第三十二話 風は境界を越えて
エルネストが膝をついた。
その瞬間。
戦場から音が消えたように感じた。
王国最高峰の魔導士。
その老人が傷を負う姿を、誰も想像したことがなかった。
ベルゼインは静かに右手を下ろす。
「さすがでした。」
「あと半歩反応が早ければ、防がれていました。」
その声には侮りはない。
純粋な敬意だけがあった。
だからこそ恐ろしい。
辺境騎士団は誰一人動けない。
グラムですら剣を構えたまま、僅かに呼吸を整えている。
ベルゼインの隙を窺っているのではない。
隙などないことを理解しているからだ。
ベルゼインはゆっくりと視線を動かす。
そして。
ルセリと目が合った。
「では。」
「まずはあなたから。」
静かな声だった。
その一歩で。
ベルゼインの姿が消えた。
「速い!」
グラムが叫ぶ。
だが。
間に合わない。
気付いた時にはベルゼインはルセリの目の前に立っていた。
「しまっ──」
ルセリが剣を構える。
遅い。
完全に遅い。
ベルゼインは右手をゆっくりと持ち上げる。
指先へ黒い魔力が集まっていく。
「ファントムニードル。」
黒い槍が放たれた。
一直線。
迷いもなく。
ルセリの胸へ。
その瞬間だった。
ドクン──。
カイゼルの心臓が激しく脈打つ。
世界の音が消えた。
ルセリが死ぬ。
そう理解した。
考えるより先に身体が動いていた。
「やめろぉぉぉぉっ!!」
駆け出す。
だが。
届かない。
間に合わない。
悔しい。
何もできない。
その時だった。
頭の奥で。
懐かしい記憶が蘇る。
前世。
会社を立ち上げた頃。
誰もが言っていた。
「業界が違う。」
「一緒にやる意味がない。」
「無理だ。」
機械加工。
電子。
ソフトウェア。
デザイン。
全部違う世界だった。
だから誰も繋げようとしなかった。
だが。
繋いだ時。
世界が変わった。
一足す一じゃない。
掛け算だった。
異なるものが交わった時。
それまで突破できなかった壁を越えられた。
「……そうか。」
カイゼルの瞳が見開かれる。
闘気。
魔力。
誰もが反発すると言った。
混ぜるなと言った。
だったら。
だからこそ。
可能性がある。
「頼む……!」
ドクン──。
身体の奥から闘気を引き出す。
剣へ流し込む。
同時に。
風の魔力を極限まで圧縮する。
「坊主!」
グラムが叫ぶ。
「やめろ!」
「死ぬぞ!」
ルセリも叫ぶ。
「カイゼル!」
聞こえない。
闘気と魔力が剣の中で激しくぶつかり合う。
腕が裂ける。
骨が軋む。
血が逆流するような痛み。
普通なら暴走する。
爆発する。
それでも。
カイゼルは押さえ込んだ。
融合させるんじゃない。
互いを打ち消すんじゃない。
互いの力を認める。
互いを活かす。
ただ、それだけを信じた。
ドクン──。
もう一度。
心臓が鳴る。
その瞬間。
反発していた二つの力が、螺旋を描きながら静かに重なった。
翠色の風。
その中心を走る白銀の闘気。
戦場の空気が変わる。
エルネストが目を見開いた。
「成功……した?」
グラムも息を呑む。
「そんな馬鹿な……」
ベルゼインの笑みが初めて消えた。
黄金の瞳が僅かに揺れる。
「……その力は。」
カイゼルは地面を蹴った。
速い。
今までとは比べものにならない。
一瞬でベルゼインの間合いへ踏み込む。
「うおおおおおおっ!!」
全身全霊。
命を削るように剣を振り抜く。
その瞬間。
翠色の斬撃が生まれた。
風でもない。
闘気でもない。
魔法でもない。
全てが融合した。
誰も見たことのない一撃だった。
ベルゼインは咄嗟に両手を掲げる。
「グラビティプレス!」
重力障壁が展開される。
しかし。
翠色の斬撃は止まらない。
ピシッ。
障壁へ亀裂が走る。
一本。
二本。
三本。
そして。
砕け散った。
「なっ……!」
ベルゼインが初めて驚愕の声を漏らす。
斬撃はそのまま胸元を深く切り裂いた。
鮮血が舞う。
ベルゼインの身体が吹き飛ぶ。
一本。
二本。
三本。
大木をへし折りながら数十メートル先まで弾き飛ばされる。
森は静まり返った。
誰も動かない。
ベルゼインはゆっくりと立ち上がる。
胸には深い裂傷。
血が止まらない。
魔族の高い再生能力をもってしても、すぐには塞がらないほどの重傷だった。
しばらく傷口を見つめる。
そして。
静かに笑った。
「……見事です。」
「異なる力を掛け合わせる。」
「そんな発想は、我々にもありませんでした。」
その笑みには。
先ほどまでの余裕はない。
純粋な驚きと敬意だけがあった。
ベルゼインはカイゼルを真っ直ぐ見据える。
「あなたは危険だ。」
「今ここで討つべきなのでしょう。」
騎士たちに緊張が走る。
しかし。
ベルゼインは静かに踵を返した。
「ですが。」
「私もこれ以上は戦えません。」
「今回は人間の勝ちとしましょう。」
そう言うと右手を軽く上げる。
「全軍、撤退。」
その一言だけで。
魔物たちが一斉に森の奥へ引き始める。
統率された軍勢のように。
ベルゼインは最後に一度だけ振り返った。
黄金の瞳がカイゼルを真っ直ぐ見つめる。
「カイゼル。」
「あなたの名は覚えました。」
「次に会う時。」
「その力がどこまで完成しているのか。」
「楽しみにしています。」
そう言い残し。
魔人族は森の闇へ姿を消した。
ようやく静寂が戻る。
その瞬間。
カイゼルの剣が地面へ落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
全身から一気に力が抜ける。
膝をつく。
意識が遠のく。
闘気と魔力。
本来なら交わるはずのない二つを無理やり重ねた代償だった。
倒れ込むカイゼルを、ルセリが慌てて抱き留める。
「馬鹿……!」
「本当に馬鹿なんだから……!」
その声は震えていた。
怒っているのか。
泣いているのか。
自分でも分からなかった。
エルネストは傷を押さえながら、小さく笑う。
「また……。」
「常識が、一つ壊れましたね。」
グラムも静かに頷く。
「そうだな。」
「あいつは。」
「世界を変えるかもしれん。」
夕暮れの森には。
生き残った者たちの安堵の息だけが、静かに響いていた。




