第二十八話 初陣
森の空気が変わった。
先頭を歩いていた騎士が静かに右手を上げる。
全員が足を止めた。
張り詰めた空気。
誰一人として声を出さない。
風だけが木々を揺らしていた。
その静寂を破ったのは。
鋼が鞘を擦る音だった。
隊長が剣を抜く。
それを合図に。
騎士たちも一斉に剣を抜いた。
「来るぞ!」
怒号が森へ響く。
次の瞬間だった。
茂みが一斉に揺れる。
無数の影が木々の間から飛び出してきた。
森は一瞬で戦場へ変わった。
最初に現れたのはゴブリンだった。
緑色の皮膚。
小柄な身体。
粗末な革鎧。
錆びた剣。
資料では何度も見た姿。
訓練でも何度も教わった相手。
だが。
実際に目の前へ現れると全く違った。
獣臭い体臭。
荒い息遣い。
黄色く濁った牙。
そして。
こちらへ向けられる剥き出しの殺意。
生きている。
そして。
本気で自分を殺そうとしていた。
一匹が飛び掛かる。
カイゼルの身体が自然に動いた。
考えていない。
身体が勝手に反応する。
十五年間。
毎日のようにグラムから叩き込まれた動きだった。
半歩。
踏み込む。
腰を落とす。
剣を振る。
一閃。
鈍い手応えが腕へ伝わる。
本物だった。
木剣ではない。
鉄の剣。
肉を裂く感触。
骨を断つ感触。
ゴブリンの身体が吹き飛ぶ。
鮮血が宙を舞った。
地面へ転がる。
二度、三度痙攣し。
やがて動かなくなった。
カイゼルは一瞬だけ息を呑んだ。
初めてだった。
命を奪ったのは。
胸の奥が少しだけ重くなる。
だが。
その感情へ浸る暇はなかった。
二匹目。
三匹目。
次々と魔物が飛び掛かってくる。
剣を受ける。
弾く。
斬る。
避ける。
訓練通りだった。
恐ろしいほど。
身体が覚えていた。
「右!」
ルセリの叫び声。
反射的に振り向く。
牙狼。
灰色の毛並みを持つ狼型魔物。
低く身体を沈め。
一直線に飛び込んでくる。
速い。
カイゼルは左手を突き出した。
「火球!」
魔力が収束する。
小さな火球が生まれ。
牙狼の顔面へ一直線に飛ぶ。
爆発。
牙狼が苦しげな悲鳴を上げた。
その隙を逃さない。
一歩。
二歩。
踏み込む。
剣が横一文字に閃く。
首が宙を舞った。
ルセリが目を丸くする。
「やるじゃない!」
「そっちこそ!」
ルセリも負けていなかった。
騎士団長の娘。
伊達ではない。
無駄のない足運び。
迷いのない剣筋。
一撃ごとに確実に急所を捉え。
ゴブリンを切り伏せていく。
グラムが以前言っていた。
剣は力ではない。
技でもない。
生きる意思だ。
その言葉が少しだけ分かった気がした。
戦況は悪くなかった。
騎士団は強い。
低級魔物の群れ程度では崩れない。
前衛が受け止め。
左右から包み。
確実に数を減らしていく。
統率され。
無駄がない。
これが本物の騎士団。
辺境を守り続けてきた精鋭たちだった。
だが。
その時だった。
「……おかしい」
誰かが呟いた。
カイゼルも視線を向ける。
一頭の牙狼。
毛並みが黒い。
いや。
黒というより闇のような色だった。
体格も普通の牙狼より二回りは大きい。
筋肉の盛り上がり。
鋭く伸びた牙。
そして。
異様なほど赤く染まった瞳。
嫌な予感がした。
次の瞬間。
黒い牙狼が動いた。
速い。
普通の牙狼とは比較にならない。
一瞬で騎士との間合いを詰める。
「ぐあっ!」
騎士が鎧ごと吹き飛ばされた。
木へ激突する。
嫌な音が森へ響く。
隊長の顔色が変わった。
「希少個体だ!!」
その一言で。
騎士たちの緊張がさらに高まる。
希少個体。
数百、数千に一体生まれる変異種。
通常種とは比較にならない能力を持ち。
時には上位魔物すら凌ぐことがある。
しかし。
異常はそれだけでは終わらなかった。
森の奥から。
さらに姿を現す。
普通より一回り大きなゴブリン。
黒い毛並みを持つコボルト。
異様な牙狼。
どれも。
赤い瞳をしていた。
「何だよ……あれ」
ルセリの声が震える。
カイゼルも同じだった。
嫌な感じがする。
言葉では説明できない。
本能が警鐘を鳴らしていた。
危険だ。
今まで相手にしてきた魔物とは違う。
次の瞬間。
黒い牙狼が地面を蹴る。
一瞬で隊列を突破した。
騎士が吹き飛ぶ。
もう一人。
さらに一人。
誰も反応できない。
速すぎる。
強すぎる。
隊長が叫ぶ。
「隊形を維持しろ!」
だが。
遅かった。
希少個体たちは連携していた。
左右から回り込み。
隙を突き。
狙いを合わせる。
まるで。
誰かの指示で動いているようだった。
普通の魔物ではあり得ない。
カイゼルの背筋を冷たいものが走る。
その時だった。
ふと。
森のさらに奥。
木々の隙間へ視線が向いた。
暗闇。
何も見えない。
だが。
そこに何かいる。
そんな確信だけがあった。
視線。
殺気。
いや。
もっと別の何か。
まるで。
こちらの戦いを眺めている存在がいる。
そんな気がした。
そして。
ほんの一瞬だけ。
笑ったように見えた。
次の瞬間。
黒い牙狼がルセリへ向かって跳んだ。
速い。
間に合わない。
そう思った瞬間には。
カイゼルの身体はもう動いていた。
考えるより早く。
ただ。
守りたい。
その一心だけで。




