少しだけ歩調を速めた。
「ここだ」
ポップが足を止めた。
森の奥に古い石橋が残っている。
だが、その下に川はなかった。
苔に覆われた石。
乾いた川底。
その先には木々が続いているだけ。
昨日と同じ場所だった。
「何度見ても、何もないな」
カイルが辺りを見回す。
「普通ならな」
ポップが石橋を渡り、そして向こう側へ降りた。
「ここから先は、俺から離れるな」
声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
ミナもそれを感じたのか、黙って頷く。
「狭間は普通の場所じゃない」
「道が違うの?」
ルティスが聞く。
「少し違う」
ポップは前方を見た。
「道を知ってる奴と、知らない奴じゃ、同じ場所でも見えるものが違う」
「迷ったら?」
「戻れなくなることもある」
ミナが一歩、カイルへ寄った。
「……それ先に言ってよ」
「今言っただろ」
「もっと前!」
「だから離れるなって言ってんだ」
ポップは乾いた川底へ降りる。
三人も続いた。
しばらく歩くと、やがてポップが立ち止まった。
「この辺りだ」
「入口?」
「ああ」
ルティスたちには、何も見えない。
木々。
苔。
岩。
どこにでもある森だ。
ポップが前足を上げた。
何もない空間へ触れる。
――ちりん。
鈴が鳴る。
「…………」
何も起こらない。
もう一度、ポップが触れる。
「……やっぱり駄目か」
「開かないの?」
ミナが尋ねる。
「ああ」
ポップは空間を睨む。
「前は、俺だけでも開けた」
「狭間が壊れてるってこと?」
「おそらくな」
そして金色の瞳がルティスへ向いた。
「来い」
「私?」
「昨日も反応しただろ」
ルティスはポップの隣へ立った。
一歩、空間へ近づく。
その瞬間。
「…………っ」
胸の奥が、僅かに熱を持った。
ルティスは無意識に胸元へ手を添える。
――Umbra。
自分の中にあるもの。
ほんの一瞬、目を閉じる。
やはり何かに反応している。
「どうした?」
ポップが尋ねる。
「……なんでもない」
ルティスは手を下ろした。
Umbraのことはまだ話さない。
「触ってみろ」
ポップが指を指したその先に、ルティスは手を伸ばした。
指先が――何もない空間へ触れる。
その瞬間、波紋が広がった。
「……!」
ミナが息を呑む。
森の景色が揺れる。
まるで水面に映った景色を指でなぞったように。
一度。
二度。
波紋が広がるたび、向こう側の景色が変わっていく。
木々の間に白い霧が現れた。
「……開いた」
カイルが呟く。
だが、光の門が現れたわけではない。
森は、そのまま続いている。
ただ、ある一点から向こうだけ空気や色が違う。
霧の奥に、知らない森が続いている。
「これが……狭間?」
ミナが尋ねる。
「違う」
ポップが答えた。
「ここは入口だ」
ポップが先に進む。
「来い」
三人は顔を見合わせ、ルティスが最初に踏み出した。
一歩、境目を越える。
「…………」
音が消えた。
森の鳥。
風。
葉擦れ。
すべてが一瞬だけ遠ざかる。
そして、次の一歩。
音が戻った。
ただし、もう、人間界の音ではなかった。
「……きれい」
ミナが呟いた。
薄い霧が流れている。
巨大な樹木。
淡い光を放つ草花。
苔むした石畳が森の奥へ続いている。
空は見えている。
けれど、青でも紫でもない。
朝焼けと夕暮れが同時に存在しているような、淡い色。
遠くに小さな家々が見えた。
石と木で造られた家。
煙突から煙が上がっている。
畑。
小川。
小さな橋。
洗濯物まで干されていた。
「……村」
ルティスが呟く。
「俺の村だ」
ポップが答えた。
その声は、少しだけ違って聞こえた。
誇らしそうだった。
「行くぞ」
四人は石畳を歩き始めた。
しばらくして。
「…………!」
ミナが止まる。
「どうした?」
カイルが聞く。
ミナは答えない。
道端に一匹の灰色の猫が座っていた。
こちらを見ている。
さらに塀の上に白い猫。
屋根の上に茶色い猫。
窓辺にも。
「…………」
「ミナ?」
「…………」
「おい」
ミナがゆっくりルティスを見る。
「ここに住む」
「駄目だ」
ポップが即答した。
「ポップを一番の贔屓にするから!」
「余計駄目だっ!」
その声に反応したのか。
屋根の上にいた猫が跳び降りる。
淡い光が身体を包み、小さな影が伸びる。
四本の脚が二本へ。
次の瞬間、そこには二本足で立つ茶色い毛並みのネフィルがいた。
「おかえり、ポップ」
「ああ」
ミナの口が開いたままになる。
「…………」
「なんだ」
「…………かわいい」
ポップがため息をつく。
村へ進むにつれ、ネフィルの姿が増えていった。
黒。
白。
灰色。
茶色。
まだ小さな子どももいる。
年老いた者もいる。
人間界では猫として暮らす彼らが、ここでは二本の足で歩き、話し、働いている。
籠を運び、畑を耕し、店先で何かを並べる者。
どこにでもある村の光景だった。
ただ一つルティスたちが、ここでは異物だった。
「……人間?」
誰かが呟いた。
空気が変わった。
一人。
また一人。
ネフィルたちが立ち止まる。
視線が集まる。
子どもたちは興味深そうに近づこうとするが、大人がその肩を掴んだ。
「ポップが……」
「連れてきたのか?」
「三人も?」
ざわめきが広がる。
「人気者だな」
カイルが小声で言う。
「お前らが珍しいんだよ」
ポップの声も小さい。
その時。
「ポップ」
低い声がした。
ざわめきが止まる。
一人のネフィルが歩いてくる。
白い毛並み。
ポップよりも年上だろう。
細身だが、背筋はまっすぐ伸びている。
片耳には古い傷があった。
そのネフィルは三人を順番に見た。
カイル。
ミナ。
ルティス。
そして。
ポップを見る。
「説明しろ」
「長くなる」
「なら座って話せ」
「……そう言うと思った」
白いネフィルはもう一度三人を見る。
「その前に、一つ確認する」
「分かってる」
「まだ何も言っていない」
「どうせ掟の話だろ」
「ならば話は早い」
白いネフィルの目が細くなる。
「三人だぞ」
「分かってる」
「ならば、お前が何をしたのかも分かっているな」
「…………ああ」
ミナが二人を交互に見る。
「何の話?」
ポップは答えなかった。
白いネフィルが口を開く。
「我らネフィルには、古くからの掟がある」
「掟?」
「人間を狭間へ招き入れた者は――」
一度、ポップを見る。
「その人間を、生涯監視する責を負う」
「…………え?」
ミナが目を瞬く。
カイルの表情も変わった。
「生涯?」
「ああ」
「それって……」
「お前たちが生きている限りだ」
三人の視線が一斉にポップへ向いた。
「…………」
ポップはそっぽを向いている。
「ポップちゃん……」
「その顔やめろ」
「だって……」
「勘違いすんな」
ポップの尻尾が揺れる。
「お前らを完全に信用したわけじゃねえ」
「だから監視するのか」
カイルが笑う。
「そういうことだ」
「三人とも?」
ミナが聞く。
「三人ともだ」
「ずっと?」
「そうだよ」
ミナの顔が明るくなった。
「じゃあ、ずっと一緒なんだ!」
「そういう意味じゃねえ!」
周囲のネフィルたちがざわつく。
中には呆れたような顔をしている者もいた。
だが白いネフィルは笑わなかった。
「ポップ」
「……なんだよ」
「監視とは、ただ見張ることではない」
ポップの表情からも笑みが消える。
「分かってる」
「彼らが狭間の秘密を外へ漏らすなら?」
「俺が止める」
「彼らが我らを脅かすなら?」
「俺が止める」
「彼らが――境界を壊すなら?」
沈黙。
ポップの金色の瞳がほんの一瞬、ルティスへ向いた。
「…………」
ルティスもその視線を受け止める。
「俺が止める」
白いネフィルはしばらくポップを見つめた。
やがて。
「ならばいい」
それだけ言って背を向ける。
「ついて来い」
「どこへ?」
ルティスが聞く。
白いネフィルは足を止めた。
「お前たちが何をしに来たのかは、ポップから聞く」
そしてルティスを見る。
「だが、その前に――」
鼻先が僅かに動いた。
「お前だ」
「私?」
「近くへ来い」
ルティスが一歩前へ出る。
白いネフィルの目が、ルティスの胸元へ向いた。
「…………」
ルティスは反射的に胸元へ手を添えそうになり――止めた。
「何?」
「妙だ」
ポップが隣から聞く。
「やっぱり分かるか?」
「ああ」
「何が?」
ルティスが尋ねる。
白いネフィルは答えた。
「境界の匂いがする」
「…………」
「それも、随分と深い」
ルティスは何も言わない。
胸の奥。
Umbraは静かなままだった。
「ポップ」
「だから連れてきた」
「なるほどな」
白いネフィルは、それ以上追及しなかった。
「来い」
再び歩き始める。
ルティスもその背中を追った。
村の奥へ進むにつれ。
景色が少しずつ変わっていった。
最初に気づいたのはカイルだった。
「……あれ」
道の先、一軒の家がある。
いや、あったが正しい。
今は家の右半分が――ない。
「壊れた……?」
ミナが呟く。
「違う」
ポップが答える。
壁が崩れているわけではない。
木材が折れているわけでもない。
家の半分だけが最初から存在しなかったように消えている。
そしてその先には紫色の霧が漂っていた。
「ASTRA?」
ルティスが聞く。
「これが侵食だ」
さらに歩く。
今度は畑。
一部分だけ、見覚えのある草が生えている。
カイルがしゃがむ。
「こいつは……向こうの森にも生えてる」
「人間界の植物だ」
ポップが言う。
その少し先では青白い光を放つ、見たことのない植物が地面を覆っていた。
「こっちは?」
「ASTRA側のものだ」
ルティスが周囲を見る。
狭間の植物。
人間界の植物。
ASTRAの植物。
同じ場所に三つが存在している。
「……混ざってる」
「そうだ」
ポップが答える。
「三か月前からだ」
白いネフィルが足を止める。
「最初は小さかった」
消えた家を見る。
「草が一本、見慣れぬものに変わった」
次に紫色の霧を見る。
「霧の向こうに、別の空が見えた」
「それが少しずつ広がってる?」
ルティスが聞く。
「ああ」
「止める方法は?」
「見つかっていない」
ポップが答えた。
「だから俺は向こうへ行った」
人間界へ。
原因を探すために。
ルティスはようやく理解した。
ポップが自分たちを観察していた理由。
狭間の匂い。
境界。
ヴァルグ。
すべてが少しずつ繋がっていく。
「こっちだ」
白いネフィルが言った。
村のさらに奥。
木々に囲まれた場所に、それはあった。
巨大な石の輪。
人の背丈を遥かに超えている。
表面には、見たことのない文字が刻まれている。
蔦と苔に覆われ。
長い間そこにあったことだけは分かった。
「門?」
ミナが尋ねる。
「違う」
白いネフィルが答える。
「我らはここから、二つの世界を見てきた」
「見る?」
「正確には、境界の状態を感じ取る場所だ」
ポップが石の輪へ近づく。
「昔はもっと安定してた」
ルティスも近づいた。
一歩。
「…………」
胸の奥。
また微かな熱。
Umbra。
石の輪に近づくほど僅かに強くなる。
だがルティスは何も言わなかった。
そしてルティスは石の輪へ視線を戻した。
その瞬間――揺れた。
石の輪の中央。
何もなかった空間が、水面のように波打つ。
「下がれ」
白いネフィルの声が響いた。
全員が一歩下がる。
空間が歪み、そして向こう側が見えた。
紫色の空。
黒い岩。
遠くに連なる、見知らぬ景色。
「……ASTRA」
ルティスが呟く。
ほんの一瞬だった。
景色はすぐに消える。
石の輪の中には、再び何もなくなった。
「今の……」
ミナが言葉を失う。
ルティスは石の輪へ一歩近づいた。
「ここから行ける?」
白いネフィルがルティスを見る。
「行ける」
ルティスの紫色の瞳が僅かに見開かれた。
「なら――」
「だが、今はやめておいた方がいいがな」
言葉を遮られた。
「どうして?」
「道が壊れている」
「壊れてる?」
「ああ」
白いネフィルは石の輪へ近づいた。
指先で、古い文字をなぞる。
「以前なら、狭間から二つの世界へ渡る道は安定していた」
「今は?」
「どこへ出るか分からない」
「…………」
「途中で道そのものが消える可能性もある」
ミナの表情が強張る。
「じゃあ、ヴァルグは……」
ルティスが呟く。
偶然壊れた道を通って人間界へ出てしまった?
「どうすれば直せる?」
ルティスが尋ねる。
「分からない」
「調べる方法は?」
「それも探している」
「だったら――」
ルティスが言いかけた時、白いネフィルが首を振った。
「一つ、勘違いしている」
「……何?」
「これは、道だけの問題ではない」
ルティスが黙る。
白いネフィルは石の輪の向こうを見る。
「三か月前から、狭間の各地で同じことが起きている」
消えた家。
人間界の植物。
ASTRAの霧。
そして突然繋がる、二つの世界。
「誰かが境界を開いてるんじゃないの?」
カイルが聞いた。
「違う」
白いネフィルは静かに答えた。
「少なくとも、我らはそう考えていない」
「じゃあ……」
ミナが呟く。
「何が起きてるの?」
白いネフィルはしばらく答えなかった。
やがて石の輪へ手を置く。
「境界は、ただ世界と世界を隔てているだけだ」
「…………」
「だが今起きているのは、その境界だけの問題ではない」
ルティスが白いネフィルを見る。
「どういうこと?」
白いネフィルはゆっくりと顔を上げた。
「我々の生きる世界は狭間――INTERISと呼ぶ」
「インテリス……」
「そして、お前たちが暮らす世界にも名がある」
白いネフィルは静かにルティスを見る。
「TERRA」
「……私たちの世界にも?」
「そうだ」
そして、紫の霧の向こうへ視線を向けた。
「TERRA。INTERIS。そしてASTRA」
「本来、この三つは交わることなく、それぞれの距離を保って存在している」
白いネフィルが空を見上げる。
「三つの世界が――」
静かな声が響いた。
「壊れ始めている」
Chapter 6 ― 狭間 END




