Chapter18 神の答え
「でも――私は、まだ帰れない」
エレナの言葉に、ルティスは息を呑んだ。
八年。
ずっと会いたかった人が、今、目の前にいる。
三ヶ月前に封印されていたルティスの記憶が甦り、八年前の想いが溢れ出していた。
そしてほんのひとときだけ、エレナに会うことが出来たが、またしてもASTRAへ残す結果となった。
今回は目の前にいる。
けれど、再会を喜ぶはずだったルティスの胸には、重いものが残っていた。
アッシュ。
シエナ。
自分が宝玉を手渡した二人の姿が、脳裏から離れない。
「……どうして?」
ルティスは、自分の問いの答えはすでに分かるような気がしていた。
エレナは静かに目を伏せた。
「私も、あなたに謝らなければならないことがあるの」
「謝る……?」
「八年前、私はあなたに宝玉を託した。七つの宝玉が世界を救う鍵になると信じていたから」
エレナは一度言葉を切った。
「でも、その力を受け継いだ人たちが、最後には柱となって世界を支えなければならないなんて、知らなかったの」
ルティスは何も答えられなかった。
「あなたを巻き込んでしまった。ごめんなさい、ルティス」
その言葉を聞いた瞬間、ルティスは思った。
同じだ。
エレナも、自分と同じだったのだと。
救えると信じて託したものが、命を奪うかもしれない。
「……私も同じことをした」
ルティスは震える声で言った。
「アッシュにも、シエナにも、私が宝玉を渡したの。あの二人がどうなるかも知らずに……」
エレナは黙って聞いていた。
「私が渡さなければ、あの二人は……」
「ルティス」
エレナがそっとその手を握った。
「私はね、諦めたくないの」
ルティスが顔を上げる。
「帰れないと言ったのは、帰りたくないからじゃない。今のままでは帰れないという意味よ」
エレナは真っ直ぐにルティスを見つめた。
「私は、あなたと一緒に帰りたい」
長い沈黙が流れた。
やがてルティスは、握られた手を握り返した。
「……だったら、確かめたいことがある」
「何を?」
「この世界を創った神に、直接聞きたい」
ルティスの瞳に、かすかな光が戻っていた。
「本当に、誰かを犠牲にする以外に道はないのかって」
エレナはしばらくルティスを見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……分かったわ。案内する」
そのとき、窓の外で低い地鳴りが響いた。
二人が振り返る。
遠くの空に、細い亀裂のような光が走っていた。
世界の崩壊は、もう始まっていた。
「神に会う?」
カイルが聞き返した。
事情を聞いた彼は、腕を組んだままルティスを見つめていた。
「そう簡単に会える相手じゃないだろ?」
ポップが言う。
「簡単じゃなくても行く」
ルティスの答えに迷いはなかった。
カイルは小さく息を吐いた。
「だろうな」
隣にいたミナが、不安そうに窓の外を見た。
「でも……神様って、会いに行って会えるものなの?」
「会えるかどうか分からないわ」
エレナが答える。
「ただ、神の力が最も強く現れる場所なら知っている」
「そこに行けば、話ができるかもしれないってこと?」
「ええ」
エレナは卓上に置かれた紙を引き寄せ、そこに簡単な地形を描いていく。
山々に囲まれた谷。
その奥に、円を一つ。
「ここよ」
「何があるんだ?」
カイルが尋ねた。
「神域と呼ばれている場所。正確には、神が存在する領域と、この世界が接する場所ね」
「神殿みたいなもの?」
「建物はないわ。少なくとも、私が知る限りでは」
エレナは円の中心に指を置いた。
「ただ、そこに近づく者は、必ず何かに阻まれる」
「何かって?」
「分からない。私も奥まで入ったことはないの」
「ずいぶん危なっかしい話だな」
「危険でも行かなくちゃいけない」
ルティスが言った。
「ここで待っていたって何も変わらない」
その言葉に、カイルは肩をすくめた。
「別に反対してないさ。どうせ行くんだろ?」
「……うん」
「だったら、俺も行く」
「私も!」
ミナがすぐに声を上げた。
その勢いに、カイルが少し笑った。
「お前はもう少し考えてから返事しろよ」
「考えたもん!」
「今の一秒で?」
「十分でしょ!」
久しぶりに聞く二人のやり取りだった。
ルティスの口元が、わずかに緩む。
けれど、すぐにミナの表情が変わった。
「……ねえ、ルティス」
「何?」
「神様に会って、本当に他の方法がないって言われたら……どうするの?」
その問いに、誰も答えなかった。
ルティス自身、同じ疑問を持っていたからだ。
「……そのとき考える」
「そっか」
ミナは小さく頷いた。
納得したわけではない。
それでも、今はそれ以上聞かなかった。
「私も同行するわ」
入口から声がした。
振り返ると、そこにはルナが立っていた。
銀青色の髪が、窓から差し込む光を受けて揺れている。
エレナが彼女を見る。
「ルナ……」
「私にも関係のあることだから」
ルナは静かに言った。
「私の水の力も、宝玉と関係があるのかもしれない。だったら、私も知りたい」
その言葉に、ルティスは目を見開いた。
「……あなたも?」
「ええ」
ルナは頷いた。
エレナも、そっと口を開く。
「私の光も、Lumiaに繋がっていると思う」
ルティスはエレナを黙って見つめた。
エレナは、その視線を受け止めた。
「でも、Lumiaの宝玉を受け入れたことはないの。ルナも、Aquaを持っているわけではないわ」
二人とも、宝玉がなくても力を使っている。
アッシュも、Ignisを受け入れる前から炎を使っていた。
なら、まだ宝玉と結ばれていないだけで、二人も選ばれる可能性があるのだろうか。
その可能性が、ルティスの胸に重く沈んだ。
出発の前に、エレナは光の柱へ向き直った。
「ここを離れて、大丈夫なの?」
ルティスが尋ねる。
「このままでは無理。でも、ずっと手をかざしている代わりに、魔法陣へ力を残すことはできるわ」
エレナは床の古い紋様へ指先を触れた。
幾重もの光が床を伝い、柱を囲む輪へと変わっていく。
ルナが傍らに膝をつき、揺れる輪郭に薄い水の膜を重ねた。
柱が大きく震えた。
二人は手を離さず、その揺れが静まるまで待った。
「……これで、しばらくは保つ」
エレナが息を整える。
「ずっとは無理なのね」
「ええ。今までこの方法を使ったのは、周囲を調べに出る間だけ。帰るために、ここを放っておくことはできなかった」
光の輪には、すでに細い揺らぎが残っていた。
「だから、今のうちに答えを探しに行く」
エレナはルティスを見た。
「一緒に」
ルティスは頷いた。
神域へ向かう道は、荒れていた。
かつては緑に覆われていたという丘陵には、乾いた地面がむき出しになっている。
木々の葉は色を失い、風が吹くたびに粉のように崩れ落ちた。
「……ひどいな」
カイルが呟く。
道の端には、小さな花が咲いていた。
ミナがしゃがみ込み、その花に触れようとする。
しかし、指先が届く前に、花びらは音もなく消えた。
「え……?」
ミナは手を止めた。
そこには何も残っていなかった。
「今の……」
「世界の崩壊が始まっているの」
エレナが答えた。
「まだ小さな変化だけれど、いずれもっと大きなものになる」
「どうなるの?」
「大地が形を失い、空が裂ける。そして最後には、この世界を支えるものがなくなる」
ミナは立ち上がった。
「……それを止めるために、柱が必要なんだね」
「ええ」
エレナの声は静かだった。
ルティスは、その横顔を見つめた。
八年前のエレナなら、こんなとき何と言っただろう。
大丈夫。
きっと何とかなる。
そう言って笑ってくれただろうか。
けれど、今のエレナは、安易な慰めを口にしなかった。
それだけの年月を、この世界で過ごしてきたのだ。
「エレナ」
「何?」
「八年間、ずっとここにいたの?」
「ええ。いろいろな場所を回ったけれどね」
「……寂しくなかった?」
エレナは少し驚いたようにルティスを見た。
そして、微笑む。
「寂しかったわ」
あまりにも素直な答えだった。
「でも、ルナがいてくれたから」
前を歩いていたルナが振り返る。
「何の話?」
「あなたがいてくれてよかったって話」
「……急に何よ」
ルナは少し困ったような顔をして、再び前を向いた。
その仕草に、エレナが笑う。
ルティスは、その笑顔を見つめていた。
知らない八年間。
自分がいなかった時間。
そこには、自分の知らないエレナの生活があった。
私は何も知らず、学院生活を送っていただけ。
けれど、それ以上に思った。
帰ろう。
今度こそ、一緒に。
谷に入った頃、空の色が変わった。
青でも灰色でもない、薄い銀色の光が空全体を覆っていた。
「……なんだ、ここは」
カイルが足を止める。
風がない。
鳥の声も、虫の音もしない。
ただ、静寂だけがあった。
「……気に入らねえ場所だな」
ポップが琥珀色の瞳を細めた。
首元の金色の鈴が揺れる。
その音だけが、妙にはっきりと響いた。
「誰か、いるよ」
ミナが小さく言った。
前方の空間が、ゆらりと揺れる。
次の瞬間。
何もなかったはずの場所に、巨大な影が現れた。
人の形をしている。
だが、その輪郭は曖昧で、まるで世界そのものが人の形を真似しているかのようだった。
その巨体は、周囲の岩山を見下ろすほどに大きい。
顔はない。
目もない。
ただ、胸の中央に白い光が脈打っていた。
「……神域の番人」
エレナが呟いた。
「知ってるの?」
ルティスが尋ねる。
「姿を見るのは初めて。でも、神域に近づく者を退ける存在がいるとは聞いていたわ」
巨人がゆっくりと腕を上げた。
それだけで、大地が震えた。
「下がって!」
エレナが叫ぶ。
地面が波打ち、無数の岩の槍が突き出した。
「来るぞ!」
カイルが剣を抜いた。
ルティスは影を広げ、迫る岩の槍を受け止める。
激しい衝撃。
「っ……!」
影が軋んだ。
重い。
これまで戦ってきた魔物とは、明らかに違う。
「ルティス!」
ミナが弓を引いた。
矢が巨人の胸を貫く。
しかし。
穴が開いたはずの場所は、すぐに元へ戻った。
「……効いてない!?」
「だったら、近づいてみるか!」
ポップが地面を蹴った。
小さな体が宙を舞う。
赤いスカーフを翻し、金属の爪を構えたポップが巨人の肩へ飛び乗った。
「こいつはどうだ!」
鋭い爪が巨人の首筋を切り裂く。
だが、裂け目はすぐに塞がった。
「……おいおい」
巨人の腕が振り上がる。
「ポップ!」
カイルが叫んだ。
「分かってる!」
ポップはその場を軽快に跳び回り、振り下ろされた腕を紙一重でかわした。
巨人の拳が地面に激突する。
谷全体が揺れた。
土煙が舞い上がる。
「これじゃ、きりがない!」
ルナが両手を広げた。
空気中の水分が集まり、幾筋もの水流となって巨人の腕へ絡みつく。
水が締め上げる。
だが、巨人はそれを力任せに引きちぎった。
「……強い!」
「みんな、下がって!」
エレナが光の障壁を展開する。
次の瞬間、巨人の両腕から放たれた衝撃が障壁に激突した。
轟音。
光の壁に亀裂が走る。
「……っ!」
エレナが顔をしかめた。
「エレナ!」
「大丈夫……でも、長くは持たない!」
巨人が再び腕を振り上げる。
その拳が、障壁に迫った。
逃げ場はない。
ルティスは影を広げようとした。
だが。
その瞬間。
――轟ッ!
巨大な炎が、空から降り注いだ。
巨人の腕が炎に包まれる。
爆発。
振り上げられた拳が大きく逸れ、岩壁へと叩きつけられた。
「……え?」
ミナが目を見開いた。
燃え盛る炎の向こうから、声がした。
「まったく。ずいぶん派手にやってるじゃないか」
ルティスは、その声を知っていた。
ゆっくりと振り向く。
谷の入口。
そこに、銀髪の青年が立っていた。
「……ノア?」
ノアは答えなかった。
ただ、巨人を見上げていた。
その後ろから、一人の青年が歩み出る。
アッシュ。
彼の右腕には、炎が揺らめいていた。
「間に合ったみたいだな」
さらに、その隣。
紫電を纏う少女が、軽く肩を回した。
「……ったく。こんなのがいるなんて聞いてないんだけど」
シエナ。
そして。
最後に現れたのは、片脚が樹木と一体化した少女だった。
ティア。
彼女は周囲の枯れた木々を見回し、静かに眉をひそめた。
「……この土地、死にかけてる」
「ノア……」
ルティスは呆然と立ち尽くした。
「どうして……?」
「わがままな連中でな。連れてくるのに苦労した」
ノアが言った。
「まずは、あれをどうにかする」
巨人がゆっくりと体勢を立て直した。
燃えた腕は、すでに再生し始めている。
ノアはそれを見て、小さく息を吐いた。
「……なるほど。神域の守護者か」
「知ってるの?」
ルティスが尋ねる。
「いや。初めて見る」
巨人をノアが観察する。
そして、ノアは巨人の胸元を指さした。
「見ろ。あそこだけ、再生の仕方が違う」
白い光。
巨人の胸の奥で、何かが脈打っていた。
「……核?」
「似たような物だろう」
ノアはルティスを見た。
「お前の影で捕まえられるか?」
「……やってみる」
「なら、俺たちが道を作る」
ノアが振り向いた。
「アッシュ。雷の娘」
「分かった」
「シエナよ!」
「ティア。足を止めろ」
ティアは少し不機嫌そうに顔を上げた。
「……命令しないで」
そう言いながら、地面に手を触れる。
乾ききった大地が震えた。
巨人の足元から、太い樹木の根が突き出す。
何本も。
何十本も。
それらは巨人の両脚に絡みつき、地面へ縫い止めた。
「……今」
ティアが呟く。
「行くぞ!」
アッシュが駆け出した。
右腕の炎が激しく燃え上がる。
巨人の胸へ向かって拳を突き出した。
炎が一直線に走る。
爆発。
巨人の上半身が大きく仰け反った。
「シエナ!」
「分かってる!」
シエナが片手を掲げた。
紫色の雷が、空間を裂いた。
轟音とともに、雷撃が巨人の胸を貫く。
炎と雷。
二つの力が重なり、巨人の再生が一瞬だけ止まった。
「……まだ足りない!」
シエナが叫ぶ。
「だったら、俺たちも行くぞ!」
カイルが剣を構えた。
ポップがその隣に着地する。
「遅れるなよ、剣士!」
「そっちこそ!」
二人が同時に駆け出した。
カイルの剣が巨人の腕を弾く。
その隙にポップが跳躍し、金属の爪を巨人の胸へ突き立てた。
「……硬ってえな!」
それでも、ポップは爪を引き抜かなかった。
「カイル! もう一発だ!」
「任せろ!」
カイルが剣を振り抜く。
巨人の胸に、大きな裂け目が生まれた。
だが。
巨人が咆哮した。
声のない咆哮。
空間そのものが震え、樹木の根が次々と引きちぎられていく。
「……っ!」
ティアが顔をしかめた。
巨人の腕が振り下ろされる。
その先には、アッシュとシエナ。
「危ない!」
ミナが叫んだ。
弓を引く。
放たれた矢が、巨人の腕へ向かって飛んだ。
その瞬間。
風が吹いた。
何もなかった空間に、突然生まれた風。
矢はその風を纏い、凄まじい速度で巨人の腕を貫いた。
腕が大きく逸れる。
「……え?」
ミナは自分の手を見つめた。
今の風は、自分が起こしたのだろうか。
「ミナ!」
ルティスの声に、はっと顔を上げる。
「もう一度!」
「……うん!」
ミナは再び弓を引いた。
今度は、何も起きなかった。
ただの矢。
それでも、巨人の動きをわずかに妨げるには十分だった。
「ルナ!」
エレナが叫んだ。
「分かってる!」
ルナが両手を広げる。
水流が巨人の腕に絡みつく。
その周囲を、エレナの光が包み込んだ。
水が光を反射し、無数の輝く帯となって巨人の体を縛り上げる。
動きが止まった。
「ルティス!」
ノアが叫ぶ。
「今だ!」
ルティスは目を閉じた。
自分の足元から、影が伸びていく。
細く。
深く。
巨人の体内へ。
冷たい。
硬い。
その奥に、白い光があった。
「……見つけた!」
影が核を包み込む。
だが、核は激しく震えた。
逃れようとしている。
「……っ!」
ルティスの腕に痛みが走る。
影が引き裂かれそうになる。
「離すな!」
ノアが叫んだ。
「分かってる!」
ルティスは歯を食いしばった。
そのとき。
別の影が、ルティスの影へと重なった。
「……え?」
ノアだった。
彼の足元から伸びた影が、ルティスの影を支えていた。
「……一人で抱え込むな」
ノアが静かに言った。
「お前の悪い癖だ」
ルティスは、一瞬だけノアを見た。
そして、小さく頷いた。
「……ありがとう」
「礼は後だ」
ノアは巨人を見上げた。
「全員で叩き込めっ!」
アッシュの炎が燃え上がる。
シエナの雷が空を裂く。
ティアの樹木が巨人を締め上げる。
ルナの水流が、その動きを封じる。
エレナの光が、核を照らし出す。
カイルとポップが、左右から胸の裂け目を押し広げた。
そして。
ミナが、最後の矢を放った。
矢は、白い光へ向かって飛んだ。
風が吹く。
ほんの一瞬。
矢の周囲に、小さな風の渦が生まれた。
そしてルティスとノアの影が矢の姿を隠す。
矢は、まっすぐに核を貫いた。
――――。
音が消えた。
巨人の動きが止まる。
胸の白い光に、細い亀裂が走った。
一つ。
二つ。
そして。
砕け散った。
巨人の体が、ゆっくりと崩れていく。
巨大な影は、光の粒となって空へ消えていった。
風が戻った。
誰も、すぐには動かなかった。
「……終わった?」
ミナが呟いた。
「……ああ」
カイルが剣を下ろした。
「今度こそ、な」
ポップが大きく息を吐く。
「ったく……神様の家の門番ってのは、ずいぶん乱暴なんだな」
その言葉に、アッシュが小さく笑った。
「……お前、面白いな」
「今さら気づいたか?」
ポップが胸を張る。
シエナが呆れたように肩をすくめた。
「……こんな奴を相手にするなんてね」
「戦うってこういう戦い方もあるんだ」
ティアが呟く。
そして、誰も口を開かなくなった。
その沈黙は、一人の少女の声によって止まった。
「……ノア?」
小さな声だった。
けれど。
ノアの体が、ぴたりと止まった。
ルティスが振り向く。
そこには、ルナが立っていた。
彼女は、ノアを見つめていた。
まるで、夢でも見ているかのように。
「……ノア、だよね?」
ノアは答えなかった。
銀色の髪。
その声。
記憶の奥に、ずっと残っていた声。
壁の向こうから聞こえていた、少女の声。
――ねえ、名前ってあるの?
――ない。
――じゃあ、私がつけてあげる。
――……勝手にしろ。
――ノア。
――……ノア?
――うん。いい名前でしょ?
ノアは、ゆっくりと振り向いた。
目の前にいる少女。
その姿は、記憶の中の幼い少女とは違っていた。
けれど。
間違えるはずがなかった。
「……ルナ?」
ルナの瞳が、大きく揺れた。
「……覚えてて、くれたんだ」
声が震えていた。
ノアは何も言えなかった。
長い間。
もう二度と会えないと思っていた。
あの日。
実験室の向こうへ連れて行かれた少女。
最後に聞いた声。
そのすべてが、今、目の前にあった。
「……生きて、いたのか」
ようやく、それだけを口にした。
ルナは小さく頷いた。
「……うん」
そして、少しだけ笑った。
「ずっと、会いたかった」
ノアは目を伏せた。
何かを言おうとして、言葉にならなかった。
そんなノアを見て、ルナが少し困ったように笑う。
「……相変わらず、無口なんだね」
「……お前こそ」
ノアが小さく答えた。
「……よく喋る」
ルナは目を丸くした。
そして。
ふっと笑った。
「……そういうところも、変わってない」
ノアは何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと手を伸ばした。
触れれば消えてしまうのではないか。
そんな恐れが、指先を止めた。
けれどルナが、その手を取った。
温かかった。
確かに。
そこにいた。
「……ノア」
ルナが静かに言った。
「私、まだ覚えてるよ」
ノアが顔を上げる。
「……あの約束」
月。
いつか、一緒に見ると約束した月。
ノアは、ゆっくりと頷いた。
「……この世界では見られないぞ」
ルナは微笑んだ。
その目には、涙が浮かんでいた。
ルティスは、二人を見つめていた。
何があったのかは分からない。
けれど。
今は、何も聞く必要がない気がした。
エレナが、そっとルティスの隣に立つ。
「……よかった」
小さく呟く。
ルティスも頷いた。
「……うん」
そのときだった。
ノアの懐で、青い光が瞬いた。
ルナが握っている彼の手へ、小さな水滴が寄ってくる。
「……何?」
ノアはルナの手を離し、宝玉の袋を取り出した。
ルティスの表情が変わる。
自分から奪っていった、あの袋だった。
「ノア。それ……」
「ああ」
袋の口を開く。
青い宝玉が、内側から光を放っていた。
Aqua。
ルナが息を呑む。
そのすぐ隣で、もう一つの光が灯った。
金色。
エレナの指先から零れる光と、同じ輝きだった。
「……Lumia」
エレナが呟いた。
ノアは二つの宝玉を取り出した。
片方はルナへ。
もう片方は、エレナへ。
互いに呼び合うように、光が脈打っていた。
「主人を見つけたみたいだな」
ルティスは宝玉と二人を見比べた。
神殿で聞いた話。
宝玉を持っていなくても使える、水と光の力。
今、その力が目の前の球体に応えている。
「……まだ、受け入れてはいないのね」
「ああ。力の一部が先に目覚めていたんだろう」
ノアが答えた。
「ティアも同じだった」
少し離れていた少女が、自分の片脚を見下ろした。
「この足も、宝玉に触る前から変わっていたの」
ルティスが彼女を見る。
「あなたが、Gaiaの……?」
「ティア。ノアが森へ持ってきた宝玉を、私が受け取った」
木肌へ変わった脚の上に、小さな芽が伸びていた。
「森を離れるつもりはなかったけど……空まで裂け始めたから。あそこにいるだけじゃ、守れないと思ったの」
ティアは枯れた谷へ目を向けた。
アッシュが、その隣で頷いた。
「俺も、あいつに迎えられた口だ。柱の話を聞いて、城で待っているわけにはいかなくなった」
「私は船に来たこいつから、二人を探してるって聞いただけよ」
シエナがノアを指した。
「リゼットには話してある。あんたたちが向かった方角を教えたら、結局、私まで付き合うことになったの」
ノアは肩をすくめた。
「文句なら後で聞く」
「言ったわね」
ルティスは、ノアへ視線を戻した。
「助けてくれたことと、宝玉を奪ったことは別だから」
「分かっている」
「……本当に?」
ノアは答えず、手の中のAquaを見た。
青い光が、ルナの顔を照らしていた。
彼女は宝玉へ手を伸ばしかけた。
その瞬間。
ノアの指が、球体を握り込んだ。
「……ノア?」
ルナが顔を上げる。
ノア自身も、自分の手を見ていた。
渡せばいい。
ずっと、そのために探していた。
Ignis。
Volt。
Gaia。
残りの宝玉もNexusへ届け、七つの力を完成させる。
その先に、自分の求めるものがある。
そう考えてきた。
なのに、指が動かなかった。
目の前にいるのは、壁の向こうで笑っていた少女だった。
ようやく、もう一度触れられた手。
その手が水へ変わり、二度と握り返してこなくなる。
初めて、その光景を思い浮かべた。
「これを受け入れれば、力は強くなる」
ノアは低く言った。
「だが、身体の変化も進む。最後には柱となり、人として生きられなくなるかもしれない」
ルナは黙って聞いていた。
「今なら、まだ受け取らずにいられる」
その言葉に、ルティスはノアを見た。
船の上では、自分が迷うことを許さなかった男。
その男が今、宝玉を差し出せずにいる。
ルナが、静かに尋ねた。
「私が柱になることを、あなたは望んでるの?」
ノアの唇が、わずかに動いた。
声は出なかった。
世界のためだと言うことも。
必要なことだと言うことも。
今なら、できたはずだった。
けれどルナは、答えを待っていた。
「……望んでは、いない」
ようやく、それだけを答えた。
ルナは小さく息を吐いた。
「私も、なりたくない」
ノアが顔を上げる。
「せっかく会えたんだもの。まだ話したいことが、たくさんあるよ」
ルナはAquaを見つめた。
「でも、この世界がなくなったら、それもできなくなる」
遠くで、岩の崩れる音がした。
「受け取っても、すぐに柱になるわけではないの?」
「アッシュたちは、まだここにいる。だが、どれだけ猶予があるかは分からない」
「そう……」
ルナは少し考えた。
それから、もう一度手を差し出す。
「だったら、その間に探したい。私も、この力を使って」
「ルナ」
「全部、任せて待っているのは嫌なの」
彼女の手は、わずかに震えていた。
「柱になるために、受け取るんじゃないよ」
ノアを見つめる。
「あなたと、あの約束を果たすため」
長い沈黙のあと、ノアは握っていた指をほどいた。
Aquaが、ルナの両手へ移った。
青い球体に、細い亀裂が走る。
ルナが目を閉じた。
宝玉は砕け、透き通った光へと変わった。
水のように彼女の指を伝い、腕から胸の奥へ流れ込んでいく。
足元の小石の間から、水滴がいくつも浮かび上がった。
それらはルナの周囲を一巡し、静かに地面へ戻った。
彼女が、ゆっくりと目を開く。
「……ルナ?」
ノアの声に、ルナは頷いた。
「うん。ここにいる」
彼女は自分の手を開き、握った。
まだ温かい。
けれど身体の奥には、先ほどまでなかった流れがあった。
エレナは、残された金色の宝玉を見つめていた。
「……エレナも、受け取るの?」
ルティスが尋ねた。
「ええ」
「私にUmbraを託したこと、気にしてるなら……」
「それだけで決めるつもりはないわ」
エレナはルティスを見た。
「あなたを巻き込んだことは、今も悔やんでる。でも、その償いとして私が消えればいいとは思わない」
ルティスは何も言わなかった。
「八年間、帰る道を探してきたの」
エレナの声が、少しだけ揺れた。
「今も帰りたい。あなたと、一緒に」
その手を、そっと包む。
「だから、私も答えを探す側にいたいの。守られているだけじゃなくて」
「……うん」
ルティスは頷いた。
止めたい気持ちは、消えなかった。
それでもエレナの手を、自分から離した。
ノアがLumiaを差し出す。
エレナは、両手で受け取った。
神殿で揺れていた柱と、同じ光。
それが今、自分の掌に収まっている。
「……一緒に帰るために」
小さく呟いた瞬間、宝玉に亀裂が入った。
柔らかな光が指の間から溢れ、エレナを包み込む。
金色の欠片がほどけ、胸の奥へと沈んでいった。
風に舞っていた砂粒が、一瞬だけ明るく照らされた。
そして光は静まった。
エレナは胸元へ手を当てる。
ルティスが、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「ええ」
差し出された手を、エレナが握り返した。
「これで終わりじゃないわ」
ルティスは、その温もりを確かめるように指へ力を込めた。
ノアはペンダントを取り出した。
Aquaの青。
Lumiaの金。
その二つの色が、ゆっくりと失われていく。
Ignis、Gaia、Volt、Umbra。
すでに色を失っていた場所と同じように。
残ったのは、Aerisの光だけだった。
六人。
アッシュ。
ティア。
シエナ。
ルナ。
エレナ。
そして、自分。
ルティスは一人ずつ、その姿を見た。
七つのうち、六つの宝玉が、人と結びついた。
「……これで、よかったのかな」
ルナが小さく呟く。
ノアは、すぐには答えなかった。
「まだ、決まっていない」
ルナが彼を見る。
「結末は、これからだ」
ノアはペンダントをしまった。
その指先は、袋に残る最後の宝玉へ、一度だけ触れた。
そのとき。
遠くで、低い音が響いた。
地鳴り。
谷の奥で、岩壁がゆっくりと動き始めていた。
崩れた巨人の向こう。
先ほどまで存在しなかった場所に、白い光が差し込んでいる。
細い道。
神域のさらに奥へと続く道だった。
ノアは、その光を見つめた。
そして、静かにルナの手を離した。
「……話は、後だ」
ルナは少しだけ寂しそうに笑った。
「……うん。分かってる」
ノアがルティスを見る。
「行くんだろう?」
ルティスは頷いた。
「……うん」
「なら、行け」
「ノアは?」
ノアは一瞬、ルナを見た。
そして、再びルティスへ視線を戻した。
「俺には、まだやることがある」
「……そっか」
ルティスはそれ以上聞かなかった。
ノアは、ルティスを見つめた。
「……一つだけ言っておく」
「何?」
「神の言葉が、必ずしも正しいとは限らない」
ルティスは目を見開いた。
「……どういうこと?」
「自分で確かめろ」
ノアはそう言って、背を向けた。
アッシュとシエナは、道の入口に残った。
「こっちは見ておく。戻ったら、神が何と言ったか教えてくれ」
アッシュの言葉に、ルティスは頷いた。
ティアも二人の傍らに腰を下ろし、ルティスを見た。
「……人間って、不思議」
「え?」
「……なんでもない」
ティアは静かに答える。
ルナは、遠ざかっていくノアの背中を見つめていた。
その横顔には、寂しさと、確かな喜びが入り混じっていた。
ルティスは、神域へ続く道を見た。
そして、エレナに頷く。
「……行こう」
「ええ」
六人は、白い光の中へと足を踏み入れた。
道の先には、空がなかった。
大地もない。
ただ、白く果てしない空間が広がっていた。
足元には確かに地面がある。
けれど、それが何でできているのか分からない。
「……変な場所」
ミナが呟いた。
その声が、遠くまで響いた。
やがて、ルティスたちの前に巨大な円形の台座が現れた。
その周囲には七つの光。
赤。
青。
緑。
碧空。
紫。
金。
そして、黒。
「七つの宝玉……」
ルティスが呟く。
その瞬間。
――――。
空間が震えた。
七つの光が一斉に揺らぐ。
そして、頭上に巨大な影が差した。
ルティスが顔を上げる。
白い空間の向こうから、ゆっくりと何かが現れた。
巨大な手。
かつて、境界の向こうで見たものと同じだった。
「……あなたがASTRAの神?」
ルティスが問いかける。
返事はなかった。
ただ、その手が静かに止まった。
「私たちを、ここへ導いたのは」
――あと、ひとつ。
声が響いた。
男とも女ともつかない声。
耳から聞こえたのではない。
直接、心の奥へ届いたような声だった。
カイルが剣の柄に手をかける。
エレナが小さく首を振った。
「……待って」
ルティスは巨大な手を見上げた。
「聞きたいことがあるの」
神は何も言わない。
「七人のNexusが柱にならなければ、世界は救えないの?」
沈黙。
やがて、声が答えた。
――それが世界の理。
ルティスの胸が沈んだ。
「……ほかに方法は?」
神はその問いには答えず、代わりに話し始めた。
――三つの世界は、境界の封鎖だけでは均衡を修復できず、形を失いつつある。
七つの光が激しく揺れた。
その中央に、三つの球体が浮かび上がる。
一つは、ルティスたちの暮らす世界。
一つは、このASTRA。
そして、二つの世界の狭間にある、もう一つの世界。
それぞれをつないでいる細い光が、次々と途切れていく。
――七つの柱が世界を支えなくては、三つの世界は崩壊する。
「……いつ?」
エレナが尋ねた。
――まもなく。
ミナが息を呑んだ。
ルティスは拳を握りしめる。
「じゃあ……アッシュも、シエナも、ルナも、エレナも……」
言葉が続かなかった。
「みんな、消えなければならないの?」
――消えはしない、柱となるのだ。
「……そんなの」
ルティスは顔を上げた。
「そんなの、納得できない」
巨大な手は動かない。
「あなたは、世界を創った神なんでしょう?」
ルティスは拳を握る。
「だったら、どうして!」
ルティスの声が響いた。
「どうして、誰かが犠牲になる方法しか作れなかったの!」
「ルティス……」
エレナが小さく呼ぶ。
けれど、ルティスは止まらなかった。
「みんな、自分の人生がある!」
「アッシュにも、シエナにも!」
「ルナにも、エレナにも!」
声が震えた。
「……私にも」
長い沈黙が流れた。
やがて、神が答える。
――世界の存続が全てだ。
ルティスは唇を噛んだ。
その言葉を否定できなかった。
世界が滅びれば、誰の人生も残らない。
けれど。
だからといって。
「……私は」
ルティスはゆっくりと顔を上げた。
「まだ、諦めない」
――人としての生き方は、単なる見え方だ。
「それでも」
ルティスは答えた。
「最後まで探す」
その隣に、エレナが立った。
「私もです」
ルティスが振り向く。
エレナは微笑んだ。
「八年間、探してきました。まだ答えは見つかっていません」
そして、神を見上げる。
「でも、見つからなかったことと、存在しないことは違います」
ルナも一歩前へ出た。
「私も、まだ帰りたい場所があるから」
その言葉に、ミナが顔を上げた。
カイルは小さく笑った。
「……まったく。神様相手でも、いつも通りだな」
そして、ルティスの隣に立つ。
「俺も付き合うさ。最後までな」
巨大な手は、しばらく動かなかった。
やがて。
――ならば、進むがよい。
ルティスは目を見開いた。
――ただし、世界は待たぬ。
七つの光が消えていく。
白い空間が、ゆっくりと崩れ始めた。
「……待って!」
ルティスが叫ぶ。
「まだ聞きたいことが――!」
――ルティス。
神が、初めてその名を呼んだ。
――お前の選択を、見届けよう。
次の瞬間。
巨大な手は消えた。
神域を出たとき、空は暗くなっていた。
入口に残っていたアッシュたちが立ち上がる。
ノアの姿だけは、なかった。
「何か確かめてくるってさ」
シエナが言った。
「……それより、どうだったの?」
ルティスは首を横に振った。
エレナが、神の答えを三人へ伝える。
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
やがてアッシュが空を見上げ、低く呟いた。
「……そうか」
それは、夜の暗さではなかった。
空そのものが、色を失い始めていた。
遠くの山々が、ぼんやりと霞んでいる。
大地の向こうで、細い光が何本も立ち上っていた。
「……何、あれ」
ミナが呟く。
エレナの表情が変わった。
「柱の力が……動き始めてる」
ルナが自分の手を見つめた。
指先に、小さな水滴が浮かんでいる。
それは地面に落ちることなく、ゆっくりと宙を巡っていた。
「……私も、始まってるんだ」
ルティスは何も言えなかった。
六人。
すでに六人のNexusが選ばれている。
残る一人。
風のNexus、Aeris。
ミナは、暗くなり始めた空を見上げていた。
その赤い髪を、風が揺らす。
誰も気づかなかった。
周囲の木々は、少しも揺れていないことに。
風が吹いているのは、ミナの周りだけだった。
遠い空に、再び亀裂が走った。
世界が軋む音がする。
ルティスは、その光景を見つめていた。
神の答えは、変わらなかった。
七つの柱。
七人の犠牲。
神が示したのは、その道だけだった。
けれど。
「……エレナ」
「なに?」
「私、必ず見つけるから」
エレナはルティスを見た。
「みんなが生きて帰れる方法を」
そして、少しだけ声を落とす。
「……あなたを連れて帰る方法も」
エレナは、しばらく何も言わなかった。
やがて、そっとルティスの手を握った。
「うん」
小さく頷く。
「一緒に探そう」
二人は、再び歩き始めた。
まだ、答えはない。
それでも。
立ち止まる理由には、ならなかった。
Chapter 18 ― 神の答え END




