第十九話 辺境の朝
東方辺境伯領の朝は早い。
まだ日も昇りきらないうちから城内には人の気配が満ち始める。
厨房では朝食の準備が始まり。
騎士たちは訓練場へ集まり。
使用人たちは慌ただしく走り回る。
その頃。
カイゼルはまだ寝ていた。
気持ち良さそうに。
実に幸せそうに。
そして。
盛大に寝ていた。
「カイゼル様」
返事はない。
「カイゼル様」
返事はない。
「坊ちゃま」
返事はない。
使用人のミレアはため息をついた。
毎朝である。
本当に毎朝だった。
「グラム様を呼びますよ」
反応なし。
「ルセリ様を呼びますよ」
反応なし。
「朝食にベーコンエッグが出ますよ」
カイゼルが飛び起きた。
「なぜ最初に言わない」
ミレアは心の底から呆れた。
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十五分後。
食堂。
長いテーブルに家族が揃っている。
辺境伯アルトゥス。
母エレノア。
そしてカイゼル。
本来なら格式高い食事風景になるはずだった。
だが。
「急げ急げ急げ」
カイゼルは蜂蜜パンを口いっぱいに頬張っていた。
「飲み込んでから喋りなさい」
母の声が飛ぶ。
「時間がない」
「十分前に起きればいいでしょう」
正論だった。
反論できない。
だが反省もしない。
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食事を終えると訓練場へ向かう。
途中で。
「おーい!」
聞き慣れた声が飛んできた。
ルセリだった。
馬に乗っている。
なぜか朝から元気だった。
「また寝坊したの?」
「してない」
「したわよね?」
「少しだけだ」
「少しじゃないって聞いたけど」
カイゼルは無視した。
ルセリは笑った。
こうしてからかうのが好きなのだ。
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二人は並んで城壁の上を歩く。
東方辺境領の朝は美しい。
遠くには山脈。
その向こうには魔界。
広大な平原。
交易都市。
農村。
川。
そして人々の暮らし。
カイゼルはこの景色が好きだった。
前世では知らなかった広さがあった。
知らなかった静けさがあった。
その時だった。
城門が開く。
重い音が響く。
朝を待っていた人々が動き始めた。
荷馬車が列を作る。
農民たちが野菜を運ぶ。
商人たちが街へ向かう。
鍛冶屋の弟子らしい少年が走っている。
旅人もいた。
冒険者もいた。
誰もが忙しそうだった。
「毎日すごいな」
カイゼルが呟く。
「何が?」
ルセリが首を傾げた。
「人だよ」
「人?」
「これだけいるんだなと思って」
ルセリはますます不思議そうな顔をした。
彼女にとっては当たり前の景色だった。
生まれた時から見ている。
だが。
カイゼルには違った。
前世で会社を経営していた頃。
毎日数字を見ていた。
売上。
利益。
原価。
受注。
在庫。
数字は大事だった。
今でもそう思う。
だが。
数字の向こうにいる人を忘れそうになる時もあった。
あの農民。
あの商人。
あの鍛冶屋。
あの宿屋。
皆が生きている。
働いている。
笑っている。
だから街がある。
だから領地がある。
そんな当たり前のことを。
今さら考えていた。
「お前また難しいこと考えてるだろ」
ルセリが言う。
「考えてない」
嘘だった。
かなり考えていた。
ルセリも分かっている。
だからそれ以上は聞かなかった。
しばらく風だけが吹く。
やがて。
カイゼルは城下を見ながら呟いた。
「父上って毎日これ見てるんだな」
ルセリが少しだけ黙る。
辺境伯。
東方全域を治める領主。
子供の頃はただ大きな父だった。
強い父だった。
だが最近。
少しずつ分かってきた。
あの背中が背負っているものを。
「なりたくなくなった?」
ルセリが聞いた。
カイゼルは少し考える。
本当に少しだけ。
そして首を横に振った。
「いや」
風が吹く。
遠くで鐘の音が鳴る。
城下町が完全に目を覚ました。
「ちょっと面白そうになった」
ルセリは吹き出した。
「普通逆じゃない?」
「そうかもな」
カイゼルは笑う。
領主なんて面倒だ。
責任も重い。
やりたくない。
できれば昼まで寝ていたい。
好きなことだけしていたい。
それは今でも変わらない。
だが。
もしやるなら。
少しくらい面白くやりたい。
そんなことを考えながら。
カイゼルは再び城下町を見下ろした。
朝の陽射しが。
辺境の大地を照らしていた。




