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Chapter15 奪われた選択

挿絵(By みてみん)


 夜明けの海は、奇妙なほど静かだった。


 飛行船(アルバトロス号)は、薄い朝靄の中をゆっくりと進んでいた。


 昨夜まで吹いていた風は弱まり、巨大な気嚢を支える索具が、ときおり小さな音を立てる。


 甲板では、船員たちが損傷した金具を取り替えていた。


「ったく……ようやくまともに飛べるようになったってのに」


 リゼットは舵輪の傍らで、修理の報告書を睨んでいた。


「まだ直ってないところがあるの?」


 ミナが尋ねる。


「直ってないってほどじゃないけどね。あの雷の化け物どもに、随分と派手にやられたからさ」


「……悪かったわね」


 近くにいたシエナが、少し気まずそうに言った。


 リゼットは顔を上げる。


「何を謝ってんのさ。あんたがいなきゃ、この船は今頃海の底だよ」


「でも……」


「でもも何もない。あたしの船を守ってくれたんだ。胸張ってな」


 シエナは少しだけ目を伏せた。


 右腕には、あの日から消えない紫色の紋様が浮かんでいる。


 かつて包帯で覆っていた腕。


 今はもう隠していない。


 指先に意識を向けると、ときおり小さな電光が走る。


 その変化にも、少しずつ慣れ始めていた。


 だが。


 その力が、自分に何をもたらすのか。


 彼女はまだ、知らなかった。



 ルティスは船首に立っていた。


 眼下には、どこまでも続く青い海。


 昨日、あの海面に映った星空は、もうどこにもない。


 昼の空の下に、夜の星々が広がっていた。


 あれは幻ではなかった。


 TERRA(テラ)とASTRA(アストラ)。


 二つの世界が、確かに重なっていたのだ。


「……エレナ」


 小さく名前を呟く。


 彼女は今、どうしているのだろう。


 無事なのだろうか。


 こちらの世界で起きている異変を、知っているのだろうか。


「ルティス」


 背後から声がした。


 振り返ると、カイルが立っていた。


「少しは休んだか?」


「……うん」


「嘘が下手だな」


 ルティスは僅かに笑った。


「カイルこそ」


「俺は寝た。二時間ほどな」


「……それ、休んだって言えるの?」


「お前よりはな」


 二人は小さく笑った。


 だが、その穏やかな時間は長く続かなかった。


 突然。


 船の後方で、金属を叩くような音が響いた。


 甲板の船員が叫ぶ。


「船長! 右舷前方!」


「何だい、今度は!」


「……何か、います!」


 リゼットが舵輪から身を乗り出した。


 ルティスも視線を向ける。


 海面の遥か上。


 朝靄の向こうに、黒い影があった。


 鳥ではない。


 飛行船でもない。


 人のような輪郭。


 だが、人間にしては、あまりにも大きかった。


 その影は、空中に静止していた。


 風に流されることもなく。


 翼を動かすこともなく。


 ただ、こちらを待っているように。


「……あれは」


 ルティスが呟く。


 影がゆっくりと近づいてきた。


 黒灰色の外殻。


 身体の各所に走る青白い光。


 長く伸びた尾。


 人間とは明らかに異なる姿。


 ルティスは、その存在を知っていた。


「……ヴァルグ?」


 黒い巨体が、飛行船(アルバトロス号)の前方に降り立った。


 甲板が僅かに軋む。


 船員たちが一斉に後ずさった。


「な、何だこいつは!」


「武器を構えろ!」


「待って!」


 ルティスが叫んだ。


「……前に会ったことがあるの」


「……前にっ。あんた、どんだけ顔が広いんだい」


 ヴァルグは船員たちには目もくれず、ルティスを見下ろした。


「Umbra(アンブラ)」


 低く、重い声。


「……どうして、ここに?」


「お前たちを探していた」


「私たちを?」


 ヴァルグの視線が、ルティスの胸元へと移った。


 そこには、七つの宝玉の名が刻まれたペンダントが揺れていた。


「……影は、まだお前と共にあるか」


「何が?」


 ヴァルグは答えず、今度はシエナを見た。


 彼女の右腕に浮かぶ紫色の紋様。


 その奥で、微かな雷光が瞬いた。


「Volt(ボルト)……」


 シエナが身構える。


「あんた、何者?」


「その力を知る者だ」


 ヴァルグは静かに答えた。


 甲板に、重い沈黙が落ちていた。


 ルティス。


 カイル。


 ミナ。


 シエナ。


 ノア。


 そしてポップ。


 リゼットも腕を組み、壁にもたれている。


「それで?」


 ノアが口を開いた。


「わざわざ我々を探していた理由は?」


 ヴァルグは、しばらく沈黙していた。


 やがて、低い声で言った。


「宝玉を宿した者が、現れ始めた」


「……器のことか?」


 ノアの問いに、ヴァルグは正面を見据えたまま言う。


「器ではない」


「何?」


「それは、我々が用いる名ではない」


 ルティスが顔を上げる。


「……じゃあ、何て呼ぶの?」


「Nexus(ネクサス)」


 聞き慣れない響きだった。


「Nexus(ネクサス)……?」


「世界と世界を結ぶ者。七つの力を受け入れ、その身を境界に繋ぐ存在」


 ヴァルグは続けた。


「宝玉は、ただ力を与えるために存在するのではない」


 ノアの紫色の瞳が、僅かに細くなる。


「……続けろ」


「三つの世界は、かつて一つの均衡によって保たれていた。だが、その均衡は失われつつある」


「TERRA(テラ)、INTERIS(インテリス)、ASTRA(アストラ)……」


 ポップが呟いた。


 ヴァルグが肯定のつもりかポップを見る。


「世界は互いに近づいている。境界は薄れ、やがてそれぞれの形を失う」


 ルティスは昨日の海を思い出した。


 青い海に映った、紫色の星空。


 あれは世界が近づいている証だった。


「……どうすれば、止められるの?」


 ルティスが尋ねる。


 ヴァルグは、すぐには答えなかった。


「七つのNexus(ネクサス)が、柱となる」


「……柱?」


「それぞれの力を境界に結び、崩れゆく世界を支える」


 カイルが眉を寄せた。


「柱ってのは、どういう意味だ?」


「言葉の通りだ」


 ヴァルグの声は変わらない。


「世界を支える存在となる」


「……人間が?」


 ミナが尋ねた。


「そうだ」


「それで、その人たちはどうなるの?」


 ヴァルグは黙った。


 その沈黙が、何よりも不吉だった。


「……答えて」


 ルティスの声が、僅かに震えた。


「柱になった人は……どうなるの?」


 ヴァルグの青白い光が、ゆっくりと脈打った。


「人としての姿を、失う」


 誰も言葉を発しなかった。


 遠くで、気嚢を支える索具が軋んだ。


「……失うって」


 ミナが呟く。


「死ぬってこと?」


「死とは異なる」


 ヴァルグは答えた。


「だが、人として生きることはできなくなる」


 ルティスは、自分の手を見つめた。


 細い指。


 白い肌。


 今はまだ、人間の形をしている。


 だが。


 最近、ときおり指先が影に変わることがあった。


 意識すれば元に戻せる。


 だから、深く考えないようにしていた。


 けれど。


 あれは、始まりだったのだろうか。


「……待って」


 シエナが口を開いた。


「あんた、私もそうなるって言ってるの?」


「Volt(ボルト)を受け入れたのならば」


「……冗談じゃないわ」


 彼女は右腕を見た。


 紫色の紋様。


 その奥で、小さな雷光が弾ける。


「私は、船を守るために……」


 言いかけて、言葉を止めた。


 ヴァルグは静かに続けた。


「お前の前に現れた三体の獣も、その力を感じ取ったのだろう」


「……雷の?」


 ルティスが尋ねる。


「ASTRA(アストラ)には、七つの力に呼応する存在がいる」


 ヴァルグの視線が、ルティスへと戻る。


「Nexus(ネクサス)が柱となるとき、我々はその傍らに立つ」


「……何のために?」


「守るIgnis(イグニス)

「誰を?」


「柱を。そして、柱が支える世界を」


 ノアが口を開いた。


「つまり、お前たちも役割を与えられているということか」


「そうだ」


「……お前は?」


 ヴァルグは、ルティスを見た。


「Umbra(アンブラ)」


 その名に、ルティスの胸が小さく跳ねた。


「私は、その守護者となる」


 ルティスは息を呑んだ。


「……私の?」


「お前が柱となるならば」


 ヴァルグは続けた。


「私は、お前の傍らに立つ」


「……それが、あなたの望みなの?」


 初めて、ヴァルグの言葉が止まった。


 長い沈黙。


 やがて。


「望みとは、異なる」


 彼は静かに答えた。


「だが、拒む理由もない」


 ルティスには、その答えが悲しく聞こえた。


 ヴァルグ自身も、決められた役割の中にいる。


 それを当然のように受け入れている。


 けれど、本当にそれでいいのだろうか。


「……他に、方法はないの?」


 ルティスが尋ねた。


「柱にならずに、世界を守る方法は?」


「知らぬ」


「……本当に?」


「我々が存在する理由は、均衡を保つための役割だ。それが唯一の道かどうかまでは、知らぬ」


 ルティスは俯いた。


 今まで信じていた道の先に、想像もしなかった運命が待っていた。


「お前がUmbra(アンブラ)を受け入れ、随分時間が経った。Ignis(イグニス)とVolt(ボルト)もNexus(ネクサス)の元にようやく帰った」


 ヴァルグが天を見上げる。


「世界の均衡のために、残りのNexus(ネクサス)を探せ」


 そういうとヴァルグは甲板から離れ、朝靄の向こうへ消えた。


 ヴァルグが去ったあとも、ルティスは動けなかった。


 風が頬を撫でた。


 青い海は、何事もなかったかのように広がっている。


 アッシュ。


 シエナ。


 そして、自分自身。


 宝玉を受け入れた者たち。


 ルティスは胸元のペンダントを握った。


 アッシュにIgnis(イグニス)を渡した。


 シエナにVolt(ボルト)を渡した。


 どちらも、自分の意思で受け取ったが、その先に待つ運命を、彼らは知らなかった。


 自分も知らなかった。


「……私が、渡した」


 小さな声だった。


「……ルティス?」


 振り返ると、シエナが立っていた。


「アッシュにも……シエナにも……」


 シエナは黙って聞いていた。


「私が、宝玉を……」


「ルティス」


「こんなことになるなんて、知らなかった」


 声が震えた。


「もし、知ってたら……」


「私は受け取ったわよ」


 シエナが言った。


 ルティスは顔を上げる。


「……え?」


「Volt(ボルト)のことよ」


 シエナは自分の右腕を見せた。


「確かに、こんな話は聞いてなかった。でも、あのとき私が受け取らなかったら、飛行船(アルバトロス号)はどうなってた?」


「……それは」


「リゼットも、船員たちも、あんたたちも。みんな危なかった」


 シエナは腕を下ろした。


「私は、それが嫌だったの」


「……でも」


「だから、自分で決めた」


 ルティスは何も言えなかった。


「後悔するかどうかは、これからの私が決めることよ」


 シエナは少しだけ笑った。


「勝手に私の選択を、間違いだったことにしないで」


 その言葉は、優しかった。


 責めるためではなく。


 ルティスを支えるための言葉だった。


 だからこそ、胸が痛かった。


「……ありがとう」


 ルティスが呟く。


 シエナは軽く肩をすくめた。


「礼を言うのは、まだ早いんじゃない?」


 そして、船室へと戻っていった。


 ルティスは再び海を見つめた。


 自分で選んだ。


 確かに、シエナはそう言った。


 けれど選ぶために必要なことを、何も知らされていなかった。


 それでも、選択と呼べるのだろうか。


 日が明けようとしていた。


 |飛行船(アルバトロス号)の甲板は、朝日に染まり始めていた。


 ノアは船尾の手すりに寄りかかり、遠くの空を眺めていた。


 銀色の髪が、風に揺れる。


 彼の手には、古い紙片が握られている。


 七つの宝玉を示す記号。


 その中央には、意味の分からない円環が描かれていた。


 Nexus(ネクサス)。


 世界を支える柱。


 そして、守護者。


 ノアはゆっくりと紙片を折り畳んだ。


 七つの力が、世界の均衡を保つ。


 ならばその力を束ねることができれば。


 世界の仕組みそのものに、手を伸ばせるのではないか。


 彼の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。


「……やはりな」


「ノア」


 背後から声がした。


 ルティスだった。


 ノアは振り返る。


「どうした?」


「……少し、話したい」


「奇遇だな。俺も君に聞きたいことがあった」


 ルティスは彼の隣に立った。


 昇りかけの太陽が、二人の影を作り始める。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 やがて、ノアが静かに尋ねた。


「もし世界を救うために、一人の命が必要だとしたら?」


 ルティスは顔を上げた。


「……そんな方法、選ばない」


「では、七つの命なら?」


「ノア」


「千人を救うために七人を差し出す。それでも間違いだと言えるか?」


 ルティスは黙った。


 簡単に答えられる問いではなかった。


 千人の命。


 七人の命。


 数だけを比べれば、答えは明らかなのかもしれない。


 けれどその七人にも、人生がある。


 大切な人がいる。


 まだ叶えていない願いがある。


 アッシュには、リシェルがいる。


 シエナには、守りたい仲間がいる。


 そして、自分にも。


 カイルがいる。


 ミナがいる。


 ポップがいる。


 エレナがいる。


 ルティスは静かに口を開いた。


「……七人に、選ぶ権利はあるの?」


 ノアの表情が僅かに変わった。


「何?」


「その七人は、自分で決められるの?」


 ルティスは続けた。


「誰かに勝手に決められるなら、それは救うことじゃない」


 ノアは、しばらく彼女を見つめていた。


 風が二人の間を通り抜ける。


「……では、君はどうする?」


「……分からない」


「分からない?」


 ノアの声が、僅かに低くなった。


「世界は崩れ始めている。昨日の海を見ただろう?」


「……うん」


「ASTRA(アストラ)でも同じことが起きている。INTERIS(インテリス)も無関係ではいられない。何もしなければ、すべてが失われるかもしれない」


「分かってる」


「なら、何を迷う?」


 ルティスはペンダントを握りしめた。


「……これ以上、誰かに宝玉を渡していいのか……」


 ノアの瞳が細くなる。


「……何?」


「だって、渡した人は……」


 言葉が続かなかった。


 柱になる。


 人としての姿を失う。


 その運命を知りながら、誰かに宝玉を託すことができるだろうか。


「……もう、誰にも渡せないかもしれない」


 沈黙。


 ノアはルティスを見つめていた。


 その表情から、ゆっくりと感情が消えていく。


「……そうか」


 低い声だった。


「君は、ここで止まるのか」


「止まるんじゃない」


 ルティスは顔を上げた。


「他の方法を探したいの」


「いつまで?」


「……それは」


「明日か? 一か月後か? それとも世界が崩れるまでか?」


「ノア……」


「君は優しい」


 ノアは静かに言った。


「だが、その優しさで何を守れる?」


 ルティスの胸が痛んだ。


「……そんな言い方、しなくても」


「事実だ」


「私は……誰かを犠牲にしてまで、世界を救いたくない」


「ならば、すべてを失っても構わないと?」


「そんなこと言ってない!」


 ルティスの声が強くなった。


 ノアは動じなかった。


 ただ、彼女の胸元を見ていた。


 七つの宝玉に導くペンダント。


 これまで、ルティスが守り続けてきたもの。


「……なるほど」


 ノアが呟いた。


「ようやく分かった」


「……何が?」


「君には、荷が重すぎたんだ」


 ルティスは息を呑んだ。


「……ノア?」


 彼が一歩近づいた。


「それを持っている限り、君は迷い続ける」


「……何を」


「なら、もういい」


 次の瞬間。


 ノアの手が、ルティスの胸ぐらを掴んだ。


「……っ!」


 突然のことだった。


 ルティスは反応できなかった。


 迷いのないノアの手が、自分に向けられる。


挿絵(By みてみん)


 その事実を理解するより早く。


 ぶつり。


 乾いた音がした。


 首元に、冷たい風が触れる。


 ノアの手には、引きちぎられたペンダントが握られていた。


「……え?」


 ルティスは、自分の胸元を見た。


 何もない。


 ずっと、そこにあったはずのものが。


「……ノア?」


 彼は答えなかった。


 ただ、奪ったペンダントを見つめている。


「……返して」


 ルティスが手を伸ばした。


 ノアは一歩下がった。


「……返して、ノア」


 その声は、まだ震えていた。


 怒りよりも先に、戸惑いがあった。


 どうして。


 何をしているの。


 そんな言葉さえ、うまく出てこない。


「君は、エレナを探せばいい」


 ノアが言った。


「……何?」


「ASTRA(アストラ)へ行きたいんだろう?」


「ノア……」


「君には君のやるべきことがある」


 ノアはペンダントを握りしめた。


「そして、俺にもある」


 ようやく、ルティスは理解した。


 彼は返すつもりがない。


「……駄目」


 一歩、踏み出す。


「それは……」


「君のものか?」


 ノアが問い返した。


 ルティスは言葉を失った。


「宝玉は、君の所有物ではない」


「……分かってる」


「なら、誰が持っていても同じだ」


「やめて!」


 ルティスが叫んだ。


 甲板の反対側で、カイルが振り返る。


「ルティス?」


 ノアは一瞬だけそちらを見た。


 そして、足元に黒い魔法陣を広げた。


 ルティスは目を見開いた。


「……待って!」


 影が伸びる。


 彼女も反射的に魔力を集めようとした。


 だが、できなかった。


 ノアはルティスの懐に入りこみ、腹部に拳を突きつける。


「……ゔっ!」


 一瞬、息が出来なくなる。


 ノアはルティスが持っていた宝玉の袋を奪い取る。


 思考が身体を鈍くさせていた。


 荷が重い、楽になれる?そんな想いがのしかかっているようだ。


「……ノア……」


 ルティスが呟いた。


 ノアは彼女を見つめた。


 紫色の瞳。


 そこに迷いはなかった。


「続きは――俺がやる」


 黒い魔力が立ち上る。


「ノア!」


 カイルが駆け出した。


 ミナの声が聞こえる。


 シエナが甲板へ飛び出してくる。


 だが、遅かった。


 影が収束する。


 銀色の髪が、最後に一度だけ揺れた。


 そして。


 ノアの姿は、消えた。


 静寂。


 甲板には、風の音だけが残っていた。


「……ルティス!」


 カイルが駆け寄る。


「何があった!」


 ルティスは動かなかった。


 胸元を見つめている。


 そこには、引きちぎられた鎖の小さな破片だけが残っていた。


「……ノアが」


 ようやく、声が出た。


「……持っていった」


「何を?」


「……宝玉を」


 カイルの表情が変わった。


「何だと?」


 ミナが口元を押さえる。


「……そんな」


 シエナは、ノアが消えた場所を睨んだ。


「……あいつ」


 右腕に紫色の電光が走る。


「追いかけるわ」


「待って」


 ルティスが言った。


 シエナが振り返る。


「何よ。あいつ、宝玉を奪ったんでしょ?」


「……うん」


「だったら!」


「……今は、追えない」


 シエナは言葉を止めた。


 ルティスは顔を上げた。


 その瞳には、涙はなかった。


 ただ、深い困惑が残っていた。


「ノアが……何を考えてるのか、分からない」


 カイルは黙っていた。


「でも……」


 ルティスは、ゆっくりと拳を握った。


「……あのままには、できない」


「なら、追うのか?」


 ポップが尋ねた。


 いつの間にか、足元に来ていた。


 黒い猫は、金色の瞳でルティスを見上げている。


 ルティスはしばらく黙っていた。


 そして、首を振った。


「……エレナを迎えに行く」


 ポップの耳が動く。


「……そうか」


「ノアのことも、止めなきゃいけない。でも……」


 ルティスは遠くの空を見た。


「今の私のままじゃ駄目……」


 ヴァルグが語ったNexus(ネクサス)。


 柱。


 守護者。


 そして、ノアが奪っていった宝玉。


 何が正しいのか。


 どうすれば、誰も失わずに済むのか。


 まだ、答えはない。


「……エレナなら」


 ルティスは呟いた。


「あの人なら、何か知っているかもしれない」


 ミナが静かに頷いた。


「……うん。行こう、ルティスさん」


 カイルも頷く。


「そうだな……」


 シエナはしばらく黙っていたが、やがて腕を下ろした。


「……分かったわ」


 リゼットが舵輪の傍らから声をかけた。


「で、あんたたち。行き先は決まったのかい?」


 ルティスは顔を上げた。


「……ASTRA(アストラ)へ行きたい」


「それは聞いたよ。問題は、どうやって行くかだろ?」


 その問いに、すぐ答えられる者はいなかった。


 だが。


「……方法がないわけじゃない」


 ポップが呟いた。


 全員の視線が、黒猫に集まる。


「何?」


 ルティスが尋ねる。


 ポップは尻尾をゆっくりと動かした。


「境界が薄くなってるってことは、逆に言えば……」


 金色の瞳が、遠くの海を見つめる。


「向こうへ渡れる場所も、増えてるってことだ」


 ルティスは息を呑んだ。


 昨日、海に映ったASTRA(アストラ)の星空。


 あの現象。


「……行けるの?」


「保証はできん」


 ポップは答えた。


「だが、実際に向こうから来てる奴らがいる」


 ルティスは、もう一度空を見上げた。


 ノアは去った。


 宝玉も奪われた。


 けれど。


 まだ、すべてが終わったわけではない。


「……行こう」


 小さな声だった。


「ASTRA(アストラ)へ」



 ノアはルティスと離れたのち、地上に降りたっていた。


 深い森に囲まれた、小さな村。


 薄暗い道を、歩いていた。


 彼は、手の中のペンダントを見つめた。


 七つの宝玉の名。


 そのうち、すでに三つは人と結びついている。


 Umbra(アンブラ)。


 Ignis(イグニス)。


 Volt(ボルト)。


 残る力。


 その一つが、この土地にある。


 ノアは森の奥へと視線を向けた。


 木々の間から、淡い緑色の光が漏れている。


「……Gaia(ガイア)」


 彼は静かに呟いた。


 その光の向こうに、一人の少女がいた。


 まだ、ノアの存在には気づいていない。


 少女は地面に膝をつき、枯れかけた小さな植物に触れていた。


「……お願い」


 その声は、森の静寂に溶けていく。


「もう少しだけ……」


 少女の指先から、細い根が伸びた。


 枯れていた葉が、僅かに色を取り戻す。


 ノアは足を止めた。


 その光景を、黙って見つめる。


 やがて、薄く笑った。


「……見つけた」


 少女はまだ知らない。


 自分の前に現れようとしている男が、何を求めているのか。


 そして。


 その出会いが、自分の運命を大きく変えることになるなど。


 知るはずもなかった。


 Chapter 15 ― 奪われた選択 END

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