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Chapter4 ネフィル

挿絵(By みてみん)


 ルティスが一階へ降りると、ミナはすでに起きていた。


 窓辺にしゃがみ込み、昨夜連れ帰った黒猫を覗き込んでいる。


「おはよう」


「あ、ルティスさん。おはよう」


「何してるの?」


「朝ごはん」


 ミナが身体をずらした。


 黒猫の前には、小さな皿。


 白いミルクが入っている。


「いっぱい飲んでね」


「ニャ」


 黒猫は皿を見下ろした。


 少しだけ間を置いてから、顔を近づける。


 ぺろ。


 ぺろ。


「かわいい……」


 ミナの頬が緩む。


 前脚には、昨夜巻いた白い包帯。


 木へ叩きつけられた割には、もう随分と元気そうだった。


 ルティスは、その姿を黙って見る。


 昨日。


 この黒猫はヴァルグへ飛びかかった。


 自分たちを助けるために。


 いや、助けるためだったのだろうか。


 ヴァルグと黒猫は、明らかに互いを警戒していた。


 そして、この黒猫は狭間へ出入りしている。


 普通の猫ではない。


 それだけは、もう間違いなかった。


 黒猫が顔を上げる。


 金色の瞳と目が合った。


「…………」


「…………」


「どうしたの?」


 ミナが振り返る。


「ううん」


 ルティスは椅子へ座った。


 飼い主はいないわね、内心ルティスは思った。


 黒猫も何事もなかったように、再びミルクを舐め始めた。



 昼。


「猫ちゃん、ご飯だよ」


 黒猫の耳が動いた。


 ミナが小さな皿を置く。


「…………」


 また。


 ミルクだった。


「ニャ……」


「どうしたの?」


「ニャ」


「お腹痛い?」


「ニャ」


「包帯きつい?」


「ニャ」


「傷が痛む?」


「ニャ」


 カイルがパンを齧りながら呆れた顔をする。


「お前、それ会話になってんのか?」


「なってるよ」


「全部ニャじゃねえか」


「声の感じが違うの」


「分かんねえよ」


「カイルには猫心が分からないんだよ」


「分からなくていい」


 黒猫は二人を見た。


 それから、自分の皿を見る。


 朝。


 ミルク。


 昼。


 ミルク。


「…………」


 小さく息を吐く。


 そして諦めたように舐め始めた。



 午後。


 三人はテーブルに地図を広げていた。


 窓辺では黒猫が丸くなっている。


「昨日の場所がここ」


 ルティスが森の一角を指差す。


 少し離れた場所に、もう一つ印がある。


 二日前。


 黒猫が空間へ消えた場所だ。


「近いな」


 カイルが言った。


「うん」


 ルティスは二つの印を見る。


「狭間の入口があった場所と、ASTRA(アストラ)の裂け目が現れた場所」


「偶然とは思えねえな」


「私も」


 ミナが地図を覗き込む。


「でもさ」


「なに?」


「ヴァルグがASTRA(アストラ)から来たってことは――やっぱり道はあるんだよね」


「絶対にある」


 ルティスは即答した。


 三か月、何度探しても見つからなかった。


 古い転移魔法。


 遺跡。


 記録。


 噂。


 何一つ、ASTRA(アストラ)へ続く道にはならなかった。


 だが、この数日で状況は変わった。


 狭間。


 黒猫。


 そして――ヴァルグ。


 ASTRA(アストラ)から、実際にこちらへ渡ってきた存在。


「それに」


 ミナが言った。


「ヴァルグ、エレナさんの名前を知ってた」


「……うん」


 ルティスの表情が僅かに変わる。


 間違いなく反応した。


 エレナ、その名前に。


「もう一度会えれば、聞けるかもしれねえな」


「会えればね」


 カイルの言葉に、ルティスは地図を見たまま答えた。


 その時、窓辺の黒猫が薄く目を開けた。


 三人を見る。


 エレナ。


 どうやら、その人間を探しているらしい。


 そして三人はASTRA(アストラ)へ行こうとしている。


 昨日の異形も、その名前に反応した。


「…………」


 黒猫は再び目を閉じた。


 まだ、話すつもりはなかった。



 夜。


 夕食を終えたあと。


 ルティスはソファで古い本を読んでいた。


 カイルはテーブル。


 ミナは床に座っている。


 その膝の前に、黒猫。


「ちょっと見せてね」


 ミナが前脚の包帯を外す。


「……うん」


 傷を確認する。


「だいぶ良くなってる」


「ニャ」


「でも今日はまだ巻いとこうね」


 新しい布を巻く。


 昨日よりは綺麗だった。


「できた」


「ニャ」


 そして。


「はい」


 目の前に小さな皿が置かれた。


 黒猫は見る。


「…………」


 白い。


「いっぱい飲んでね」


「…………ニャ」


 ミルク。


 黒猫は、しばらく皿を見つめた。


 それでも仕方なく、一口舐める。


 その時だった。


 カイルが立ち上がり、棚の脇に置いてあった小さな木樽をテーブルへ運んだ。


 黒猫の耳が、ぴくりと動く。


 木樽の栓をひねる。


 ――トクトクトク。


 琥珀色のエールが木のジョッキへ流れ込み、薄い泡が縁まで膨らんだ。


「…………」


 金色の瞳が、それを追う。


 カイルがジョッキを持ち上げた。


「っあー……」


 満足そうに息を吐く。


「やっぱ仕事の後はこれだな」


 黒猫は自分の皿を見る。


 ミルク。


 カイルを見る。


 エール。


「…………」


 ミルク。


 ビール。


「…………」


 もう一口、ミルクを舐める。


 カイルが二口目を飲む。


「うまい」


 尻尾が揺れた。


 ルティスが本から目を上げる。


 黒猫はカイルのジョッキを凝視していた。


「……飲みたいの?」


「ニャ」


「まさか」


 ルティスは再び本へ視線を戻した。


 カイルが三口目を飲む。


「…………」


 黒猫は目を閉じた。


 耐えろ。


 ここで正体を明かす必要はない。


 まだこいつらを完全に信用したわけでもない。


 村のこともある。


 狭間のこともある。


 それに――


「くぅ……うめえ」


「…………」


 黒猫の目が開いた。


 無理だった。


「……悪い」


 カイルの手が止まった。


 ミナも止まった。


 ルティスが本から顔を上げる。


「こっちにも一杯、注いでくれ」


「…………」


「…………」


「…………」


 静寂。


 黒猫の耳がゆっくり伏せられる。


「……しまった」


 カイルがジョッキを置いた。


「お前……」


「…………」


「喋れんのか?」


「……まあな」


「猫ちゃんが喋ったぁぁぁぁ!?」


「うるせえ!」


 黒猫が叫ぶ。


 ミナが飛び上がった。


「え!? 待って待って! 今まで全部分かってたの!?」


「まぁな」


「猫ちゃんって呼んでたのも!?」


「あぁ」


「なんで言ってくれなかったの!?」


「言えるわけねえだろ!」


 カイルは黒猫とジョッキを交互に見る。


「……お前、酒飲むの?」


「飲む」


「猫なのに?」


「猫じゃねえ」


「いや、どう見ても猫だろ」


「これはこっちでの姿だ!」


 三人が黙った。


 ルティスが黒猫を見る。


「こっちでの姿?」


「……ああ」


 黒猫は諦めたように息を吐いた。


「もういい」


 その身体を、淡い光が包んだ。


「え……?」


 ミナが一歩下がる。


 小さかった影が伸びていく。


 四本の脚が形を変え、二本の脚で床へ立つ。


 丸かった背が伸びる。


 それでも艶のある黒い毛並みと長い尾は残った。


 首に巻かれていた赤い布が広がり、肩元を覆う使い込まれたスカーフへ姿を変える。


 その下には黒革を主体とした冒険者の装い。


 胸や肩、腕を守る革の装具には、幾つものベルトと金具が重なっている。


 そして首元には猫の姿の時から下げていた、大きな金色の鈴。


 光が消えた。


「…………」


 そこに立っていたのは人間より少し小柄な、人ならざる者だった。


 全身を覆う黒い毛。


 頭には尖った二つの耳。


 腰の後ろでは、長い黒い尾がゆっくりと揺れている。


 そして金色の瞳。


 顔立ちは間違いなく、さっきまでそこにいた黒猫そのものだった。


 ただ、二本の脚で立っている。


「…………」


 カイルがジョッキを持ったまま固まっていた。


 ミナは口を開けたまま動かない。


 ルティスだけが、その姿を静かに見ている。


 最初に口を開いたのはカイルだった。


「……猫じゃねえか」


「猫じゃねえ!」


「いや、猫だろ」


「俺はネフィルだ!」


 ルティスが聞き返す。


「ネフィル?」


「ああ」


 黒い男は首元の赤いスカーフを直した。


「俺たちの種族だ」


 そして。


「名前はポップ」


「ポップ……」


 ルティスがその名を繰り返す。


 ミナの目が一気に輝いた。


「ポップちゃん!」


「ちゃんを付けるな」


「かわいい!」


「だからやめろ!」


 カイルが吹き出した。


「お前、人の姿になっても扱い変わらねえな」


「人じゃねえ。ネフィルだ!」


「分かった分かった」


「分かってねえだろ!」


 カイルは笑いながら空いているジョッキを一つ出した。


「で?」


 瓶を持ち上げる。


「飲むんだろ?」


 ポップの耳がぴんと立った。


「頼む……」


 ジョッキにビールが注がれる。


 ポップは両手で受け取った。


 一口。


「…………」


 目を閉じる。


「っあぁ……」


 艶やかな毛が逆立っているのが分かる。


「最っ高だ!!」


挿絵(By みてみん)


「そんなに好きなの?」


 ミナが聞く。


「舌でペロペロ喉を潤していくのも捨て難いが、やっぱりこのビールをグイグイ行く喉越しは堪らん!!」


 沈黙。


「あ、悪い。ちょっと興奮した」


「猫のくせによく分かってるじゃないか!」


 カイルが笑いながら、乾杯を誘う。


「おじさん同士の飲み会じゃない」


 ルティスが冷たい視線を送る。


 そしてミナがゆっくり自分の横を見る。


 床には、まだミルクの入った皿。


「……私、朝も昼も夜もミルクあげてたんだけど」


「飲んだだろ」


「嫌だった?」


「タダ飯に感謝はしてる」


「そう、ですか……」


「さすがに酒が欲しかった」


「言ってよ!」


「言った結果が今だろ!」


 カイルが声を上げて笑う。


 ルティスも僅かに口元を緩めた。



 しばらくしてポップのジョッキが半分ほど空いた頃。


「それで」


 ルティスが言った。


 ポップの耳が動く。


「ポップは、どこから来たの?」


 さっきまでの軽い空気が少しだけ変わった。


 ポップはジョッキを置く。


「……狭間だ」


 カイルの表情も変わる。


「やっぱりか」


「ああ」


 ルティスはテーブルに置かれた地図を見る。


 そこには自分で書いた二文字。


 狭間。


「世界と世界の間」


「そうだ」


 ポップは頷く。


「人間界にも、ASTRA(アストラ)にも属さない場所」


「そこにネフィルが住んでるの?」


 ミナが尋ねる。


「俺だけじゃない」


 少し迷ってから。


「村がある」


 三人が黙った。


 ルティスが顔を上げる。


「二日前に見えた場所?」


「……そうだ」


 霧の向こう。


 小さな家々。


 灯り。


 あれは幻ではなかった。


「どうして人間界に来たの?」


 ポップはすぐには答えなかった。


 ビールの泡を見つめる。


「三か月前」


 ルティスの指が止まる。


「二つの世界が、大きく揺れた」


 ポップは続ける。


「その頃から狭間がおかしくなり始めた」


「どういうこと?」


「狭間はどちらの世界にも属してない。だから存在できる」


 ポップはテーブルに指を置いた。


 右にあるジョッキ。


 左にある樽。


 その間を指す。


「ここが狭間だとする」


 三人が見る。


「今までは、この距離が保たれてた」


 ジョッキと樽を近づける。


「でも三か月前から、二つの世界が近づきすぎてる」


「それで……?」


「狭間が押されてる」


 ポップの表情が曇る。


「ASTRA(アストラ)に呑まれる場所もある。人間界へ滲み出す場所もある」


 ルティスは昨日の森を思い出した。


 黒紫色の草。


 灰色の木。


 紫色の空。


「昨日の森……」


「あれはすでにASTRA(アストラ)の一部だ」


 ポップは髭についたビールの泡を舌で舐めて口を開く。


「だから俺はこっちへ来た」


「原因を調べるため?」


「それと、止める方法を探すためだ」


 沈黙。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 最初に沈黙を破ったのはカイルだった。


「……そういや、もう一つ聞きたいことがある」


「なんだ?」


「あいつだよ」


 ポップの耳が僅かに動く。


「昨日の――ヴァルグ」


「…………」


 その名前を聞いた瞬間。


 ポップの表情が変わった。


 ルティスはそれを見逃さなかった。


「やっぱり知ってるの?」


「……知ってるって言い方は、少し違うな」


「どういう意味?」


 ポップは残っていたエールを一口飲んだ。


「あいつ個人を知ってるわけじゃない」


「じゃあ、昨日はどうして飛びかかったの?」


 ミナが聞く。


「危険だと思ったからだ」


「私たちを助けてくれたんじゃないの?」


「…………」


「ポップ?」


「それも……少しはある」


 ミナの顔が明るくなる。


「やっぱり!」


「少しだって言ってんだろ」


「照れてる?」


「違う!」


 カイルが笑う。


「話が進まねえぞ」


「こいつのせいだ!」


 ポップは一度咳払いをした。


 そして、表情を戻す。


「俺たちネフィルは、狭間を通って二つの世界を行き来する」


「人間界とASTRA(アストラ)?」


「ああ」


 ルティスが僅かに身を乗り出す。


「じゃあ、ASTRA(アストラ)のことも知ってるの?」


「知ってる。……全部じゃないけどな」


 ポップは答えた。


「俺たちにとってASTRA(アストラ)は、知らない世界じゃない」


「じゃあヴァルグみたいなのも?」


「見たことはある」


 三人の表情が変わる。


「同じ種族ってこと?」


 ミナが尋ねる。


 ポップは首を振った。


「そこまでは分からない」


「分からない?」


「ASTRA(アストラ)には、お前たちの世界とは違う生き物がいる。姿も、大きさも、生き方も違う」


 ポップは少し考えてから続けた。


「ヴァルグみたいな奴も、その一つだ」


「じゃあ、珍しくはないの?」


「いや」


 ポップの答えは早かった。


「あんな奴が人間界にいることが、おかしいんだ」


 部屋が静かになった。


「本来なら来ない?」


 ルティスが聞く。


「少なくとも、あんな形で境界を越えてくることはなかった」


「それで攻撃したの?」


「ああ」


 ポップは頷いた。


「狭間がおかしくなってる時に、ASTRA(アストラ)側の存在が人間界へ出てきた。放っておけるわけないだろ」


 筋は通っている。


 だが。


 ルティスには、もう一つ聞かなければならないことがあった。


「ポップ」


「なんだ?」


「ヴァルグは……私を見てた」


 ポップが黙る。


「それに、あなたも見てた」


「…………」


「何か知ってる?」


 金色の瞳がルティスを見つめる。


 しばらくして。


「知らない」


「本当に?」


「ああ」


 ポップは静かに答えた。


「だから、お前を見てた」


「……?」


「俺にも分からないんだよ」


 ポップの鼻先が僅かに動く。


「お前からする、この妙な匂いが何なのか」


 ルティスは自分の身体を見る。


「匂い?」


「鼻で嗅ぐ匂いじゃない」


 ポップは言った。


「もっと……奥に残る感じだ」


 言葉を探す。


「狭間に長くいる奴なら分かる。世界には、それぞれ違う気配がある」


「人間界とASTRA(アストラ)にも?」


「ああ」


 ポップはルティスを指す。


「でも、お前には別のものが混じってる」


 ルティスの表情が変わる。


「昨日、ヴァルグからも似たものを感じた」


「私と……ヴァルグが?」


「同じじゃない」


 ポップはすぐに否定した。


「ただ――近い」


「何が?」


「分からない」


 ポップは首を振った。


「だから調べてる」


 ルティスは何も答えなかった。


 そっと胸元へ手を添える。


 その奥。


 自分の中に存在する――Umbra(アンブラ)。


 ヴァルグは、自分の影を見ていた。

 そして最後に、こう言った。


 ――その影を、手放すな。


 あれは、Umbra(アンブラ)のことだったのだろうか。


 もしそうなら。


 ヴァルグはUmbra(アンブラ)を知っている。


 あるいは――感じ取った。


「…………」


 ルティスはポップを見る。


 ポップは狭間について話した。


 ネフィルについても。


 ASTRA(アストラ)についても。


 けれど。


 まだ、すべてではない。


 話していないことがある。


 それは、なんとなく分かった。


 なら――こちらも同じでいい。


 Umbra(アンブラ)のことは、まだ話さない。


 ポップが何を知っているのか。


 何を隠しているのか。


 それが分かるまでは。


 ルティスは胸元から手を離した。


「もう一つ」


「なんだ?」


「ヴァルグは、エレナの名前を知ってた」


「……ああ」


「ポップはエレナを知ってる?」


「知らない」


「ASTRA(アストラ)で聞いたことも?」


「ない」


 ルティスの表情に、ほんの少しだけ落胆が浮かぶ。


 だがポップは続けた。


「ただ」


「?」


「あいつが知ってたなら――」


 金色の瞳がルティスを見る。


「そのエレナって奴がASTRA(アストラ)にいる可能性は、高いんじゃないか」


 ルティスは黙った。


 三か月。


 信じて探し続けてきた。


 それでも。


 初めてだった。


 ASTRA(アストラ)を知る者の口から、その可能性を肯定されたのは。


 ルティスはポップを見る。


「だったら――」


 その声に迷いはなかった。


「ASTRA(アストラ)へ行ける?」


 ポップの動きが止まった。


「狭間は二つの世界の間にある」


「…………」


「あなたは狭間から人間界へ来た」


「ああ」


「だったら」


 ルティスは金色の瞳をまっすぐ見る。


「狭間からASTRA(アストラ)へも行けるんでしょ?」


 長い沈黙。


 ポップはジョッキを置いた。


「……行ける」


 ミナが息を呑む。


 カイルも黙る。


 三か月、探し続けた答えだった。


「お願い、連れていって」


 ルティスは即座に言った。


 だが。


「駄目だ」


 ポップも即答した。


「どうして?」


「まだお前たちを信用してない」


 ミナの顔が曇る。


 ポップは包帯の巻かれた腕を見る。


「今はここまでだ」


「じゃあ――」


「話すことと、村へ連れていくことは別だ」


 声は静かだった。


「俺たちはずっと、二つの世界の間で生きてきた」


 ポップは三人を見る。


「村の場所を外の人間に知られる。それがどういうことか、お前たちには分からない」


 ミナは黙った。


 カイルも何も言わない。


 ルティスはしばらくポップを見つめた。


「分かった」


「……いいのか?」


「信用されてないなら仕方ない」


 ポップが少し意外そうな顔をする。


「でも」


 ルティスは続ける。


「諦めるつもりはない」


「…………」


 ポップの口元が僅かに上がった。


「だろうな」



 翌日。


「なんで戻ってるの?」


 ミナが不満そうに言った。


 テーブルの上には、いつもの黒猫。


 赤い布。


 金色の鈴。


「ニャ〜」


「そっちもかわいいけど」


「ニャ」


 ミナが抱き上げようとする。


 ポップがするりと逃げる。


「もう喋れるって分かったんだからいいでしょ!抱っこ!」


「フニャー!」


 カイルが笑う。


「昨日まで普通に抱かれてたじゃねえか」


 ルティスが小さく笑った。


「それで?」


 ポップが振り返る。


「いつまで猫の姿で日向ぼっこしてるの?」


 ポップはミナに無理矢理抱っこされたまま、口を開く。


「……見せたい場所がある」


 三人の表情が変わる。


「村?」


 ミナが聞く。


「違う」


 即答だった。


「期待するな」



 ポップが三人を連れてきたのは、町から離れた古い石橋だった。


 川はほとんど干上がっている。


 白い石の間を、細い水だけが流れていた。


「こんなところに?」


 カイルが橋を見上げる。


「昔はここにも入口があった」


「狭間の?」


「ああ」


 ポップが橋の下へ降りる。


 三人も続いた。


 苔むした橋脚。


 ひび割れた石。


 その奥。


 何もない空間の前で、ポップが止まった。


「ここだ」


 前脚を伸ばす。


「…………」


 何も起こらない。


 もう一度。


 やはり何もない。


「おかしい」


「開かないの?」


 ミナが聞く。


「ああ」


 ポップの声から軽さが消えた。


「前なら、ここから普通に帰れた」


 ルティスが近づく。


「触ってみてもいい?」


「待て」


 ポップが止めた。


 その瞬間。


 ――揺れた。


「……!」


 何もないはずの空間。


 そこへ、水面のような波紋が広がる。


 ルティスはまだ触れていない。


 ただ、近づいただけ。


「ポップ」


「動くな」


 金色の瞳が、空間を凝視する。


 ルティスが僅かに手を伸ばす。


 波紋が大きくなった。


 そして、一瞬だけ。


 向こう側が見えた。


 白い霧。


 暖かな灯り。


 小さな家々。


「……あそこ」


 ミナが呟く。


「この前見た場所」


 ルティスも覚えている。


 狭間。


 その向こうにある村。


 だが次の瞬間、景色は消えた。


 何もない空間へ戻る。


「…………」


 ポップは動かなかった。


 ルティスは、本来なら人間には見えないはずの入口へ触れた。


 ASTRA(アストラ)から来たヴァルグが、ルティスを見て動きを止めた。


 そして今。


 自分でも開けられなくなった入口が、ルティスが近づいただけで反応した。


 偶然。


 そう考えるには、もう多すぎる。


「ポップ?」


 ルティスが呼ぶ。


「…………」


「どうしたの?」


 しばらくして。


 ポップが息を吐いた。


「……分かった」


「何が?」


 金色の瞳が三人を見る。


「連れていく」


 ミナの顔が一気に明るくなった。


「本当に!?」


「ああ」


「ポップちゃんの家!?」


「ちゃんを付けるな」


「猫ちゃんの村!」


「戻すな!」


 カイルが吹き出した。


「お前、完全に気に入られたな」


「嬉しくねえ」


 そう言いながら。


 ポップはルティスを見る。


 その表情から笑いが消えた。


「ただし、条件がある」


「何?」


「村で見たものを外で話すな」


「分かった」


「勝手に動くな」


「分かった」


「それから」


 ポップは三人を順番に見る。


「俺から離れるな」


 ルティスは頷いた。


「分かった」


 ポップは閉じた入口を見る。


 三か月前から狭間は少しずつ壊れている。


 そして狭間そのものが、この女に反応している。


 ルティス。


 ヴァルグも彼女を見た。


 自分も彼女から、狭間とは違う何かを感じている。


 危険なのか。


 それとも。


 今の狭間に必要な存在なのか。


 まだ分からない。


 だから――確かめる。


「明日の朝」


 ポップが言った。


「狭間へ行く」


 ルティスは、何もない空間を見つめた。


 三か月。


 探し続けても見つからなかった道。


 その先にエレナがいる。


 まだ遠い。


 それでも。


 ようやく――


 道が、繋がり始めていた。


 ーー Chapter 4 ーー END


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