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第三十五話 迫る戦雲

レオンハルトとフィアが王都へ旅立ってから数日。


辺境には、再び静かな日常が戻っていた。


巡回。


訓練。


市場。


畑。


一見すると何も変わらない。


だが。


変わっていたのは、大人たちの表情だった。


辺境伯城。


執務室。


重厚な扉が閉じられ、部屋には限られた者だけが集められていた。


アルトゥス。


グラム。


エルネスト。


騎士団幹部。


そして情報部隊の責任者。


机の上には大陸地図が広げられている。


「報告します。」


斥候の一人が頭を下げた。


「ヴァルグラン帝国にて、大規模な兵力増強を確認。」


「北方第三軍団に加え、新たに二個軍団が国境付近へ移動しております。」


部屋が静まり返る。


続いて別の報告。


「聖ルミナス教国では聖騎士団の遠征準備が始まりました。」


「理由は不明です。」


「ゼファード商業連邦では穀物の買い占めが確認されています。」


「港湾都市では武器価格も上昇。」


「天嶺皇国も国境警備を倍増させたとの情報があります。」


報告が終わる。


誰も口を開かない。


アルトゥスは地図を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……嫌な流れだな。」


若い騎士が口を開く。


「辺境伯様。」


「まだ全て噂や未確認情報です。」


「偶然という可能性も。」


アルトゥスは首を横へ振った。


「一つなら偶然だ。」


「二つでも偶然かもしれん。」


「だが五つ揃えば。」


辺境伯は静かに地図を叩く。


「それは流れだ。」


「国は噂では動かん。」


「動く前に準備を始める。」


「我々が噂を聞く頃には、向こうはすでに動いている。」


部屋の空気がさらに重くなる。


エルネストが眼鏡を押し上げた。


「もう一つ。」


「気になることがあります。」


全員が老人を見る。


「魔界です。」


「ベルゼイン。」


その名が出た瞬間。


部屋の空気が凍る。


「彼ほどの魔人族が前線へ出て来た。」


「私はあれを偶然とは思っていません。」


老人は静かに続ける。


「彼は偵察だったのでしょう。」


「人類の力を測るための。」


「つまり。」


「本隊はまだ動いていない。」


誰も反論できなかった。


ベルゼイン一人だけで。


辺境騎士団は壊滅寸前まで追い込まれた。


もし同格が何人もいるなら。


考えたくもない。


その沈黙を破ったのはグラムだった。


腕を組んだまま。


短く言う。


「坊主を鍛える。」


全員の視線が集まる。


アルトゥスが静かに聞く。


「カイゼルか。」


「ああ。」


「まだ十五歳だぞ。」


グラムは鼻で笑った。


「十五だからだ。」


「戦争は待ってくれん。」


「二十になるまで待ってください。」


そんな敵はいない。


部屋に苦笑が漏れる。


だが。


誰も否定はしなかった。


エルネストも頷く。


「私も賛成です。」


「彼は境界を越えました。」


「あれは奇跡ではありません。」


「再現できるはずです。」


アルトゥスが腕を組む。


「本当に可能だと思うか。」


エルネストは迷わなかった。


「可能です。」


「ですが。」


「私一人では教えられません。」


「グラム殿一人でも無理でしょう。」


老人はグラムを見る。


グラムも静かに頷いた。


「闘気だけでは足りん。」


「魔法だけでも足りん。」


「両方必要だ。」


エルネストが続ける。


「彼が歩もうとしている道は。」


「誰も歩いたことのない道です。」


「だから。」


「我々二人で育てるしかありません。」


長い沈黙が流れた。


やがて。


アルトゥスは静かに立ち上がる。


窓の外を見る。


辺境の街。


守るべき人々。


そして遠くの山脈。


「……分かった。」


振り返る。


辺境伯として命じる。


「カイゼルを鍛えろ。」


「辺境最大の切り札として。」


「来るべき日に備えよ。」


「承知。」


「承知しました。」


二人の師は同時に頭を下げた。



その頃。


本人は何も知らない。


「このパンうまいな。」


「朝から三つ目じゃない。」


ルセリが呆れた顔をする。


市場の広場。


焼き立てのパンを片手に、カイゼルは幸せそうだった。


「平和だなぁ。」


「どこがよ。」


「今だけ見れば。」


「その考え方は嫌いじゃないけど。」


ルセリが笑う。


その時だった。


「坊主。」


聞き慣れた低い声。


振り返る。


グラム。


そして。


隣にはエルネスト。


二人が並んで立っていた。


珍しい。


いや。


初めてだった。


「来い。」


グラムが言う。


「え?」


「今日からです。」


エルネストが穏やかに微笑む。


「何がですか?」


二人は顔を見合わせる。


そして。


同時に言った。


「合同訓練だ。」


カイゼルは固まった。


隣でルセリが小さく呟く。


「……終わったわね。」


「まだ何も始まってないぞ?」


「始まる前から終わってるのよ。」


カイゼルは二人の師匠を見比べる。


片方だけでも地獄だった。


それが二人。


嫌な予感しかしない。


しかし。


その予感は。


驚くほど正しかった。


辺境史上、最も過酷な修行の日々が。


今、静かに幕を開けようとしていた。

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