Chapter13紫電の守護者
朝の光が、雲海を金色に染めていた。
飛行船は、ゆっくりと高度を上げていく。
船体を支える巨大な浮力装置が低く唸り、帆が風を受けて膨らんだ。
「右舷、異常なし!」
「後部索具、固定完了!」
船員たちの声が甲板を行き交う。
操舵輪の前では、リゼット・ヴァンが満足そうに笑っていた。
「よし! いい風だ! この調子なら昼には山脈を抜けられるよ!」
金茶色の髪を風になびかせ、リゼットは舵を握り直した。
その背後では、カイルが船員と一緒に積み荷を固定している。
「この縄でいいのか?」
「ああ、旦那! そいつをもう一周巻いてくれ!」
「分かった」
ミナは見張り台の下で、船員から双眼鏡の使い方を教わっていた。
「すごい! あんな遠くの山まで見える!」
「お嬢さん、あんまり身を乗り出すと落ちますよ!」
「大丈夫、大丈夫!」
「お前の大丈夫は信用できん!」
ミナの右肩で、ポップが尻尾を膨らませた。
ルティスはその様子を眺めながら、小さく笑った。
昨日まで見知らぬ船だった飛行船。
それが今では、少しだけ居心地のいい場所になっていた。
ただ一人。
シエナは船首に立ち、黙って空を見つめていた。
黒い包帯の下で、右腕が微かに疼いていた。
シエナは左手で腕を押さえる。
昨日、ルティスから見せられた紫色の宝玉。
Volt。
あれを拒絶したことに、後悔はなかった。
少なくとも、そう思っていた。
「……しつこいのよ」
誰に向けたわけでもなく呟く。
風が黒紫色の髪を揺らした。
背後から足音が近づく。
「調子はどう?」
ルティスだった。
「普通よ」
「腕は?」
「……普通じゃないかも」
シエナは苦笑した。
ルティスは隣に立つ。
二人の前には、どこまでも白い雲が広がっていた。
「昨日のこと、気にしてる?」
「宝玉を断ったこと?」
「うん」
「別に。あんたも納得したんでしょ?」
「もちろん」
「だったら、それで終わりよ」
シエナはそう言って、視線を空へ戻した。
ルティスはそれ以上、何も訊かなかった。
そのときだった。
遠くの雲の奥で、何かが動いた。
「……?」
ルティスが目を細める。
白い雲の中に、一瞬だけ黒い影が見えた。
鳥にしては大きい。
飛行船にしては、動きが速すぎる。
「シエナ、あれ……」
言い終える前に、紫色の閃光が走った。
続いて、低い雷鳴。
シエナの右腕が、強く脈打った。
「……っ!」
包帯の隙間から、細い紫電が漏れる。
「どうしたの?」
「分からない……でも、何かいる」
次の瞬間。
見張り台から叫び声が響いた。
「前方に飛行物体! 数、三!」
リゼットが顔を上げる。
「飛行船かい?」
「違います! 生き物です!」
雲が裂けた。
その奥から、巨大な翼が現れる。
灰黒色の身体。
岩石を削り出したような皮膚。
長い爪と、獣じみた頭部。
背中から伸びる翼には、紫色の雷が走っていた。
一体。
二体。
三体。
石の怪物たちは、雷雲を引き裂くように飛んでいた。
「……何、あれ」
ミナが呟いた。
ポップの金色の瞳が、大きく見開かれる。
「まさか……」
「知ってるの?」
ルティスが訊く。
ポップはすぐには答えなかった。
やがて、低い声で言う。
「……あれは、こちらの世界の生き物じゃない」
怪物の一体が、翼を広げた。
紫色の眼が、飛行船を捉える。
「来るぞ!」
カイルが叫んだ。
最初の雷撃は、船首のすぐ横を通り抜けた。
白い閃光。
耳をつんざく轟音。
船体が大きく揺れる。
「うわあっ!」
ミナが手すりにしがみついた。
「総員、持ち場を離れるな!」
リゼットの声が響く。
「左舷の帆を絞れ! 高度を下げる!」
船員たちが一斉に動いた。
飛行船が大きく旋回する。
だが、怪物たちは離れなかった。
翼を畳み、次々と急降下してくる。
「カイル!」
「分かってる!」
カイルが剣を抜いた。
一体が甲板へ降り立つ。
木板が砕け、鋭い爪が深く食い込んだ。
怪物は人間ほどの胴体に、長い腕と巨大な翼を持っていた。
その身体は、まるで生きた岩石だった。
「下がれ!」
カイルが剣を振るう。
刃が怪物の肩を捉えた。
だが、甲高い金属音が響く。
「……硬い!」
剣は石の皮膚に弾かれた。
怪物が腕を振るう。
カイルは咄嗟に剣で受け止めた。
凄まじい衝撃。
足元の木板が軋む。
「カイル、伏せて!」
ルティスの足元から、黒い影が伸びた。
影は怪物の脚に絡みつき、その身体を甲板へ引き倒す。
そこへミナが矢を放った。
矢は怪物の眼のすぐ下に命中した。
だが、深くは刺さらない。
「うそ……!」
怪物が咆哮する。
紫電が全身を駆け巡った。
次の瞬間、ルティスの影が弾け飛んだ。
「……っ!」
ルティスが一歩下がる。
怪物は翼を広げ、再び空へ舞い上がった。
「普通の魔物じゃない……」
ルティスは空を見上げた。
残る二体が、船の周囲を旋回している。
その動きは、獲物を狙う猛禽のようだった。
「船長! 前甲板が損傷!」
「浮力装置は!?」
「無事です!」
「よし! まだ飛べる!」
リゼットは舵輪を強く握った。
船体が右へ傾く。
怪物の雷撃が、すぐ横を通り過ぎた。
「まったく! 空賊に追われる方がまだ気楽だね!」
その声を聞きながら、シエナは槍を構えた。
「……どきなさい!」
甲板へ降りてきた怪物へ向かって駆け出す。
鋭い突き。
槍の穂先が怪物の胸を捉えた。
だが、貫けない。
シエナはすぐに槍を引き戻し、横薙ぎに振るった。
怪物が翼で受け止める。
石と金属がぶつかり、火花が散った。
「くっ……!」
シエナは後方へ跳んだ。
その瞬間、右腕に痛みが走った。
ぱちり。
乾いた音。
黒い包帯の隙間から、紫色の雷が弾ける。
「……っ!」
怪物の動きが止まった。
紫色の眼が、シエナの右腕を捉える。
空を旋回していた二体も、同時に向きを変えた。
「……何?」
シエナは顔を上げる。
三体の怪物が、こちらを見ていた。
先ほどまで船全体を襲っていた怪物たちが、今は明らかにシエナへ意識を向けている。
「シエナ!」
リゼットが叫ぶ。
「そいつら、あんたを狙ってる!」
「……分かってる!」
シエナは槍を握り直した。
だが、右腕の雷が収まらない。
むしろ、怪物たちが近づくほど強くなっていく。
「……また」
シエナの表情が強張った。
かつての光景が、脳裏をよぎる。
紫色の閃光。
崩れ落ちる建物。
誰かの叫び声。
伸ばした手。
届かなかった指先。
「……嫌」
シエナは小さく呟いた。
「もう、あんなことは……!」
そのとき。
一体の怪物が急降下した。
狙いはシエナ。
彼女は槍を構えたが、右腕が思うように動かなかった。
「シエナ!」
リゼットの声。
直後、黒い影がシエナの身体を包んだ。
ルティスの影だった。
シエナは甲板の端へ引き寄せられる。
怪物の爪が、先ほどまで彼女のいた場所を砕いた。
「……っ!」
シエナが叫ぶ。
「油断しちゃ駄目」
ルティスは短く答えた。
怪物が再び翼を広げる。
カイルが前へ出て、剣を振り下ろす。
今度は怪物の翼の付け根を狙った。
刃が僅かに食い込む。
だが、怪物は止まらない。
その背中から雷が放たれた。
「カイル!」
ミナが叫ぶ。
ルティスの影が盾のように広がり、雷撃を受け止める。
黒い影が激しく揺れた。
「……っ!」
ルティスが膝をつく。
影の一部が、雷によって散らされた。
ノアがその横へ歩み出た。
「随分と厄介な相手だな」
銀色の髪が風に揺れる。
ノアは片手を上げた。
黒い魔法陣が空中に浮かび上がる。
そこから幾本もの影の槍が放たれた。
怪物の翼を貫き、その動きを止める。
「今だ!」
カイルが踏み込んだ。
長剣が、翼の付け根を深く斬り裂いた。
怪物が悲鳴を上げる。
だが、倒れない。
翼を強引に動かし、影の槍を引きちぎった。
「……しぶといな」
ノアが呟く。
その表情から、笑みが消えていた。
飛行船が、大きく揺れた。
船尾から黒い煙が上がる。
「船長! 後部の制御索が切れました!」
「予備を使いな!」
「それも損傷しています!」
リゼットは歯を食いしばった。
飛行船は少しずつ高度を失っていた。
下には、雲に隠れた山脈が広がっている。
このままでは、岩壁に衝突する。
「……まずいね」
リゼットは舵を切った。
だが、船体の反応が鈍い。
そのとき、一体の怪物が船尾へ回り込んだ。
紫色の雷が、その口元に集まる。
「船長!」
シエナが叫んだ。
リゼットが振り返る。
怪物が雷撃を放った。
白い閃光。
シエナは反射的に右腕を突き出した。
雷が弾ける。
二つの紫電が空中で衝突した。
凄まじい轟音。
衝撃が甲板を走った。
「……っ!」
シエナは片膝をついた。
右腕の包帯が焼け、紫色の傷痕が露わになる。
怪物は再び雷を集め始めた。
シエナは立ち上がろうとした。
だが、足が震えている。
怖い。
また制御できなくなるかもしれない。
また誰かを傷つけるかもしれない。
その恐怖が、身体を縛っていた。
「シエナ!」
リゼットの声が響いた。
シエナは顔を上げる。
「無理するんじゃないよ!」
「でも、このままじゃ船が……!」
「船のことはあたしが何とかする!」
リゼットは舵輪を握り直した。
「こんな時だからって、あんたの力使わなくてもいい!」
「……え?」
「その腕を使うのも、使わないのも!」
風が二人の間を吹き抜ける。
「誰かに決められることじゃないだろ!」
シエナは言葉を失った。
リゼットは前を向く。
「飛行船の船長はあたしだ! 船の責任まで背負い込むんじゃないよ!」
シエナは右腕を見つめた。
紫色の傷痕。
何年も隠してきたもの。
何度も消えてほしいと願ったもの。
だが、この腕で救えた人もいた。
リゼットがそう言ってくれた。
シエナはゆっくりと顔を上げた。
「ルティス!」
シエナが叫んだ。
ルティスが振り返る。
「……あれ、まだ持ってる?」
その言葉だけで、ルティスには分かった。
腰の小袋へ手を伸ばす。
紫色の宝玉を取り出した。
Volt。
球体の内部で、激しい雷が渦巻いている。
「……本当にいいの?」
ルティスが訊いた。
シエナは宝玉を見つめた。
本当は、恐ろしかった。
自分を壊すものにしか見えなかった。
今も、怖くないわけではない。
それでも。
「……勘違いしないで」
シエナは小さく笑った。
「これに強要されたわけじゃない」
右腕を伸ばす。
指先が、紫色の光に触れた。
「私が、この力を選ぶの」
宝玉が強く輝いた。
ルティスは手を離す。
Voltが、シエナの手のひらへ収まった。
次の瞬間球体の表面に、細い亀裂が走った。
「……っ!」
紫色の光が溢れ、宝玉は砕けた。
無数の光の粒となり、シエナの右腕へ吸い込まれていく。
包帯が弾け飛んだ。
雷痕が、眩い紫色に輝く。
シエナは息を呑んだ。
痛みはなかったが、身体の奥に何かが流れ込んでくる。
それは熱でも、冷たさでもない。
まるで、雷そのものが自分の一部になったような感覚だった。
「……これが」
シエナは右腕を見つめた。
指先から、細い紫電が走る。
だが、今度は暴れなかった。
シエナの意思に応えるように、静かに揺れている。
「……Volt」
彼女は槍を握り直した。
紫色の雷が、穂先へ集まっていく。
怪物が咆哮した。
三体が同時に高度を上げる。
その身体から、幾筋もの雷が放たれた。
「全員、伏せて!」
シエナが叫ぶ。
槍を振るった。
紫電が弧を描き、飛来する雷撃を迎え撃つ。
空中で閃光が弾けた。
轟音。
「……すごい」
ミナが呟く。
シエナは一歩前へ出た。
槍を構える。
「今度は、こっちの番よ」
甲板を蹴る。
その身体が、紫色の光を纏って跳び上がった。
雷が空中に細い軌跡を描く。
シエナは怪物の一体へ迫った。
槍の穂先が、石の胸を捉える。
今度は弾かれなかった。
紫電が石の内部へ走る。
怪物の身体に、幾筋もの亀裂が広がった。
悲鳴。
怪物は翼を大きく広げ、後方へ吹き飛ばされた。
シエナは空中で身体を捻る。
雷が足元に弾け、その勢いで甲板へ戻った。
「……ふう」
槍を肩に担ぐ。
その顔には、久しく見せていなかった笑みが浮かんでいた。
だが怪物たちは、再び襲ってこなかった。
三体とも、空中で動きを止めていた。
「……?」
ルティスが顔を上げる。
怪物たちの紫色の眼が、シエナを見つめている。
先ほどまでの敵意が、消えていた。
一体が、ゆっくりと高度を下げる。
シエナは槍を構え直した。
「……まだやるつもり?」
だが、怪物は攻撃しなかった。
巨大な翼を広げる。
そしてゆっくりと頭を下げた。
「……え?」
シエナが目を見開く。
残る二体も、同じように頭を下げる。
まるで、何かを認めたかのように。
ポップが、その光景を見つめていた。
「……まさか」
小さな呟き。
ルティスが振り返る。
「ポップ?」
「……いや」
ポップは首を振った。
「まだ、分からん」
怪物たちは翼を広げた。
一体、また一体と、雲の中へ飛び去っていく。
最後の一体が、シエナを振り返った。
紫色の眼が、静かに光る。
そして、白い雲の向こうへ消えた。
静寂が戻った。
飛行船の甲板には、焼け焦げた木の匂いが残っている。
帆は破れ、船縁の一部は砕けていた。
それでも、船は空に浮かんでいた。
「……生きてる」
ミナが小さく呟く。
カイルは剣を鞘へ戻した。
「全員、無事か?」
「船員に怪我人はいるが、命に別状はなさそうだ」
リゼットが答える。
そして、シエナを見た。
「……あんた」
シエナが振り返る。
「何?」
リゼットはしばらく黙っていた。
やがて、大きく息を吐く。
「まったく……派手にやってくれたねえ」
「……ごめん」
「謝るんじゃないよ」
リゼットは笑った。
「あんたのおかげで、船が残ったんだから」
シエナは目を伏せた。
少しだけ、唇が震える。
「……うん」
ルティスが近づいてきた。
「シエナ」
「……何?」
「大丈夫?」
シエナは右腕を見た。
雷痕は、まだ淡く輝いている。
「……分からない」
正直な答えだった。
「でも、不思議ね」
シエナは指先を見つめた。
「さっきまで、あんなに怖かったのに」
小さな紫電が弾ける。
その光を見て、シエナは微かに笑った。
「……今は、少しだけ違う」
ルティスも頷いた。
だが、そのとき。
シエナの右手の指先が、一瞬だけ透けた。
皮膚の輪郭が崩れ、紫色の雷へと変わる。
「……?」
シエナが瞬きをする。
次の瞬間には、元に戻っていた。
「どうしたの?」
ルティスが訊く。
「……何でもない」
シエナは右手を握りしめた。
その変化を、ルティスは見逃さなかった。
アッシュの炎。
自分の影。
そして、シエナの雷。
胸の奥に、小さな不安が生まれる。
だが、今は何も言わなかった。
夕暮れ。
飛行船は、損傷した帆を応急修理しながら、ゆっくりと進んでいた。
リゼットは舵輪の前で、夕日に染まる雲を見つめている。
シエナはその隣に立っていた。
「……船長」
「ん?」
「ありがと」
リゼットは少し驚いたように目を向けた。
「何が?」
「……いろいろ」
リゼットは笑った。
「珍しいねえ。あんたが素直に礼を言うなんて」
「……やっぱり取り消す」
「あっはっは!」
笑い声が風に流れる。
シエナも、小さく笑った。
その右腕には、もう黒い包帯が巻かれていなかった。
紫色の雷痕が、夕日を受けて淡く輝いている。
夜。
ルティスは船室で、ペンダントを見つめていた。
Ignis。
色を失った場所。
Umbra。
同じく、光のない場所。
そして。
Volt。
紫色だった宝玉の位置も、今は透明になっていた。
「……三つ目」
ルティスは小さく呟いた。
宝玉は、確かに人の中へ入っている。
だが、それが何を意味するのか。
まだ分からない。
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
ルティスはペンダントを握りしめる。
今日、空に現れた怪物たち。
あれは、間違いなくASTRAの生物だった。
そして、シエナがVoltを受け入れた瞬間、彼らは攻撃をやめた。
まるで、何かを待っていたかのように。
「……どうして?」
問いに答える者はいなかった。
ただ、夜の空を渡る風だけが、窓を静かに揺らしていた。
遠く、雲の向こう。
三つの紫色の光が、一瞬だけ瞬いた。
そして、闇の中へ消えていった。
Chapter 13 ― 紫電の守護者 END




