第八話 女神
闇だった。
どこまでも。
果てしなく。
音もない。
光もない。
感覚もない。
自分が立っているのか。
浮いているのか。
それすら分からない。
ただ意識だけが残っていた。
死んだのか。
そんな考えが頭をよぎる。
だが不思議と恐怖はなかった。
むしろ妙に疲れていた。
やっと終わった。
そんな気分だった。
その時だった。
「村上直哉」
声が聞こえた。
女の声だった。
静かで。
優しくて。
どこか神々しい。
直哉は眉をひそめた。
「……誰だよ」
返事はない。
代わりに光が広がる。
暗闇の中心に、一人の女性が立っていた。
白銀の髪。
透き通るような肌。
純白の衣。
人間とは思えない美しさだった。
だが直哉の第一声は違った。
「宗教の勧誘なら帰るぞ」
女は一瞬だけ固まった。
「違います」
「じゃあ保険か?」
「違います」
「投資?」
「違います」
「不動産?」
「違います」
女は深く息を吐いた。
「私は女神です」
「そうか」
直哉は頷いた。
「なるほど」
女神は少し安心したようだった。
ようやく理解してくれたと思ったのだろう。
だが次の瞬間。
「で?」
女神の笑顔が止まった。
「……で?」
「女神なのは分かった」
「それで俺に何の用だ」
女神は咳払いをした。
そして姿勢を正す。
「あなたには使命があります」
嫌な予感がした。
「あなたは新たな世界へ転生します」
「ほう」
「そして世界を救うのです」
沈黙。
直哉は天を仰いだ。
「嫌だ」
即答だった。
女神が目を見開く。
「え?」
「嫌だ」
「え?」
「聞こえなかったか?」
直哉はため息をついた。
「俺さっき死んだんだぞ」
「はい」
「で?」
「はい」
「なんで次の人生でも働かなきゃいけないんだよ」
女神は絶句した。
「いえ、働くというか……」
「世界救済です」
「もっと重いじゃねぇか」
直哉は頭を抱えた。
信じられなかった。
やっと終わったと思ったのに。
次は異世界。
しかも世界救済。
冗談じゃない。
「うるせぇ」
女神が固まる。
「黙れ」
さらに固まる。
「俺はもう十分働いた」
「ですが世界が……」
「知らん」
「魔王が……」
「知らん」
「人類が……」
「頑張れ」
女神は本気で困り始めた。
直哉は腕を組んだ。
そして少し考える。
「なあ」
「はい?」
「次は金持ちに生まれたい」
女神は瞬きをした。
「……はい?」
「おぼっちゃん」
「おぼっちゃん?」
「そう」
直哉は真顔だった。
「現世で苦労したんだよ」
「だから次は楽したい」
「働きたくない」
「毎日昼まで寝たい」
「領地でも何でもいいから金がある家に生まれたい」
女神はしばらく黙っていた。
やがて。
小さく笑った。
「なるほど」
「何がおかしい」
「いえ」
女神は微笑む。
どこか楽しそうだった。
「あなたは本当に面白い方ですね」
直哉は顔をしかめた。
嫌な予感しかしない。
そしてその予感は、
だいたい当たる。
「では」
女神が両手を広げる。
周囲の光が強くなる。
「あちらの世界へ――」
「ちょっと待て」
女神が止まる。
「はい?」
直哉は真顔だった。
「一個聞いていいか」
「なんでしょう」
数秒。
沈黙。
そして。
「俺、ホテル行けなかったんだけど」
女神の笑顔が止まった。
「……はい?」
「いや」
直哉は腕を組む。
「一年だぞ?」
「一年?」
「そう」
「何の話ですか」
「女だよ」
女神が頭を押さえた。
嫌な予感しかしない。
「やっとだぞ」
「はい」
「やっとホテル行ける流れだったんだぞ」
「はい」
「分かるか?」
「分かりません」
「分かれよ」
直哉は本気だった。
女神は本気で困っていた。
「だからな」
「はい」
「責任取れ」
「何のですか」
「お前」
直哉は女神を指差した。
「結構美人だよな」
女神が固まる。
「……はい?」
「ホテル行けなかったし」
「はい」
「一回くらいどうだ?」
完全な沈黙。
世界から音が消えた。
女神は瞬きを繰り返す。
一回。
二回。
三回。
そして。
「断ります」
即答だった。
「即答かよ」
「即答です」
「ちょっとくらい悩めよ」
「悩みません」
「女神なのに冷たいな」
「女神だからです」
直哉はため息をついた。
「世知辛い世の中だ」
「あなた死んでます」
「それもそうか」
女神は額に手を当てた。
今まで何万人もの魂を導いてきた。
勇者もいた。
王もいた。
聖人もいた。
だが。
死んだ直後に女神をナンパした人間は初めてだった。
間違いなく。
初めてだった。
「やっぱり面白い人ですね」
女神は小さく笑う。
直哉は嫌な顔をした。
その笑い方。
絶対ろくでもない時のやつだ。
「じゃあ一つだけ教えてやる」
女神が言う。
「なんだ」
「次の人生」
「おう」
「絶対楽にはなりません」
「え、じゃあ帰る」
「もう帰れません」
女神が指を鳴らした。
世界が白く染まる。
「ちょっ、おま――」
その瞬間。
村上直哉の意識は、新たな世界へ叩き込まれた。




