第十話 辺境伯家の問題児
「坊ちゃまー!!」
屋敷中に悲鳴が響いた。
庭師の老人が顔を真っ青にして走っている。
その先。
高さ五メートルほどの大樹。
その一番上。
カイゼルは満足そうに景色を眺めていた。
「見ろ!」
両手を広げる。
「城が見えるぞ!」
「当たり前です!!」
下で使用人たちが半泣きになっていた。
「降りてください!」
「嫌だ!」
「なぜですか!」
「楽しいからだ!」
東方辺境伯家嫡男。
カイゼル・フォン・グランベル。
六歳。
本日も絶好調だった。
―――
転生して六年。
カイゼルはある事実に気付いていた。
子供というのは案外楽しい。
前世では会社だった。
責任があった。
社員がいた。
銀行がいた。
客がいた。
問題だらけだった。
だが今は違う。
飯が出る。
服もある。
家もある。
怒られても死なない。
最高だった。
唯一の欠点は。
身体が小さいこと。
それだけだ。
「落ちるぞ!」
下から父の声が飛ぶ。
アルトゥス・フォン・グランベル。
東方辺境伯。
身長は二メートル近い。
熊みたいな男だった。
カイゼルは木の上から笑う。
「落ちない」
その瞬間。
枝が折れた。
「おわっ」
世界が回転する。
空。
木。
空。
木。
空。
そして。
地面。
だが衝撃は来なかった。
気付けば父の腕の中だった。
アルトゥスが片手で受け止めていた。
「ほら見ろ」
父は呆れた。
カイゼルは真顔で頷く。
「助かった」
「反省しろ」
「次は折れない枝を選ぶ」
「そこじゃない」
―――
屋敷へ戻る途中。
父が聞いた。
「なぜ木に登った」
「見たかった」
「何を」
カイゼルは遠くを指差した。
城壁。
市場。
港。
その向こう。
東の山脈。
さらに向こう。
魔界。
「向こう」
父は少しだけ目を細めた。
「魔界か」
「うん」
「怖くないのか」
カイゼルは首を傾げた。
「遠いし」
「それだけか」
「遠いなら今日来ないだろ」
父は思わず笑った。
確かにその通りだった。
この息子は昔からそうだった。
怖がるべきところで怖がらない。
逆に。
妙なところで慎重になる。
理解不能だった。
―――
夕食。
大広間。
長いテーブル。
母。
妹。
使用人たち。
皆が揃う。
辺境伯家では珍しいことだった。
父は忙しい。
母も忙しい。
それでも夕食だけは可能な限り全員で取る。
それが家の決まりだった。
「今日は何をした」
父が聞く。
母が笑う。
使用人たちは不安そうな顔をする。
カイゼルは胸を張った。
「木に登った」
父がため息をつく。
「落ちた」
さらにため息。
「でも助かった」
アルトゥスは頭を抱えた。
母だけが楽しそうに笑っていた。
―――
その夜。
ベッドの上。
天井を見上げる。
静かだった。
前世ならまだ仕事をしている時間だ。
メール。
電話。
資料。
会議。
不良。
納期。
そんなものはない。
ただ静かな夜だけがある。
だが。
最近少し困っていた。
退屈なのだ。
木登りもした。
池にも落ちた。
馬にも乗った。
屋根にも登った。
だいたい怒られた。
だが。
少し飽きてきた。
城壁の向こう。
市場。
港。
東の山脈。
魔界。
この世界は思ったより広い。
そして。
思ったより面白そうだった。
「……まずいな」
カイゼルは呟いた。
嫌な予感がする。
この感覚を知っていた。
前世でも何度も経験した。
面白そう。
そう思った時は大抵ろくなことにならない。
そして。
今まで外れたことは一度もなかった。
カイゼルはため息をついた。
楽して生きる予定だったのに。
どうやら。
少しずつ狂い始めているらしい。




