Chapter14 境界を越えるもの
空の青が、少しずつ深くなっていく。
飛行船は、山脈を抜けて南西へと進んでいた。
眼下に広がるのは、どこまでも続く雲海。
その遥か向こうには、太陽の光を受けて輝く水平線が見えている。
「見えたよ!」
操舵輪を握るリゼットが声を上げた。
「海だ!」
船首に立っていたミナが、思わず身を乗り出す。
「わあ……!」
雲の切れ間から、青い海が姿を現した。
陽光を反射する水面が、無数の宝石を散りばめたように輝いている。
「すごい……こんなに広いんだ」
ミナの右肩で、ポップが片目を開けた。
「海を見るのは初めてか?」
「そんなわけないでしょ。でも、空から見るのは初めて!」
「落ちるなよ」
「大丈夫だってば」
「お前の大丈夫ほど信用できんものはない」
ミナは笑いながら、ポップの頭を撫でた。
「心配してくれてるの? ポップちゃん」
「ちゃんを付けるな!」
いつものそのやり取りを聞いていたカイルが、小さく笑った。
ルティスも船縁に手を置き、海を眺めていた。
かつて、世界の境界を閉じた。
あれから、まだそれほど長い時間は経っていない。
それなのに、再び世界は変わり始めている。
飛行船を襲った、雷を纏う石の怪物たち。
あれは間違いなく、ASTRAから現れた存在だった。
ルティスは胸元のペンダントに触れた。
Ignis。
Umbra。
そしてVolt。
三つの光が、すでに失われている。
正確には、消えたのではない。
それぞれの力は、人の中へと移っていた。
アッシュ。
シエナ。
そして、自分自身。
宝玉が人と融合することで、何が起きるのか。
まだ分からないことばかりだった。
ルティスは静かに手を下ろした。
「船長! 右舷の補助帆、張り直し完了です!」
「よし! 後部の固定具も確認しな!」
リゼットの声が甲板に響く。
先日の怪物との戦いで、飛行船は少なからず損傷していた。
応急修理は済ませたものの、本格的な整備には港へ入る必要がある。
「まったく、あいつらのおかげで予定が狂っちまったよ」
リゼットはぼやきながら、舵を調整した。
「でも、船は無事だったじゃない」
隣に立つシエナが言う。
「無事って言うには、修理代が高すぎるねえ」
「またお金の話?」
「船を飛ばすには金がいるのさ」
リゼットは笑った。
「それに、あんたの給料も払わなきゃならないだろ?」
「……別に、今月は少しくらい減らしてもいいけど」
その言葉に、リゼットの手が止まった。
「は?」
「だから、修理代が大変なら……」
「馬鹿言うんじゃないよ」
リゼットはシエナの額を指で弾いた。
「痛っ!」
「船の修理代は船長の責任。あんたの給料とは別だ」
「でも……」
「でもじゃない」
リゼットは再び舵を握る。
「あんたは自分の仕事をした。それに見合った金を受け取る。それでいいんだよ」
シエナはしばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑う。
「……分かったわよ」
「よろしい」
リゼットは満足げに頷いた。
そのとき、シエナの右手に小さな紫電が走った。
ぱちり。
乾いた音。
シエナは反射的に手を握る。
「……また」
リゼットが横目で見る。
「まだ慣れないかい?」
「うん。力の加減が、よく分からない」
「焦ることないさ」
リゼットは何気なく言った。
「昨日までできなかったことが、今日いきなり全部できるわけじゃないだろ」
シエナは自分の右腕を見つめた。
黒い包帯は、もう巻いていない。
肩から手首へ伸びる紫色の雷痕。
以前は隠していた傷。
今も消えずに残っている。
けれど、不思議と隠したいとは思わなかった。
「……そうね」
シエナは小さく頷いた。
昼過ぎ、飛行船は、広大な海の上へ出ていた。
周囲には島影もなく、見渡す限りの青が広がっている。
船員たちは帆を調整し、穏やかな航行を楽しんでいた。
だが。
「……おかしいな」
見張り台の船員が呟いた。
双眼鏡を覗き込む。
そして、もう一度覗いた。
「どうした?」
カイルが声をかける。
「いや……海が」
「海?」
「変なんです」
カイルは見張り台を見上げた。
「何が変なんだ?」
「空が……映ってない」
その言葉に、近くにいたルティスが顔を上げた。
「映ってない?」
船員は頷いた。
「見てもらった方が早いです」
ルティスは梯子を上った。
見張り台から海を見下ろす。
最初は、何もおかしくないように思えた。
青い海。
穏やかな波。
遠くまで続く水平線。
だが、目を凝らすと。
「……え?」
海面の一部だけが、周囲と違う色をしていた。
そこには、青空が映っていない。
代わりに。
無数の星が、瞬いていた。
昼間の海に夜空が映っている。
「……何、これ」
ルティスは息を呑んだ。
その星空は、ただの反射には見えなかった。
深い紫色の闇。
見知らぬ星々。
そして、その奥に浮かぶ巨大な光の輪。
ルティスは、その光景に覚えがあった。
「……ASTRA」
小さく呟く。
以前、境界の向こうで見た空に似ていた。
だが、ここはTERRAだ。
海の上に、別の世界の空が映っている。
「みんな、甲板へ来て!」
ルティスの声で、仲間たちが集まった。
ミナが海を覗き込む。
「……うそ」
ノアは黙って水面を見つめていた。
その紫色の瞳が、僅かに細められる。
「……興味深いな」
「興味深いって……」
ミナが振り返る。
「普通に考えて、おかしいでしょ!」
「異常こそ普通だ」
ノアは静かに答えた。
「この世界の空が、あそこには映っていない」
ポップが船縁へ飛び乗った。
金色の瞳が、海面を捉える。
「……まずいな」
その声は、いつになく低かった。
「ポップ?」
ルティスが訊く。
「これ、何なの?」
ポップはすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと言う。
「世界の境界が、薄くなっている」
「……境界?」
「ああ。だが、以前とは少し違う」
ポップは海面を見つめたまま続ける。
「二つの世界が繋がるだけなら、狭間を通る道が生まれる。だが、これは……」
言葉を止める。
「……これは、重なっている」
ルティスの胸が、僅かに強く脈打った。
「重なる……?」
「本来、別々に存在するはずのものが、同じ場所に現れているんだ」
ポップは尻尾を揺らした。
「ASTRAの空が、TERRAの海に映る。そんなことが起きているなら……」
「なら?」
「境界の向こうから、何が現れてもおかしくない」
その言葉に、全員が黙った。
翼の生えた怪物。
あの石の怪物たちも、ASTRAの生物だったのだろう。
偶然、境界の薄い空域を通ったのだと思っていた。
だがそれが、偶然では済まなくなり始めていた。
「船長!」
船員の声が響いた。
「前方の海面、異常です!」
リゼットが舵輪を握り直す。
「今度は何だい!」
「波が……動いてません!」
「は?」
リゼットが前方を見る。
確かに、海面の一部が不自然に静止していた。
周囲では波が揺れている。
だが、その場所だけは、鏡のように動かない。
「……気味が悪いね」
リゼットは舵を切った。
「迂回するよ!」
飛行船が進路を変える。
だが海面に映る星空も、船の進行方向へ広がっていった。
「……おいおい」
リゼットの笑みが消えた。
船員たちがざわめく。
そのときシエナの右腕に、紫色の光が走った。
「……っ!」
シエナが腕を押さえる。
「シエナ!」
ルティスが駆け寄った。
「大丈夫?」
「……うん。でも……」
シエナは海を見つめた。
「何かが……いる」
その言葉と同時に静止した海面の奥で、巨大な影が動いた。
魚ではない。
船でもない。
まるで、海の下に別の空があり、その空を何かが横切ったようだった。
「……何、あれ」
ミナが呟く。
影はゆっくりと遠ざかり、やがて見えなくなった。
波が戻る。
星空の反射も、少しずつ薄れていった。
数分後。
海は、何事もなかったように青さを取り戻していた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
夕方。
飛行船は、異変の起きた海域を離れていた。
リゼットは船員たちに船体の確認を命じ、航海日誌へ記録を残していた。
「昼間の海に星空、ねえ……」
羽根ペンを止める。
「こんな話、港でしても酔っ払い扱いされるだけだよ」
カイルが苦笑した。
「実際に見ても、信じがたいからな」
「まったくだ」
リゼットは日誌を閉じた。
「それで、あんたたちはこれからどうするつもりだい?Ignisィスが顔を上げる。
「……ASTRAへ行く方法を探してるの」
「ASTRA?」
「別の世界。そこに、助けたい人がいる」
リゼットは少しだけ目を細めた。
「……なるほどね。ずいぶん遠いところに、大事な人を置いてきたIgnis「うん」
「だったら、まずはそこへ行く方法を見つけなきゃね」
ルティスは頷いた。
だが、今日の海で見た光景が、頭から離れなかった。
ASTRAの空が、TERRAの海に映っていた。
世界は確かに近づいている。
けれど、それが何を意味するのかは、まだ分からない。
「……少し、考えたい」
ルティスは答えた。
リゼットは頷いた。
「いいさ。急ぐ理由がないなら、急ぐ必要もない」
そして、笑った。
「船はしばらく海沿いを進む。考える時間くらい、いくらでもあるよ」
「……ありがとう」
「ただし、働いてもらうからね!」
ルティスは小さく笑った。
「うん」
夜。
飛行船の甲板には、静かな風が吹いていた。
船員たちは交代で見張りを続け、船内の灯りも少なくなっている。
ノアは一人、船尾に立っていた。
手には、古い文献から写し取った紙片がある。
そこには、七つの宝玉を示す古い記号が並んでいた。
Ignis。
Aqua。
Gaia。
Aeris。
Volt。
Lumia。
Umbra。
ノアは指先で、その文字をなぞった。
「……三つ」
すでに三つの宝玉が、人の中へと移っている。
Umbraはルティス。
Ignisはアッシュ。
Voltはシエナ。
残る四つ。
ノアは夜空を見上げた。
今日、海面に現れたASTRAの空。
あれは偶然ではない。
世界の境界が薄くなり、異なる存在が同じ場所へ現れ始めている。
だが、ノアの関心は別のところにあった。
宝玉が人間と融合したとき、何が起こるのか。
その力は、どこまで引き出せるのか。
そして七つすべてが融合したとき。
「……その先に、何がある」
ノアは小さく呟いた。
紙片を折り畳む。
銀色の髪が、潮風に揺れた。
その瞳には、誰にも見せていない光が宿っていた。
同じ頃。
ASTRA。
静かな水音が響いていた。
広い石造りの回廊。
その中央には、透明な水を湛えた浅い池がある。
その縁に、一人の少女が膝をついていた。
短い銀青色の髪。
少女は水面へ手を伸ばした。
指先が触れる。
波紋が広がった。
だが、その波紋は途中で止まった。
「……え?」
少女は目を細めた。
水面の一部が、まるで固まったように動かない。
その奥には、見知らぬ空が映っていた。
青い空。
白い雲。
そして、遠くを進む小さな飛行船。
「……これは」
少女は息を呑んだ。
その船を、彼女は知らない。
だが。
水面の向こうから、微かな気配が伝わってきた。
懐かしいような。
遠い昔に失くしたものを、思い出すような。
「……まさか」
少女は水面へ顔を近づけた。
飛行船の姿が、少しずつ揺らいでいく。
その甲板に、誰かが立っていた。
銀色の髪。
風に揺れる黒い外套。
顔までは見えない。
けれど。
少女の胸が、強く脈打った。
「……ノア?」
小さな声だった。
次の瞬間。
水面が大きく揺れた。
飛行船の姿が消える。
波紋が広がり、やがて静けさが戻った。
少女はしばらく、その場所を見つめていた。
「……そんな、はず……」
呟きながら、胸元へ手を当てる。
何年も会っていない。
今、どこで何をしているのかも分からない。
それでも。
忘れたことはなかった。
「……本当に、あなたなの?」
答える声はなかった。
背後から足音が聞こえた。
振り返ると、エレナが立っていた。
銀紫色の髪を揺らし、静かにこちらを見ている。
「……エレナ」
「どうしたの?」
少女は少し迷った。
そして、首を振る。
「……何でもない」
エレナは水面を見た。
そこには、もう何も映っていない。
だが、僅かな違和感が残っていた。
「……最近、増えているわね」
「何が?」
「こういう現象」
エレナは水面へ近づいた。
「本来、ここには存在しないはずの景色が現れる。まるで、別の世界が近づいてきているみたいに」
少女は黙っていた。
エレナは続ける。
「境界を閉じただけでは、足りなかったのかもしれない」
その言葉に、少女が顔を上げた。
「……どういうこと?」
「分からない」
エレナは静かに答えた。
「でも、何かが変わり始めている」
回廊の外では、ASTRAの空が淡く輝いていた。
その空の一角に、細い亀裂のような光が走る。
すぐに消えた。
だが、二人は確かに見ていた。
深夜。
飛行船。
ルティスは船室の窓辺に座っていた。
今日、海に映っていた星空。
あれは間違いなく、ASTRAの空だった。
ルティスは目を閉じる。
かつて、世界の境界を越えたとき。
そこには、確かに道があった。
狭間を通り、別の世界へと繋がる道。
だが、今日見たものは違う。
道ではなかった。
世界そのものが、重なっていた。
「……もし、あれが」
ルティスは小さく呟いた。
もし、二つの世界が重なる場所があるのなら。
そこから、ASTRAへ辿り着けるのだろうか。
エレナのいる世界へ。
もう一度、手を伸ばすことができるのだろうか。
ルティスは窓の外を見た。
星が静かに瞬いている。
今日、海に映っていた星空とは違う。
こちらの世界の空。
見慣れた、TERRAの夜空だった。
「……エレナ」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
それでも。
どこかで、彼女も同じ空を探しているような気がした。
ルティスはそっと目を閉じた。
三つの世界。
七つの宝玉。
そして、離れ離れになった人々。
それぞれの運命が、少しずつ重なり始めていた。
飛行船は、夜の海を越えて進んでいく。
まだ見ぬ場所へ。
まだ知らない真実へ。
そして。
再び、世界の境界を越える、その日のために。
Chapter 14 ― 境界を越えるもの END




