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Chapter5 もう一つの空

挿絵(By みてみん)


 ASTRA(アストラ)の空は、今日も色を決めかねていた。


 青とも紫ともつかない空。


 薄い雲の向こうで、淡い光がゆっくりと揺れている。


 朝なのか、昼なのか。


 それとも夕暮れなのか。


 八年もこの世界にいれば、もう慣れてもいいはずなのに。


 エレナは今でも時々、この空を不思議に思う。


「…………」


 崩れかけた石壁に腰を下ろし、空を見上げる。


 境界を閉じてから、三か月。


 正確には――


 閉じ直してから、三か月。


 八年前、エレナは境界を閉じるために、こちら側へ来た。


 元の世界へ帰れなくなることも分かっていた。


 それでも、選んだ。


 そうしなければならなかった。


 そして三か月前。


 暁の教団によって、閉じていたはずの境界が再び開きかけた。


 あの時、ルティスたちと共に、もう一度閉じた。


 もう会うことはないと思っていたのに、成長したルティスに会えて気持ちが揺れた。


「また見てるの?」


 背後から声がした。


 エレナが振り返る。


 銀青色の髪の少女が立っていた。


 両手には、小さな器が一つずつ。


「何か見つかるかもしれないから」


「昨日も同じこと言ってた」


「そう?」


「一昨日も」


「…………」


「その前も」


「そっか……」


 少女が小さく笑った。


 エレナの隣へ腰を下ろし、一つの器を差し出す。


「はい」


「ありがとう」


 温かい。


挿絵(By みてみん)


 エレナは両手で器を包んだ。


 二人で同じ空を見る。


 少女もまた、ASTRA(アストラ)の人間ではない。


 境界へ入り込み――


 こちら側へ来てしまった人間。


 理由もその時のことも、エレナは知っている。


 少女も、エレナのことを知っていた。


 二人で過ごすうちに、いつの間にか互いのことを話すようになっていた。


 だから今では、沈黙もそれほど気にならない。


「……ねえ」


「なに?」


「やっぱり探すの?」


 エレナは少女を見る。


「何を?」


「帰る方法」


「…………」


 エレナは再び空へ視線を戻した。


「探すよ。でも――」


 エレナの声が少しだけ低くなる。


「境界を開くつもりはない」


 少女は何も言わなかった。


「八年前に決めたことだから」


 器の中で、僅かに湯気が揺れる。


「境界を閉じる。そのために私はこっちに来た」


「知ってるよ」


 少女が言った。


「あなたが元の世界を守りたくて、こっちにいるのは」


「…………」


「お互いの身の上話くらいしか出来なかったしね」


 少女は器に口をつける。


 そして、何でもないことのように続けた。


「でもさ」


「なに?」


「境界を閉じたまま帰る方法は、本当にあるのかな」


 エレナが少女を見る。


「…………」


「あるよ」


「……どうしてそう思う?」


「きっと願いがあれば、道はある!」


「あ、それ、嬉しい」


 エレナは思わず笑った。


「八年探しても、見つかってないけどね」


「一人で、でしょ?」


「え?」


 少女はエレナを見る。


「今頃、向こうの世界のお友達も必死で探してるよ」


「…………」


「二人なら八年もかからないかもしれない」


「……そうね。」


「そうだよ。だって彼女、もう記憶が全部戻ってるんでしょ?」


 そう。エレナが境界へ来る際にUmbra(アンブラ)を取り込んだルティスが安定するために、記憶を封じた。


「私も手伝うよ」


 二人は顔を見合わせた。


 少女が笑う。


 エレナも笑った。


 ほんの少しだけ。


 八年間、探し続けてきた道が前より近くなったような気がした。


「ま――」


 少女が器へ視線を落とす。


「私は、帰る場所があるか分からないけどね」


「…………」


 エレナは少女を見る。


 けれど、理由は聞かなかった。


 知らないからではない。


 知っているからだ。


 少女がここへ来るまでのことも。


 その向こうに何を残してきたのかも、聞いている。


「だったら」


 エレナが言った。


「帰る方法を見つけてから考えよ」


「何を?」


「帰る場所があるかどうか」


「なかったら?」


「その時は――」


 エレナは少し考えた。


「私と一緒にいようよ」


「本当に?」


「うん。ルティスを紹介したいし」


「会ってみたい」


 二人が笑う。


 その時だった。


 ――――。


 少女の表情から笑みが消えた。


「……エレナ!」


「……うん」


 エレナも気づいていた。


 空気が震えている。


 風ではない。


 地面でもない。


 もっと深いところ。


 世界そのものが、軋んでいるような感覚。


 知っている。


 忘れるはずがない。


 エレナは立ち上がった。


 遠く。


 何もなかった空間に、一筋の亀裂が走った。


「……嘘」


 少女も立ち上がる。


 亀裂から紫色の光が漏れ出す。


 三か月前。


 確かに閉じたはずのもの。


「境界……」


 少女が呟く。


 エレナの手から器が落ちた。


「開いてる」


 次の瞬間。


 二人は走り出した。



 亀裂が現れた場所は、少し離れた荒野だった。


 黒い岩。


 灰色の大地。


 奇妙な植物がまばらに生えている。


 エレナは走る。


 後ろから少女もついてくる。


「エレナ!」


「急いで!」


「分かってる!」


 近づくほど、はっきり分かった。


 間違いない。


 境界の亀裂だ。


 しかし、おかしい。


 三か月前に閉じた。


 暁の教団が開こうとした境界を、ルティスたちと共に。


「どうして……」


 エレナは走りながら呟いた。


「どうして、また開くの……?」


 二人が辿り着いた時。


 亀裂はすでに細くなり始めていた。


「閉じてる……?」


 少女が息を切らしながら言う。


「閉塞が早い!」


 エレナは亀裂の前で立ち止まった。


 手を伸ばすが、触れない。


 ただ、その向こうを感じようとする。


「…………」


 違う空気。


 ASTRA(アストラ)ではない。


 向こう側に――世界がある。


 向こうの世界、つまり人間界。


 エレナの表情が変わった。


 八年前に残してきた世界。


 三か月前。


 ほんの僅かな時間だけ、もう一度触れた世界。


「……向こうと繋がってる」


 少女も隣へ立つ。


「見える?」


「見えない」


「何か通った?」


「分からない」


「向こうから?」


「それも分からない」


 エレナは亀裂を見つめる。


 喜びはなかった。


 むしろ胸の奥に、冷たいものが広がっていく。


 境界は開いてはいけない。


 そのために八年前、自分はすべてを捨てた。


 三か月前にも、同じ選択をした。


 なのに。


「誰かが開いたの……?」


「分からない」


 少女も亀裂を見つめている。


「でも、三か月前とは違う」


 エレナが少女を見る。


「どういうこと?」


「分からないけど……」


 少女が目を細める。


「前みたいに、無理やりこじ開けられてる感じがしない」


「…………」


 エレナも同じことを感じていた。


 暁の教団が開こうとした時とは違う。


 もっと自然で、ドアを開く感覚。


「……何が起きてるの」


 その瞬間。


 亀裂が大きく揺れた。


「エレナ!」


「……っ!」


 少女に腕を引かれ、エレナが下がる。


 直後。


 亀裂が急速に細くなった。


「あ……」


 エレナが手を伸ばす。


 だが、光は消えた。


 空間が閉じる。


 何もなかったように静寂が戻った。


「…………」


 二人はしばらく動かなかった。


「閉じたね」


「……うん」


「行かなくてよかった?」


 少女はエレナを見る。


「行けないよ」


「どうして?」


「だって、何も分からないし」


「でも、行きたそうな顔してた」


「…………」


 エレナは、先ほどまで亀裂があった場所を見る。


「そうね、行きたい」


 少女が黙る。


「会いたい人もいる」


 黒い髪。


 紫色の瞳。


 影を纏う少女。


 もう会えないと思っていたのに、三か月前に再会出来た。


「でも」


 エレナは首を振った。


「境界を開いて帰るのは違う」


「…………」


「それをしたら、八年前にここへ来た意味がなくなる」


 少女は何も言わなかった。


 やがて。


「頑固」


「譲れないものがあるの」


「誰かさんと似てる」


「誰?」


「さあ」


 少女が歩き出した。


「帰ろ」


「うん」


 エレナはもう一度だけ振り返る。


 境界は消えている。


 それでも胸の奥に残る不安は、消えなかった。



 帰り道。


 二人は細い水辺を歩いていた。


 水面には紫色の空が映っている。


「ねえ」


 前を歩く少女にエレナが言った。


「なに?」


「あなたも会いたい人、いるでしょ?」


「前に話した人のことかな?」


「うん」


「銀髪の?」


「うん」


「一見クールなのに寂しがり屋の?」


「そう」


 二人は顔を見合わせて笑った。


「ま、あの子が私を覚えてるか分からないけどね」


 その時。


 ――ぽつん。


「…………」


 エレナが足を止めた。


 水面に波紋が広がっている。


 一つ。


 そして。


 もう一つ。


「どうしたの?」


 少女が振り返る。


 風はない。


 水面に何かが落ちたわけでもない。


 少女の足も、水には触れていなかった。


「……今」


「なに?」


 エレナは水を見る。


 だが、もう何も起きていない。


「……ううん」


「変なの」


 少女は再び歩き始めた。


 エレナも後を追う。


 二人の姿が遠ざかっていく。


 静まり返った水面。


 そこから。


 一滴。


 水が浮かび上がった。


 重さを忘れたように、ゆっくりと。


 宙へ。


 ほんの僅かに浮かび――落ちた。



 夜。


 少女が眠ったあと。


 エレナは一人、外へ出た。


 空を見上げる。


 いつものASTRA(アストラ)の空。


 けれど今日は少し違って見えた。


 三か月前。


 ルティスたちと共に閉じた境界が、再び開いた。


 暁の教団が開いた時とは違い、こじ開けた感じがない。


 それが余計に怖かった。


「…………」


 エレナは目を閉じる。


 ルティス。


 無事だろうか。


 向こう側でも何かが起きているのだろうか。


「……会いたいな」


 ぽつりと呟く。


 エレナの表情から笑みが消える。


 今日、開いた境界。


 あれは希望ではない。


「…………」


 エレナは空を見上げる。


「何が起きてるの……?」


 答えはない。


 青とも紫ともつかない空が、どこまでも続いている。


 その空の向こう。


 エレナの知らない場所で、二つの世界の間にある場所へ――


 今、誰かが近づこうとしていた。


 ーー Chapter 5 ーーEND


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