第二十五話 北の帝国
夕食の後だった。
アルトゥスは珍しく席を立たなかった。
普段なら食事を終えると、そのまま執務室へ向かう。
辺境伯という立場は忙しい。
領内から上がる報告。
騎士団の訓練状況。
王都から届く書簡。
国境警備の報告。
一日として仕事が途切れることはない。
だからこそ。
食後にこうして地図の前へ立ち止まっている姿は珍しかった。
壁一面に広げられた大陸地図。
アルトゥスは腕を組み、静かに眺めている。
カイゼルも自然とその隣へ歩いていった。
最近、この時間が少し好きだった。
父は多くを語る人ではない。
だが話す時は、必ず自分の知らない世界を見せてくれる。
本では学べないこと。
実際に生きてきた者だけが知る話。
それを聞く時間だった。
「父上」
「なんだ」
「帝国って、どんな国なんですか」
アルトゥスは少しだけ眉を上げた。
「急だな」
「最近よく名前を聞きます」
「町へ来る商人も、騎士団の人たちも、みんな帝国の話をしています」
辺境伯は静かに頷いた。
「確かにな」
「最近は少し騒がしい」
そう言って地図へ歩み寄る。
指先が大陸北部をなぞった。
「ヴァルグラン帝国」
王国最大の隣国。
そして。
長い歴史の中で最も多く刃を交えてきた国だった。
「まず覚えておけ」
アルトゥスは静かに言う。
「帝国は豊かな国ではない」
カイゼルは少し意外そうな顔をした。
「そうなんですか」
「ああ」
「北方は冬が長い。雪に閉ざされる土地も多く、春になっても畑を耕せる期間は王国よりずっと短い。土地も痩せているから、小麦も野菜も思うようには育たん」
地図の北部を指でなぞる。
「豊かな穀倉地帯を持つ王国とは事情が違う」
「だから帝国は別の道を選んだ」
指先が山脈へ移る。
「鉄」
「石炭」
「銅」
「豊富な鉱山資源だ」
「彼らは山を掘り続けた」
「武器を作り、鎧を作り、工房を築き、街道を整備し、軍を育てた」
「作物では王国に敵わない」
「なら鉄で勝つ」
「それが帝国という国だ」
カイゼルは思わず頷いた。
理にかなっている。
置かれた環境に合わせて国の形を変えた。
それだけの話だった。
「だから強い」
アルトゥスは静かに言う。
「非常にな」
その声には実感があった。
若い頃。
アルトゥス自身も何度となく帝国軍と対峙してきた。
互いに剣を向け。
互いに仲間を失った。
だからこそ分かる。
帝国は侮れる相手ではない。
「王国とは違うんですか」
「違う」
辺境伯は即答した。
「王国は騎士を尊ぶ」
「名誉を重んじる」
「忠誠を重んじる」
「騎士道を守ることに誇りを持つ」
カイゼルは自然とグラムの姿を思い浮かべた。
確かにその通りだった。
強さだけではない。
どう戦ったか。
どう生きたか。
それを大切にする。
「帝国は少し違う」
アルトゥスの声が低くなる。
「結果を重んじる」
「勝ったか」
「守れたか」
「生き残ったか」
「そのために何をしたか」
「それが評価される国だ」
カイゼルは少し考える。
不思議だった。
その考え方は嫌いではない。
むしろ。
どこか前世で見てきた世界に似ている気がした。
会社も。
競争も。
最後に問われるのは結果だった。
だが。
結果だけでは語れない人間も大勢いた。
「父上」
「なんだ」
「帝国の人間は悪人なんですか」
アルトゥスは笑った。
本当に珍しく。
穏やかに笑った。
「違う」
その答えに迷いはなかった。
「向こうにも家族がいる」
「父親がいて」
「母親がいて」
「子供がいる」
「畑を耕す農民もいれば、鉄を打つ鍛冶師もいる」
「祭りの日には酒を飲み、子供の成長を喜び、家族の無事を願って眠りにつく」
「それは王国の民と何一つ変わらん」
カイゼルは黙って聞いていた。
「戦場で剣を交えた相手にも、立派な男は何人もいた」
「敵だから悪ではない」
「立つ場所が違うだけだ」
その言葉は静かだった。
だが重かった。
長い年月を国境で生きてきた男だからこそ言える言葉だった。
アルトゥスは窓の外を見る。
夜風が木々を揺らしていた。
「昔は共に戦ったこともある」
「共に?」
「三百年前の魔界大侵攻だ」
カイゼルの目が少し輝く。
英雄譚は昔から好きだった。
「当時の魔王軍は今とは比べ物にならんほど強大だった」
「王国だけでは止められなかった」
「帝国だけでも無理だった」
「教国も」
「商業連邦も」
「皇国も」
「皆が国の違いを捨て、人類として剣を取った」
勇者。
帝国最強と謳われた戦神。
教国の聖騎士。
皇国の剣聖。
大陸中の英雄たちが並び立った。
「歴史上、最も輝いた時代の一つだ」
アルトゥスは静かにそう言った。
しばらく沈黙が流れる。
なら。
なぜ今は争うのか。
カイゼルは自然とその疑問を口にした。
「だったら」
「なぜ今は仲が悪いんですか」
アルトゥスは苦笑した。
「人間だからだ」
短い答えだった。
だが。
その一言が何より重かった。
「土地が欲しい」
「資源が欲しい」
「利益が欲しい」
「立場が欲しい」
「国とは理想だけでは動かん」
「昔の恩義だけで平和が続くほど、人間は単純ではない」
辺境伯はもう一度地図を見る。
王国。
帝国。
教国。
商業連邦。
皇国。
そして。
その外側に広がる魔界。
「覚えておけ」
その声は父ではなく。
辺境伯だった。
「敵にも守りたいものがある」
「だから戦争は悲しい」
「だが」
「守らねばならないものがあるなら」
「剣を抜かねばならん時もある」
カイゼルは静かに頷いた。
アルトゥスは最後にゆっくりと言う。
「戦争は英雄が始めるものではない」
少しだけ間を置く。
「だが」
「終わらせるのはいつも英雄だ」
その言葉は。
十五歳のカイゼルの胸へ深く刻まれた。
窓の外では夜風が吹いている。
遠い北方。
ヴァルグラン帝国でも。
今頃、誰かが家族と夕食を囲み。
誰かが子供を寝かしつけ。
誰かが明日も家族を守ろうと思っている。
王国と同じように。
そんな当たり前の暮らしがあるのだろう。
カイゼルは地図を見つめながら思った。
敵とは。
最初から敵なのではない。
立つ場所が違うだけなのかもしれない。




