Chapter3 境界から来た者
翌朝。
ルティスたちは、昨日と同じ森に立っていた。
「……ここだよね?」
ミナが辺りを見回す。
「昨日はここだった」
カイルがしゃがみ込み、地面を確かめる。
巨大な木。
苔の生えた岩。
昨日と変わらない森だった。
だが――
何もない。
ルティスは、昨日黒猫が消えた場所へ手を伸ばした。
指先が空を撫でる。
昨日は確かにあった。
水面のように揺らぎ、その向こうに霧と小さな家々が見えた。
だが今日は、何の反応もない。
「……駄目」
「もう一回」
ミナが言う。
「さっきからやってるけど、何もないわ」
ミナは木の向こうを覗き込む。
「猫ちゃんもいないし……」
「そっちが本命だろ」
「違うよ」
「即答する割には説得力ねえな」
「狭間も大事。猫ちゃんも大事」
「同列なのか」
ルティスは二人の会話を聞きながら、もう一度空間へ手を伸ばした。
やはり何もない。
昨日のあれが幻だったとは思えない。
三人とも見た。
そして――あの黒猫も確かに向こう側にいた。
「……行こう」
ルティスが言った。
「え?」
「ここにいても仕方ない」
地図を取り出す。
昨日ミナが聞いてきた「地図にない集落」の話。
まだ調べられる場所はある。
「もう少し北を見てみる」
「了解」
「猫ちゃん……」
「ミナ」
「分かってるって」
三人は森の奥へ歩き始めた。
その少し離れた場所。
黒猫が枝の上から三人を見ていた。
赤い布。
首元の大きな鈴。
昨日と同じ三人。
やはり来た。
黒猫は、ルティスを見つめる。
昨日。
あの女は入口に触れた。
本来なら、こちら側の人間が気づくことすらない場所。
それを見ただけではない。
触れた。
そして一瞬だけ、狭間を覗いた。
偶然とは思えない。
だが、それだけで村へ連れていくわけにはいかなかった。
村の場所を人間に知られる。
それが何を意味するのか。
もう少し見る必要がある。
三人が遠ざかっていく。
黒猫は枝から飛び降りた。
――その時だった。
耳が動いた。
「……」
森の音が消えた。
鳥。
虫。
風。
ほんの一瞬。
すべてが止まった。
黒猫の金色の瞳が細くなる。
知っている、この感覚を。
最近、何度も感じている。
だが――
今日は近い、あまりにも。
黒猫は三人とは別の方向へ走り出した。
「……止まって」
ルティスが足を止めた。
カイルとミナも止まる。
「どうした?」
「静か」
「え?」
ミナが耳を澄ませる。
確かに。
森なのに、音がない。
風は吹いている。
枝も揺れている。
なのに葉擦れの音が聞こえない。
「……嫌な感じ」
カイルが剣の柄に手を掛ける。
ルティスも短剣へ手を伸ばした。
その時、遠くで何かが鳴った。
――チリン。
ミナが顔を上げる。
「猫ちゃん」
「なんで分かるんだ?」
「鈴!」
音は森の奥からだった。
もう一度。
――チリン。
今度は激しい。
「行こう」
ミナが走り出した。
「おい!」
カイルが追う。
ルティスも続いた。
木々の間を抜ける。
やがて三人は、開けた場所へ出た。
そして、止まった。
「……何、これ」
ミナが呟いた。
森が――途中で変わっていた。
右側には見慣れた木々。
緑の葉。
茶色い土。
だが数歩先から、景色が違う。
黒紫色の草。
薄く光る植物。
見たことのない灰色の樹木。
境界線などない。
ただ森の一部だけが、別の場所へ変わっている。
「昨日より……ひどい」
ルティスが呟く。
「昨日?」
「入口の近くにも、少し似た感じがあった」
だが規模が違う。
これは入口ではない。
何かが――こちら側へ染み出している。
――チリン。
「あっ!」
ミナが指を差した。
黒猫がいた。
変質した森の中。
「猫ちゃん!」
黒猫は三人を見た。
その表情が、初めて明らかに変わった。
来るな。
そう言っているように見えた。
「待って!」
ミナが一歩踏み出す。
その瞬間、地面が裂けた。
「ミナ!」
カイルが腕を掴み、引き戻す。
黒紫の草の間から、青白い光が走った。
一本。
二本。
亀裂が空中へ伸びていく。
「空が……」
ミナが見上げる。
割れていた。
空間そのものに細い亀裂が走っている。
その向こうに――紫色の空が見えた。
ルティスの呼吸が止まる。
知っている。
ほんの僅かしか見たことがなくても。
間違えない。
「……ASTRA」
その名を口にした瞬間だった。
亀裂が大きく開いた。
何かが落ちてきた。
地面が揺れ、土煙が舞う。
カイルが剣を抜いた。
ミナも弓を構える。
ルティスは動かなかった。
煙の向こう。
ゆっくりと、それが立ち上がる。
人ではない。
二本の脚。
長い腕。
細い身体。
黒い外殻のような皮膚。
背から伸びる鋭い突起。
頭部には後方へ流れる角。
青白い光が、その身体の隙間を脈打っている。
その手には、細長い黒い長柄武器。
大きい。
カイルより遥かに。
だが巨体ではない。
異様なほど細い。
それなのに――
強い。
戦う前から分かる。
「下がれ」
カイルが言った。
異形が顔を上げる。
青白い眼が三人を見る。
カイル。
ミナ。
そして――
ルティス。
そこで止まった。
「……?」
ルティスも、その目を見返した。
胸の奥が、僅かに疼いた。
痛みではない。
昨日、狭間の入口に触れた時とも違う。
もっと深いところ。
ずっと昔からそこにあるものが――
相手を知っている。
そんな感覚。
異形も動かない。
やがて。
低い声が響いた。
「……なぜ」
三人の表情が変わる。
ミナが弓を構えたまま呟いた。
「喋った……」
異形はミナを見ない。
ルティスだけを見ている。
「なぜ――」
一歩。
こちらへ進む。
カイルが前へ出た。
「そこで止まれ」
異形は止まらない。
カイルが剣を振る。
届く。
そう思った。
だが。
「……っ!?」
剣が空を切った。
距離がおかしい。
確かに目の前にいたはずなのに。
一瞬だけ。
遠くなった。
次の瞬間。
黒い長柄武器が横から迫る。
「カイル!」
カイルが剣で受ける。
――ガンッ!
「ぐっ……!」
身体ごと吹き飛ばされた。
「カイル!」
ミナが矢を放つ。
三本。
異形は避けない。
長柄武器を一度振る。
矢が弾かれる。
「嘘……」
ルティスが影へ沈む。
一瞬で異形の背後へ回る。
短剣を振る。
だが――届かない。
「……!」
まただ、距離がずれる。
異形が振り向く。
青白い眼を間近で見た瞬間、ルティスの影が揺れた。
異形の動きも止まった。
「……影」
ルティスが目を見開く。
「何?」
異形が僅かに顔を近づける。
「お前から――」
その瞬間、黒い影が横から飛び込んだ。
黒猫だった。
異形の顔へ飛びかかる。
「猫ちゃん!?」
ヴァルグの腕が動く。
速い。
黒猫が弾き飛ばされた。
「――!」
小さな身体が木へ叩きつけられる。
鈴が激しく鳴った。
「猫ちゃん!!」
ミナが走る。
異形の武器が動いた。
その先にはミナ。
「ミナ!」
ルティスの影が地面を走る。
ミナの身体を引く。
刃が地面を抉った。
カイルが立ち上がる。
「おい、化け物!」
剣を構え直す。
異形がカイルを見る。
「……化け物」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
「何だよ」
「それが――お前たちから見た、我らか」
カイルの動きが止まった。
「……我ら?」
ルティスが聞く。
「あなた、一人じゃないの?」
返事はない。
ミナは黒猫を抱き上げた。
「大丈夫!?」
「……ニャ」
「よかった……」
異形の視線が黒猫へ向く。
そこで初めて、明確な警戒が浮かんだ。
黒猫も異形を睨んでいる。
二匹――いや、二つの存在は。
互いを知っているように見えた。
「……あなた」
ルティスが言った。
異形が振り返る。
「どこから来たの?」
「…………」
「さっきの裂け目」
ルティスは、その背後を見る。
まだ僅かに紫色の空が見えている。
「ASTRAから来たの?」
青白い瞳が細くなる。
「……なぜ」
異形が初めて、明確に反応した。
「なぜ、その名を知っている」
ミナとカイルがルティスを見る。
ルティスは短剣を下ろさない。
「見たことがあるから」
沈黙。
「人間が?」
「ある」
異形の視線が、再びルティスの影へ落ちる。
そして。
「……そういうことか」
「何が?」
答えない。
「待って」
ミナが言った。
全員がミナを見る。
「この人……」
「人?」
カイルが言う。
「喋ってるんだから、とりあえず人みたいなものでしょ」
「雑だな」
「今そこどうでもいい!」
ミナは異形を指差した。
「この人がASTRAから来たなら――」
言葉が止まる。
ルティスが気づいた。
カイルも。
ミナが続ける。
「こっちに、来られるってことだよね?」
誰も答えない。
「だったら……」
ミナの声が小さくなる。
「逆も、できるんじゃない?」
ルティスは裂け目を見る。
三か月探した古い記録、転移魔法、遺跡、狭間。
何度調べても見つからなかった道。
それが今、目の前にある。
「エレナ……」
ルティスが一歩踏み出す。
異形の長柄武器が、その進路を塞いだ。
「行かせない」
「……どうして」
「今のお前が渡れば――」
異形が裂け目を見る。
「戻れない」
「それでも――」
「ルティス」
カイルが止めた。
「今じゃない」
「でも」
「道があるって分かった」
カイルが裂け目を見る。
「それだけでも、昨日までとは違う」
ルティスは黙った。
異形が三人を見る。
「……エレナ」
ルティスが顔を上げる。
「今、なんて」
だが。
異形は答えなかった。
空間が震えた。
裂け目が閉じ始めている。
異形が振り返る。
「待って!」
ルティスが叫ぶ。
「あなた、名前はあるの?」
異形は足を止めた。
少しだけ振り返る。
「……ヴァルグ」
「ヴァルグ」
ルティスはその名を繰り返す。
「私はルティス」
「知る必要はない」
「じゃあ、なんで教えたの」
「…………」
ヴァルグは答えなかった。
そして最後に、ルティスの影を見る。
「その影を――」
「?」
「手放すな」
ヴァルグは裂け目へ入った。
紫の光。
空間が閉じる。
森に音が戻った。
鳥が鳴く。
葉が揺れる。
まるで何もなかったように。
三人はしばらく動けなかった。
「……ASTRA」
ミナが呟く。
「本当に、あったんだね」
「最初からあっただろ」
「そうじゃなくて」
ミナはルティスを見る。
「行ける場所として」
ルティスは頷いた。
その腕の中で。
「ニャ……」
「あっ!」
ミナが黒猫を見る。
「猫ちゃん!」
黒猫はぐったりしていた。
「怪我してる!」
「家へ戻ろう」
ルティスが言った。
「でも飼い主が――」
「今は治療が先」
ミナが何度も頷く。
「うん!」
黒猫は薄く目を開けた。
三人を見る。
助ける理由などないはずだった。
自分はただの猫にしか見えていない。
それでもあの赤髪の女は迷わず飛び込んできた。
剣の男も。
そして――黒髪の女。
ヴァルグ。
あの異形を、黒猫は知っている。
正確には知っているはずの存在だった。
なぜ、あれが人間界にいる。
なぜルティスを見て、攻撃を止めた。
そして。
なぜ――
ルティスから感じる匂いとあの異形から感じるものが、こんなにも似ている。
「猫ちゃん、大丈夫だからね」
ミナが抱きしめる。
「……ニャ」
「絶対治してあげるから」
黒猫は目を閉じた。
少しだけ。
本当に少しだけ。
この三人を――信じてみてもいいのかもしれない。
夜。
三人の家。
黒猫は窓辺に横たわっていた。
前脚には、不格好な包帯。
巻いたのはミナだ。
「きつくない?」
「ニャ」
「痛くない?」
「ニャ」
「お腹空いてない?」
「ニャ」
「ミナ」
カイルが呆れた顔をする。
「そいつ寝られないぞ」
「だって心配なんだもん」
「元気そうだろ」
「怪我人……怪我猫なんだよ?」
「その言葉初めて聞いたぞ」
ルティスはテーブルに地図を広げていた。
その隣に、昨日書いた文字。
狭間。
そして今日、新しく書き加えた。
ASTRA。
二つの文字を一本の線で結ぶ。
「ヴァルグ」
ルティスが呟いた。
「どうした?」
「……私の影を見てた」
「俺も気になった」
カイルが椅子へ座る。
「あいつ、お前にだけ明らかに反応してた」
「うん」
ルティスは自分の手を見る。
「私も……変な感じがした」
「知ってる奴だったとか?」
「違う」
それだけは分かる。
会ったことはない。
なのに。
知らない感じがしなかった。
「それと」
ミナが黒猫を撫でながら言う。
「ヴァルグ、エレナさんの名前に反応してなかった?」
「……した」
「知ってるのかな」
「分からない」
でも。
確かめる必要がある。
ルティスは地図を見る。
狭間。
ASTRA。
そして――
黒猫。
点だったものが、少しずつ繋がり始めている。
まだ道にはならない。
それでも三か月前とは違う。
向こう側から来た者がいる。
必ずこちらから向こうへ行く方法もある。
深夜。
三人は眠っていた。
黒猫は目を開けた。
ゆっくり起き上がる。
包帯を見る。
「…………」
窓の外を見る。
帰ろうと思えば帰れる。
そして眠っているルティスを見る。
三か月前、二つの世界が触れかけた。
その日から、狭間は少しずつ壊れ始めている。
だから自分はここへ来た。
原因を探すために。
人間界で何が起きているのか調べるために。
そして今日。
ASTRAの存在が、直接こちらへ渡ってきた。
もう時間はそれほど残されていないのかもしれない。
猫はルティスを見る。
まだ信用したわけじゃない。
村へ連れていくつもりもない。
でも。
「…………」
包帯を巻かれた前脚を見て、ミナを見る。
少なくとも、もう少しだけこいつらを見てみよう。
窓辺で金色の瞳が、静かに閉じた。
―― Chapter 3 END ――




