第二十六話 世界情勢
アルトゥスは立ち上がる。
ゆっくりと壁へ歩き、大きな大陸地図の前で足を止めた。
この地図は建国当初から辺境伯家へ受け継がれてきたものだ。
幾度も描き直され。
国境線が書き換えられ。
戦争のたびに印が増えてきた。
アルトゥスは静かに口を開く。
「覚えておけ」
その声は父ではなく。
東方辺境伯だった。
「この大陸には五つの大国がある」
指先が最初に止まったのは、自分たちが暮らす国だった。
《アークレイア王国》
「我々の祖国だ」
「豊かな平野と大河に恵まれ、農業が盛んだ。長い歴史を持ち、騎士道を何より重んじる国でもある」
「王を中心に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵が領地を治め、それぞれが領民を守る責務を負っている」
「豊かな国ゆえ文化も栄え、学問や芸術も発展してきた」
アルトゥスは少し笑う。
「ただし、騎士は少々真面目すぎる」
「名誉を重んじすぎるきらいもある」
カイゼルは思わず苦笑した。
確かに。
グラムを見ていれば納得だった。
次に指が北へ動く。
《ヴァルグラン帝国》
「北の軍事国家だ」
「寒冷な土地ゆえ農業には恵まれない。だからこそ鉄を掘り、武器を作り、軍を鍛え上げた」
「重騎兵と重装歩兵は大陸随一と言われている」
「国民の多くは幼い頃から武芸を学び、軍へ入ることを誇りとしている」
「厳しい自然が、人も国も強くした」
少しだけ間を置く。
「王国最大の競争相手であり、最大の仮想敵でもある」
しかし。
アルトゥスは続けた。
「だからといって侮るな」
「帝国には優れた将軍も、誇り高い騎士も数多くいる」
「敵だから劣っているわけではない」
その言葉には実感があった。
若い頃。
実際に剣を交えた相手を思い出しているのだろう。
指は西へ動く。
《聖ルミナス教国》
「光の神ルミナを信仰する宗教国家だ」
「教皇を中心に神官たちが国を治めている」
「聖騎士団は大陸でも屈指の実力を持ち、光魔法や治癒魔法の研究では他国の追随を許さん」
「表向きは平和を掲げる国だ」
「だが、信仰を守るためなら剣を抜くことも躊躇しない」
「穏やかそうに見える国ほど怒らせると恐ろしい」
カイゼルは少し意外そうな顔をした。
宗教国家と聞けば戦いを避けるものだと思っていた。
アルトゥスは苦笑する。
「信仰ほど強い理由はない」
その一言だけで十分だった。
続いて南。
《ゼファード商業連邦》
「海を制する商人たちの国だ」
「王はいない」
「巨大商会の代表たちが合議で国を動かしている」
「海運、交易、金融、造船」
「金になることなら何でもやる」
「戦争も利益になるなら利用するし、平和の方が儲かるなら平和を選ぶ」
アルトゥスは少し肩を竦めた。
「一番敵に回したくない国かもしれんな」
「武力より金で勝つ連中だ」
最後に東へ指を滑らせる。
《天嶺皇国》
「東方の山々に囲まれた古き国家」
「皇を頂点とし、数千年続く歴史を持つと言われている」
「外部との交流は少なく、閉鎖的だ」
「だが剣術においては大陸随一」
「剣聖」
「武人」
「達人」
「そう呼ばれる者の多くは、この国から現れる」
アルトゥスは静かに笑う。
「いつか一度は訪れてみたい国だ」
その声には、戦士としての純粋な興味が滲んでいた。
そして。
アルトゥスの指は地図の端で止まらなかった。
さらにその外側。
大陸北東部。
巨大な山脈のさらに向こう。
誰も容易には足を踏み入れられない土地。
《魔界領域》
食堂の空気が少しだけ重くなる。
カイゼルの表情も自然と引き締まった。
魔族。
人類最大の敵。
子供向けの英雄譚にも必ず登場する存在。
だが。
アルトゥスは笑わなかった。
「昔ほどではない」
静かに言う。
「ここ百年ほどは比較的静かだった」
「比較的……ですか?」
「小競り合いはある」
「国境なのだから当然だ」
アルトゥスはゆっくりと腕を組んだ。
「だが最近」
その声が少し低くなる。
「向こうも騒がしいらしい」
食堂が静まり返る。
「魔族ですか」
「分からん」
辺境伯は首を横に振る。
「斥候からは報告が来ている」
「部族の移動」
「軍勢の集結」
「見慣れない旗」
「魔物の異常行動」
「そして国境付近で確認される正体不明の集団」
どれも決定的な情報ではない。
どれも確証はない。
だからこそ不気味だった。
アルトゥスは長年、辺境を守ってきた。
幾度となく戦場を見てきた。
だから分かる。
戦争というものは。
始まる時にはもう遅い。
始まる前には必ず、こうした小さな違和感が積み重なる。
「何かが動いている」
誰に言うでもなく。
アルトゥスはそう呟いた。
「まだ見えないどこかで」
「静かに」
「確実に」
世界の風向きは。
確かに変わり始めていた。




