表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/4

一章 ③

 頬を撫でる風には、確実に冬の冷たさが混じり始めていた。

 村の小高い丘に建つ薬屋の裏口から、森へと直通する細い裏道を進む。途中、すっかり雑草に覆われた古ぼけた小屋の横を通り抜け、シオンは深い緑の中へと足を踏み入れた。


「セージとローズヒップは、冬を越すためにたくさん必要だな……。霜待ち草は、まだ少し早いか。あ、エキナセアの根も掘り起こしておかないと」


 色づいた広葉樹の落ち葉が増え、一歩進むごとにサクサクと心地よい音が足元から響く。幼い頃から歩き慣れた森を、シオンは迷いのない足取りで進み、手際よく目当ての薬草を摘んでいった。

 ミストラル村を囲む険しい山々には、古くから精霊が棲んでいると噂されている。無闇に足を踏み入れた者は精霊の怒りを買い、二度と帰ってこられないという。だが、その山の恐ろしいまでの恩恵を湛えてか、麓に広がるこの森には凶暴な野生生物がほとんど姿を現さない。そのうえ上質な薬草が豊かに自生する、薬師にとってはこれ以上ない至高の採集場だった。


***


 三時間ほど集中して歩き回るうちに、シオンの背負った籠は色とりどりの薬草でいっぱいになった。


「さて……今日はこれくらいかな」


 膝や衣服の裾についた土をパンパンと払い、軽く伸びをする。

 そこからシオンは、村へ帰るルートを少し逸れ、さらに山肌に近い方へと足を向けた。

 森の境界。山の麓に位置するその場所には、秋の名残りのように淡い紫色の可憐な花――紫苑が、一面に咲き誇っていた。

 その清らかな色彩は、シオン自身の瞳の色と深く重なる。自らの名の由来となったというその花畑を、シオンは密かに気に入っていた。誰も訪れることのない、シオンだけの聖域。揺れる紫の花々の向こう側には、自分の生まれ育ったミストラル村が、まるで箱庭のように小さく見下ろせた。


 そろそろ日が暮れる。一息ついたシオンが「帰らねば」とその場を後にしようとしたとき——ふわり、と柔らかな光の粒子が、不意に視界の端をかすめた。


「……?」


 小さな粒子は、心許なく揺れて、やがて夜気に溶けるように消えていく。

 ひとつ、またひとつと流れてくる光の跡を辿ると、どうやら花畑の隅、紫苑の茂みの奥から漂ってきているようだった。

 恐る恐る花をかき分けて覗き込んだシオンは、息を呑んだ。

 そこには、両の掌に収まるほど小さな黒いウサギが、淡い光の尾を引きながら倒れていた。

 身を縮め、小さく震えているその体は、今にも世界の境界から消え失せてしまいそうな儚さを纏っている。


「だ、大丈夫かい……!?」


 野生の小動物が傷付き倒れていること自体は、自然の摂理だ。しかし、この世の物とは思えない神秘的な光を放つその姿から、シオンは目を離すことができなかった。

 よく見れば、漆黒の毛並みの一部が不自然に濡れている。そっと指先を触れさせると、赤黒い血がべっとりと付着した。


「怪我をしているのか……!」


 シオンは素早く鞄から清潔なタオルと、最高品質の治癒ポーションを取り出した。患部を探しながら、手際よく余計な血を拭っていく。


「ここか……沁みるかもしれないけど、効くはずだから、ね」


 血と光が同時に漏れ出ている傷口を見定め、ボトルの栓を口で引き抜く。タオルをどけると同時に、緑色の薬液を迷わず注ぎ込んだ。

 上質な薬はすぐに効果を発揮し、傷口は見る間に塞がっていった。それと同時に、痛々しく漏れ出ていた光の放出もぴたりと収まる。


「体温が低いな……傷は塞がったみたいだけど、このままでは衰弱してしまう」


 タオルと空の瓶を鞄に押し込み、シオンは自分の上着を脱いだ。そして、小さくか弱いウサギの体を、体温を逃がさないようそっと包み込む。

 塞がったばかりの傷に響かぬよう、極力振動を与えないように細心の注意を払いながら、シオンは夕闇の迫る家路へと急いだ。


 息を切らせて自宅へとたどり着いたシオンは、自室のベッドの上に、上着ごと黒ウサギをそっと横たえた。

 人肌より少し熱いくらいの湯を沸かし、清潔な布を浸して、汚れた体を優しく拭っていく。それから、もう少し熱めに沸かした湯を容器に注いで即席の湯たんぽを作り、別のタオルで厳重に包んでから、冷え切ったウサギの背中にそっと沿わせた。


「一旦、これで……。あとは何が必要かな。このあと熱が上がるかもしれない。解熱の薬……いや、この子に適した処方なんてあるかな」


 家畜や猟犬のための獣薬なら調合した経験があるが、これほど小さな、角さえ生えていないウサギの個体は初めてだった。


「トバリウサギの幼体……でもない。それに、あの光は一体なんだったんだろう」


 シオンは息を潜め、ウサギを観察した。

 夜の闇をそのまま吸い込んだかのような、深い漆黒の毛並み。そっと耳の裏をめくると、片方が紫、もう片方が金という、見たこともない奇妙な双色をしていた。よく見れば、手先と足先にも金の毛が混じっている。素朴なミストラル村の自然にはおよそ不釣り合いな、恐ろしいほどに美しいウサギだった。

 ひとまず震えは収まり、今は穏やかに眠っているように見える。

 小康状態になったのを見届け、シオンはそっと寝室を後にした。まずは背負ってきた薬草を傷まないうちに仕分けるため、寝室とは反対にある土間へと向かう。

 

 パタン、と静かに扉が閉まる直前。暗がりのベッドの上で、ウサギが薄く、その瞼を開いた。

 チラリと向けられたその鋭い視線に、シオンはまだ気が付かないのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ