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Chapter19 最後のNexus

挿絵(By みてみん)


 空が、裂けた。


 それは雷のような一瞬の光ではなかった。


 遥か彼方から地平線へ向かって、巨大な亀裂がゆっくりと広がっていく。


 その向こうには、夜よりも深い闇があった。


「……何、あれ」


 ミナが足を止めた。


 神域を出てから、まだそれほど時間は経っていない。


 けれど、世界は明らかに変わり始めていた。


 遠くに見える山の一部が、輪郭を失っている。


 木々は風もないのに崩れ、草原には無数の黒い亀裂が走っていた。


「……急いだ方がいいな」


 カイルが言った。


「ここにいたら、いつ足元がなくなるか分からない」


「そうね」


 シエナが空を見上げた。


「でも、どこに行けば安全なのよ?」


 誰も答えられなかった。


 ルティスは、少し離れた場所を歩くアッシュとティアを見た。


 アッシュの右腕には、かすかな炎が揺れている。


 ティアの片脚は、すでに樹木と一体化していた。


 神域の守護者との戦いが終わってから、二人はずっとルティスたちに同行している。


 シエナも同じだ。


 三人とも、ノアと一緒に再び姿を現したばかりだった。


 けれど、そのノアだけは今、ここにはいない。


 神域の入口で別れたあと、何かを確かめると言って姿を消していた。


「……あいつ、本当に何考えてるんだろうな」


 カイルが呟いた。


「ノアのこと?」


 ルティスが尋ねる。


「ああ。俺たちを助けに来たと思ったら、またどこかへ行っちまうし」


「……ノアには、ノアの考えがあるんだと思う」


「それは分かるけどな」


 カイルは肩をすくめた。


「もう少し説明してくれてもいいだろ」


 ルティスは小さく笑った。


 けれど、その笑顔は長く続かなかった。


 遠くの空で、また一つ亀裂が広がったからだ。


 ――七つの柱が世界を支えなくては、三つの世界は崩壊する。


 神の言葉が、頭から離れない。


 七つの柱。


 七人の犠牲。


 そして、残された時間。


 ルティスは自分の手を見つめた。


 今はまだ、普通の手だった。


 けれど、それがいつまで続くのか、誰にも分からなかった。



 最初に異変が起きたのは、ルナだった。


「……あれ?」


 小さな声に、エレナが振り向く。


「どうしたの?」


「……手が」


 ルナは右手を見つめていた。


 指先が、透き通っている。


 皮膚の下を流れる血の代わりに、淡い青色の光が揺れていた。


「ルナ……?」


 エレナが近づく。


 その目の前で、ルナの小指が水へと変わった。


 形は残っている。


 けれど、それはもはや人間の指ではなかった。


 透明な水が、指の輪郭を保ったまま静かに流れている。


「……何、これ」


 ルナは指を動かした。


 水も同じように動いた。


 痛みはない。


 けれど、触れた感覚もなかった。


「……エレナ」


 声が震える。


「私……どうなってるの?」


 エレナは答えられなかった。


 ルティスが駆け寄る。


「ルナ、大丈夫?」


「……分からない」


 ルナは笑おうとした。


 けれど、その表情はうまく作れなかった。


「痛くないの。でも……自分の指じゃないみたい」


 そのとき。


 エレナの肩から、淡い光がこぼれた。


「……え?」


 今度はルナが顔を上げる。


 エレナの左腕。


 白い衣の下から、金色の光が滲み出していた。


 指先が光を帯び、輪郭がわずかに薄くなる。


「……私も、始まったみたい」


 エレナは静かに言った。


 あまりにも落ち着いた声だった。


「エレナ……!」


 ルティスが、その手を取る。


 まだ温かい。


 けれど、指先からは確かに光が溢れていた。


「大丈夫よ、ルティス」


「……大丈夫なわけない」


 ルティスは小さく首を振った。


「だって……」


 言葉が続かなかった。


 八年ぶりに取り戻した、大切な人。


 その人が、目の前で人間ではない何かへ変わろうとしている。


 その光景が、恐ろしかった。


「……柱になるって」


 ミナが呟いた。


「こういうことなの……?」


 誰も答えなかった。


 ただ、アッシュだけが自分の右腕を見つめていた。


 そこでは、先ほどまでかすかに揺れていた炎が、少しずつ強くなっていた。



 森を抜けた先には、広大な岩原が広がっていた。


 かつてそこには、山から流れ込む川があったのだろう。


 乾いた川床が幾重にも曲がりながら、遠くの谷へ続いている。


 だが、その景色は不自然だった。


 川床の途中が、消えている。


 大地に穴が開いているのではない。


 岩も、土も、そこにあったはずの空間さえも失われていた。


「……なんだよ、あれ」


 カイルが呟いた。


 消えた大地の向こうには、何もなかった。


 闇ですらない。


 そこに何があるのか、目で確かめることができなかった。


「世界の境界が……」


 エレナが息を呑んだ。


「崩れ始めている」


 そのとき。


 遠くにあった岩山の一部が、音もなく消えた。


 大きな岩が地面へ落ちる。


 だが、地面に触れる直前、その岩もまた光の粒となって消えてしまった。


「……どうなってるの?」


 ミナが尋ねる。


「世界そのものが、形を保てなくなってるんだと思う」


 エレナが答えた。


 ティアは黙って地面にしゃがみ込んだ。


 片手を、大地に触れる。


 細い根が、指先から伸びていく。


 しかし。


「……っ」


 ティアが顔をしかめた。


 伸びた根の先が、突然消えたのだ。


「Ignis(イグニス)」


 アッシュが声をかける。


「……大地が、なくなっていく」


 ティアは、ゆっくりと立ち上がった。


「土が崩れてるんじゃない。大地そのものが、消えてる」


 その言葉に、全員が沈黙した。


 やがて、ティアは足元を見つめた。


「……私、大地の一部になったつもりだった」


 誰に言うでもなく、呟く。


「人間でいるより、その方がいいと思ってた」


 ルティスは、ティアを見た。


「でも……」


 ティアは、遠くの岩山を見つめた。


「大地がなくなったら、私は何になるんだろう」


 その問いに、答えられる者はいなかった。



 異変は、次々と現れた。


 アッシュの右腕が、燃え始めた。


 だが、それは炎を纏っているのではなかった。


 腕そのものが、炎へと変わりつつあった。


「……アッシュ!」


 ルティスが駆け寄る。


「大丈夫なの!?」


「ああ……今のところはな」


 アッシュは苦笑した。


 炎の中で、指がゆっくりと動いている。


「不思議なもんだ。燃えてるのに、痛くない」


「でも……!」


「分かってる」


 アッシュは、炎になりかけた腕を見下ろした。


「このままじゃ、人間のままではいられないんだろうな」


 ルティスは唇を噛んだ。


 自分が宝玉を渡した。


 あのとき。


 何も知らずに。


「……ごめん」


 思わず、言葉がこぼれた。


 アッシュは顔を上げた。


「何が?」


「私が……Ignis(イグニス)の宝玉を渡したから」


 アッシュは、しばらくルティスを見つめていた。


 そして、少し困ったように笑った。


「……お前、そんなこと気にしてたのか」


「だって……!」


「受け取ったのは俺だ」


 アッシュは静かに言った。


「お前に無理やり押しつけられたわけじゃない」


 ルティスは顔を上げた。


「……でも」


「それに」


 アッシュは燃える右腕を軽く持ち上げた。


「まだ終わったわけじゃないだろ?」


 その言葉に、ルティスは何も返せなかった。


 少し離れた場所で、シエナも自分の左手を見つめていた。


 指先から紫色の雷が走る。


 細かな光が絶え間なく弾け、彼女の手の輪郭を曖昧にしていた。


「……冗談じゃないわ」


 シエナが舌打ちした。


「こんなところで終わるなんて、絶対に嫌」


 彼女は拳を握りしめる。


「まだやりたいこと、山ほどあるんだから」


「……うん」


 ミナが小さく頷いた。


 シエナはミナを見た。


「何よ?」


「……何でもない」


 ミナは少し笑った。


「ただ、そうだよねって」


 シエナは一瞬、不思議そうな顔をした。


 そして、鼻を鳴らした。


「当たり前でしょ」


 その会話を聞いて、ルティスは思った。


 みんな、生きたいのだ。


 柱になるために生まれてきたわけじゃない。


 それぞれに願いがあって。


 帰りたい場所があって。


 まだ見たい景色がある。


 それなのに。


 世界は、そんなことを少しも気にかけずに崩れていく。



 やがて、ルティス自身にも変化が現れた。


 最初は、足元だった。


 影が伸びた。


 魔法を使っていないのに、勝手に動いている。


「……え?」


 ルティスは足を止めた。


 影が足首から這い上がり、右腕へ絡みついていく。


 黒い模様が、皮膚の上をゆっくりと広がった。


「ルティス!」


 カイルが駆け寄る。


「何だ、それ!」


「……分からない!」


 ルティスは腕を振った。


 けれど、影は離れなかった。


 指先が黒く透け始める。


 光を吸い込むような、深い闇。


 その感覚は、どこか懐かしかった。


 Umbra(アンブラ)。


 長い間、自分と結びついていた存在。


 けれど、今までとは違う。


 魔法を使っているのではない。


 自分自身が、影へと変わっていく。


「……私も」


 ルティスが呟く。


 エレナが近づいた。


「ルティス……」


 ルティスは顔を上げた。


 その瞳には、恐れがあった。


「……エレナ」


 エレナは何も言わず、ルティスの左手を握った。


 光を帯びた手。


 影を帯びた手。


 二人は、しばらくそのまま立っていた。


「……嫌だね」


 ルティスが小さく言った。


「うん」


 エレナが頷く。


「……嫌だ」


 初めて、エレナもそう答えた。


 その声を聞いた瞬間、ルティスは泣きそうになった。



 空から、音が消えた。


 最初は誰も気づかなかった。


 風の音。


 遠くで崩れる岩の音。


 足元の砂が擦れる音。


 それらが、少しずつ失われていった。


 やがて。


 ――――。


 大地が、大きく震えた。


「……何!?」


 ミナが叫んだ。


 空の亀裂が、一斉に広がっていく。


 その向こうに、別の景色が現れた。


 見知らぬ空。


 見知らぬ山々。


 そして、遥か遠くに浮かぶ巨大な岩塊。


 三つの世界の境界が、互いに重なり始めていた。


「……まずい!」


 エレナが叫んだ。


「このままじゃ、世界の境界が完全に崩れる!」


 そのとき。


 ルナの体が、青く輝いた。


「……っ!」


 ルナが膝をつく。


 水へと変わった右手から、淡い光が溢れ出す。


「ルナ!」


 エレナが駆け寄ろうとする。


 だが、その瞬間。


 エレナ自身の左腕が、強烈な光を放った。


「……あっ!」


 光が弾ける。


 続いて、アッシュの炎が燃え上がった。


 シエナの雷が空を裂く。


 ティアの足元から、無数の根が伸び始める。


 そして。


 ルティスの影が、大地を覆った。


 六つの力。


 六人のNexus(ネクサス)。


 それらは互いに引き寄せられるように、円を描き始めた。


「……何が起きてるの?」


 ミナが尋ねる。


「Nexus(ネクサス)が……」


 エレナが苦しそうに答える。


「共鳴してる……!」


 六つの光が、空へ向かって伸びていく。


 だが、その中央には、一つだけ空白が残されていた。


 七つ目。


 最後の場所。


 ルティスは、その空白を見つめた。


 神の言葉が甦る。


 ――あと、ひとつ。


「……まさか」


 ルティスは、ゆっくりとミナを見た。


 赤い髪。


 弓を握る手。


 そして。


 風もないのに、静かに揺れる髪。


 神域の守護者との戦いで、ミナの矢を包んだ風。


 あのときの光景が、頭をよぎった。


「……ミナ」


 その名前を呼んだ声は、震えていた。


「何?」


 ミナが振り向く。


 ルティスは何も言えなかった。


 まだ、確信したくなかった。


 けれど。


 ミナの足元に、小さな碧空の光が現れた。


「……え?」


 ミナが下を見る。


 碧空の光は、彼女を囲むように、ゆっくりと円を描いていた。


「……私?」


 ミナが呟く。


 その瞬間。


 空の亀裂が、さらに広がった。



 崩壊は突然、速度を増した。


 大地が割れ、岩山が次々と消えていく。


 見上げれば、空の半分が失われようとしていた。


「危ない!」


 カイルが叫ぶ。


 地面の裂け目が、ミナたちの足元へ向かって走った。


 ティアが両手を広げる。


 巨大な樹木の根が大地を縫い止めた。


「……長くは持たない!」


 アッシュが炎を放ち、落下してくる岩を砕く。


 シエナの雷が空間を走り、崩れかけた岩壁を打ち抜いた。


 ルナは水流を広げ、仲間たちの足場を支えた。


 エレナの光が全員を包み込む。


 けれど。


 それでも、世界の崩壊は止まらなかった。


「……っ!」


 ルティスは膝をついた。


 影が足元から広がっていく。


 右腕は、肘の近くまで闇へと変わり始めていた。


「ルティス!」


 ミナが駆け寄る。


「来ないで!」


 ルティスが叫んだ。


 ミナの足が止まった。


「……でも!」


「お願い……離れて!」


 ルティスは影を押さえようとした。


 けれど、抑えきれなかった。


 まるで、自分の体が世界の一部へ溶け出していくようだった。


 そのとき。


 六つの光が強く輝いた。


 空白だった七つ目の場所から、風が吹き始める。


 ミナの周囲だけを巡る、小さな風。


「……そういうこと、だったんだ」


 ミナが呟いた。


 ルティスは顔を上げた。


「ミナ……?」


 ミナは、自分の手を見つめていた。


 あのとき。


 矢を放った瞬間に吹いた風。


 誰もいない場所で聞こえていた、かすかな音。


 理由もなく揺れる髪。


 すべてが、一つにつながっていく。


「……私なんだね」


 ミナは、ゆっくりと顔を上げた。


「最後のNexus(ネクサス)」


 ルティスは、首を振った。


「……駄目」


「ルティスさん?」


「駄目よ、ミナ!」


 思わず、声が大きくなった。


「あなたまで……!」


 ミナは何も言わなかった。


 ただ、ルティスを見つめていた。


「……私、知ってたのかもしれません」


「え?」


「ずっと前から、何となく」


 ミナは、小さく笑った。


「でも、考えないようにしてたんです」


 その声は、震えていた。


「……怖かったから」


 ルティスは、何も言えなかった。



 そのとき。


「……まだ、時間はある」


 背後から声がした。


 ルティスが振り向く。


 崩れかけた岩場の向こう。


 銀色の髪が、風に揺れていた。


「……ノア?」


 ノアがゆっくりと歩いてきた。


 彼の手には、見覚えのあるものが握られていた。


 七宝玉のペンダント。


 かつてルティスが持っていたもの。


 ノアが持ち去った、あのペンダントだった。


「ノア……それ」


「ああ」


 ノアはペンダントを見下ろした。


「探していたものが、ようやく分かった」


「……何が?」


「最後のNexus(ネクサス)だ」


 ノアの視線が、ミナへ向けられた。


 ルティスは息を呑んだ。


「……ミナなの?」


「おそらくな」


 ノアは静かに答えた。


「Aeris(エアレス)が、あの娘を選んでいる」


 ノアは袋から碧空の光を帯びた宝玉を取り出した。


 風の宝玉。


 Aeris(エアレス)。


 それを、ルティスの前へ差し出す。


「……お前が渡せ」


 ルティスは宝玉を見つめた。


「……私が?」


「ああ」


「……どうして」


「お前が、ここまで運んできたものだからだ」


 ルティスは宝玉を受け取った。


 小さな球体だった。


 手のひらに収まるほどの大きさ。


 その内側では、碧空の光が静かに揺れていた。


 まるで、小さな風が閉じ込められているかのようだった。


 懐かしい重さ。


 かつて、七つの宝玉を求めて旅をした日の記憶が甦る。


 Ignis(イグニス)。


 Aqua(アクア)。


 Gaia(ガイア)。


 Aeris(エアレス)。


 Volt(ボルト)。


 Lumia(ルミア)。


 Umbra(アンブラ)。


 あの頃は、宝玉を集めれば世界を救えると信じていた。


 誰かの人生を奪うことになるかもしれないなんて、考えもしなかった。


 ルティスは、宝玉を握りしめた。


「……渡せない」


 小さな声だった。


 ノアは何も言わなかった。


「……私には、渡せないよ」


 ルティスの目に、涙が浮かんだ。


「アッシュにも、シエナにも……私が渡した」


 声が震える。


「そして今度は、ミナまで……!」


 ルティスは首を振った。


「そんなこと、できない……!」


 ノアは、しばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「……それを決めるのは、お前じゃない」


 ルティスが顔を上げる。


「何……?」


「お前が恐れていることは分かる」


 ノアはミナを見た。


「だが、選ぶのはあの娘だ」


 その言葉に、ルティスは息を呑んだ。


「……お前は、あいつから選ぶ権利まで奪うつもりか?」


 ルティスは何も答えられなかった。


 ノアは、それ以上何も言わなかった。


 ただ、静かに一歩下がった。


 そのとき。


「……ルティスさん」


 ミナが近づいてきた。


 その表情には、恐れがあった。


 けれど。


 瞳は、まっすぐにルティスを見つめていた。



「……それが、Aeris(エアレス)?」


 ミナが尋ねた。


 ルティスは頷いた。


「……うん」


 碧空の宝玉が、二人の間で淡く輝いていた。


 ミナは、しばらくそれを見つめていた。


「……綺麗」


 小さく呟く。


 その声は、あまりにも普段通りだった。


 ルティスは、胸が締めつけられた。


「……ミナ」


「はい」


「これを受け取ったら……」


 言葉が続かなかった。


 ミナは静かに頷いた。


「……分かってます」


「分かってない!」


 ルティスの声が震えた。


「柱になるって……人間として生きられなくなるかもしれないのよ!」


 ミナの表情が揺れた。


「……うん」


「もう、笑えなくなるかもしれない」


「……うん」


「私たちと、一緒に帰れなくなるかもしれない……!」


 ルティスの頬を、涙が伝った。


 ミナは、しばらく黙っていた。


 そして。


「……私、怖いです」


 小さな声で言った。


「すごく、怖い」


 その声は、震えていた。


「まだ、やりたいことがいっぱいあるんです」


 ミナは、自分の手を見つめた。


「もっと弓が上手になりたいし……」


 少しだけ笑う。


「カイルに、いつか一本取ってみたいし」


「……ミナ」


 カイルが呟いた。


「ルティスさんと、また旅もしたい」


 ミナの瞳に涙が浮かんだ。


「エレナさんやルナさんとも、もっと話したい」


 そして。


「……だから、本当は嫌です」


 ルティスは、息を呑んだ。


 ミナは涙を拭わなかった。


「柱になんて、なりたくない」


 その言葉に、ルティスの胸が痛んだ。


「……だったら!」


「でも」


 ミナが顔を上げた。


「このままだったら、全部なくなっちゃうんですよね」


 遠くで、再び轟音が響いた。


 大地の一部が、闇へ飲み込まれていく。


「……私、ずっと守られてきました」


 ミナは静かに言った。


「ルティスさんにも、カイルにも」


「そんなこと……」


 カイルが口を開く。


 けれど、ミナは小さく首を振った。


「でもね」


 ミナは微笑んだ。


「今度は、私が守りたいんです」


「……ミナ」


「怖いです」


 涙が頬を伝う。


「でも、怖いからって……何もしないのは、もっと嫌なんです」


 ルティスは、宝玉を握りしめた。


「……私が、別の方法を見つける」


「はい」


「必ず、見つけるから……!」


 ミナは、ゆっくりと頷いた。


「……信じてます」


 そして。


 ルティスの前へ、両手を差し出した。


「だから、ください」


 ルティスは動けなかった。


「……ミナ」


「私が決めたことです」


 ミナは微笑んだ。


「ルティスさんが悪いんじゃない」


 その言葉に、ルティスの目から涙が溢れた。


 しばらく、二人は向き合っていた。


 碧空の宝玉が、静かに輝いている。


 そのとき、カイルが口を開いた。


「……ミナ」


 ミナが振り向く。


 カイルは、言葉を探していた。


 止めたい。


 そんなことはするなと、言いたかった。


 けれど、目の前にいるミナは、もう答えを出していた。


「……俺は、嫌だ」


 カイルが言った。


「お前が柱になるなんて、絶対に嫌だ」


 ミナの表情が揺れる。


「……うん」


「でも……」


 カイルは拳を握りしめた。


「お前が決めたなら、俺には止められない」


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


「だから、一つだけ約束しろ」


「……何?」


「帰ってこい」


 ミナが息を呑んだ。


「何があっても、帰ってこい」


 カイルの声が震えた。


「俺たちのところに」


 ミナは、しばらくカイルを見つめていた。


 そして。


 涙を流しながら、笑った。


「……うん」


 小さく頷く。


「約束する」


 ルティスは、二人の姿を見つめていた。


 そして、ゆっくりと手を開いた。


「……ミナ」


「はい」


「私からも、約束してほしいことがある」


「……何ですか?」


「絶対に、諦めないで」


 ルティスは震える声で言った。


「最後まで、生きることを諦めないで……!」


 ミナは大きく頷いた。


「……はい!」


 ルティスは、Aeris(エアレス)の宝玉を差し出した。


 ミナが、両手で受け取る。


 その瞬間。


 風が止まった。



 碧空の光が、ミナの両手から溢れ出した。


「……っ!」


 ミナは目を閉じた。


 宝玉の内側で、小さな風が渦を巻く。


 それは次第に強くなり、光とともに彼女の体を包み込んでいった。


 赤い髪が舞い上がる。


 碧空の光が、足元に円を描く。


 ルティスは、その光景を見つめていた。


 あまりにも綺麗だった。


 そして。


 あまりにも、恐ろしかった。


「……Aeris(エアレス)」


 ミナが、静かに名前を呼んだ。


 風が応える。


 まるで、ずっと待っていたかのように。


 ミナは目を開いた。


「……私が、あなたのNexus(ネクサス)になる」


 次の瞬間。


 宝玉が強い光を放った。


挿絵(By みてみん)


 碧空の輝きが、ミナの胸へと吸い込まれていく。


 風が空へ駆け上がる。


 大地を巡り、崩れかけた世界の隅々へ広がっていった。


 ルティスたちは、思わず顔を覆った。


 眩しい光。


 激しい風。


 そして。


 ――――。


 すべてが、止まった。



 空を覆っていた亀裂が、動きを止めた。


 崩れ落ちかけていた大地が、静止する。


 消えかけていた山々が、その輪郭を保った。


 世界そのものが、息を止めたかのようだった。


「……止まった?」


 シエナが呟く。


 アッシュが空を見上げる。


「……ああ」


 けれど、誰も喜びの声を上げなかった。


 七つの光が、ゆっくりと空へ昇っていく。


 それぞれのネクサスを包み込みながら。


 ルティスは自分の手を見た。


 黒く変わりかけていた指先は、そのままだった。


 だが、影が広がることはなくなっていた。


 ルナの水も。


 エレナの光も。


 アッシュの炎も。


 シエナの雷も。


 ティアの樹木も。


 変化は、一時的に止まっていた。


 そして。


「……ミナ!」


 カイルが駆け寄った。


 ミナは七つ目の光の中央に立っていた。


 両手を広げたまま。


 目を閉じている。


「ミナ!」


 カイルが、その肩を掴む。


 ミナはゆっくりと目を開いた。


「……カイル」


「大丈夫か!?」


 ミナは少しだけ笑った。


「……うん」


 けれど。


 彼女の髪は、風もないのに静かに揺れていた。


 足元には、淡い碧空の光が残っている。


 そして、指先がわずかに透き通っていた。


「……止まったんだね」


 ミナが空を見上げる。


「ああ」


 カイルが答えた。


「お前のおかげだ」


 ミナは微笑んだ。


 その顔を見て、カイルは何かを言いかけた。


 けれど、言葉にならなかった。


 ルティスが近づく。


「……ミナ」


「ルティスさん」


 ミナは少し困ったように笑った。


「……勝手に決めちゃって、ごめんなさい」


 ルティスは答えられなかった。


 ただ、ミナの手を握った。


 温かかった。


 まだ、確かに人間の手だった。


「……謝らないで」


 ルティスは震える声で言った。


「私こそ……」


 ミナは首を振った。


「私、自分で決めたんです」


 その言葉に、ルティスは顔を上げた。


「だから……泣かないでください」


 ルティスは、自分が泣いていることに気づいた。


 ミナは微笑んだ。


 いつもの笑顔だった。


 少し照れくさそうで。


 どこか幼さの残る笑顔。


 それが、かえって苦しかった。


「……約束する」


 ルティスは言った。


「必ず、別の方法を見つける」


 ミナは頷いた。


「……はい」


 その声には、迷いがなかった。



 世界は、崩壊を止めていた。


 けれど、それは救われたことを意味しなかった。


 七つの光が空に浮かび、ゆっくりと脈打っている。


 そのたびに、七人のNexus(ネクサス)の体が淡く輝いた。


「……あれは」


 エレナが空を見上げる。


 七つの光は、少しずつ形を変えていた。


 やがて、それらは細長い光の柱となって、大地へ向かって伸び始めた。


「……柱」


 ルナが呟く。


「私たちを、呼んでる」


 その声には、静かな恐れがあった。


 ティアが自分の脚を見つめる。


「……そう。これで、世界を支えられるんだ」


 アッシュは燃える腕を握りしめた。


 シエナは唇を噛んだ。


 エレナは目を伏せた。


 ミナは、カイルの手をそっと握り返した。


 そして。


 ルティスは、七つの光を見上げた。


 七人が揃った。


 神の言葉通りに。


 けれど、それは七人が人として生きる時間の終わりを意味しているのかもしれない。


「……違う」


 ルティスが小さく呟いた。


 誰に聞かせるでもなく。


 自分自身に言い聞かせるように。


「まだ、終わってない」


 そのとき。


「……その通りだ」


 背後から声がした。


 ルティスが振り向く。


 少し離れた岩の上に、ノアが立っていた。


 銀色の髪が、静かな風に揺れている。


 彼は七つの光を見上げていた。


 その表情には、驚きも恐れもなかった。


 ただ、何かを確かめるように、じっと見つめている。


「……ノア?」


 ルティスが呼ぶ。


 ノアは岩から降り、ゆっくりと歩いてきた。


 そして、七人のネクサスを見渡した。


「……ようやく、揃ったか」


 その声に、ルティスの胸がざわめいた。


 ノアは、静かに言った。


「さて」


 紫色の瞳が、ルティスを捉える。


「ここからが、本当の問題だ」


 Chapter 19 ― 最後のネクサス END

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