一章 ④
翌、早朝。
徹夜で行った薬草の仕分けと下処理がようやくひと段落し、シオンは伸びをしながらリビングへと移動した。
「トバリウサギは確か……根菜、ニンジンが好きだったよな」
ぼんやりとした頭でキッチンの戸棚を覗き込んだが、中にはまともな食材など入っていなかった。日頃から自らの食事を疎かにしがちな弊害が、こんなところで顔を出す。
「仕方ない、八百屋に行くか……」
寝室の様子を隙間からそっと覗き見ると、黒いウサギは変わらず静かに眠っていた。それを確認してホッと息を吐くと、シオンはソファに放り出していた替えの上着と財布を引っ掴んで、朝靄の残る家を後にした。
「おはようございます、マルコさん」
「おや、シオンじゃないか! あんたがウチに買い出しに来るなんて珍しいねぇ。こんな朝早くからどうしたんだい?」
開店準備をしていた八百屋のマルコおじさんが、弾んだ声で元気よく出迎えてくれる。
「ちょっと、ニンジンが必要になりまして。ありますか?」
「もちろんさ! どれくらいいるんだい?」
「そうですね……とりあえず、三本ほどいただけますか」
あの小さなウサギの胃袋を考えれば、三本もあれば当分は事足りるはずだ。
「あいよ、ちょっと待ってな」
「そういえば、腰の調子はいかがですか?」
「ああ、こないだシオンに処方してもらった薬のおかげで、ずいぶん楽になったよ。あれは本当に効くなぁ!」
「それはよかったです。また痛むようなら、いつでも言ってくださいね」
「ありがとよ。はい、これがニンジン。……あぁそうだ、この美味そうな林檎もおまけしとくよ!」
「わぁ、ありがとうございます。お代は……」
「いらない、いらない! いつも世話になってるし、あんたが直々に買いに来てくれたのが嬉しいからね。今日はマルコおじさんのサービスさ」
「……そうですか? では、お言葉に甘えて。今度、薬局の方で何かお返しをさせてくださいね」
「おう、期待してるぜ!」
ニンジンの詰まった紙袋とおまけの林檎を受け取ると、シオンはペコリと一礼し、自然と速くなる足取りで家路を急いだ。
玄関の扉を開け、買ってきた紙袋をキッチンに置こうと足を踏み入れたところで、シオンは完全に硬直した。
リビングのソファ。出かける前には自分の上着が丸められていたそのわずかなスペースに、あの黒いウサギがちょこんと座っていたのだ。
寝室の扉は確かに閉めたはずだった。そもそも、あれほどの重傷を負っていた生き物が、こんなにも早く目覚めて動き回るなど、つゆほども思っていなかった。
「もう動いて大丈夫なのかい……? まだ横になっていた方がいいんじゃ……」
紙袋をテーブルの足元に置くと、シオンは心配になってソファへ近付き、そっと手を伸ばした。しかし、その指先が触れるより早く――パシッ、と小さな前足で容赦なく払い除けられた。
「気安く触らないでちょうだい、人間」
「……っ!?」
流暢に、それも妙に気高く言葉を発したウサギは、苛立ちを隠そうともせず、フンと顔を逸らした。シオンは驚きに目を丸くしながらも、素早く手を引っ込める。
「喋れるトバリウサギさんは、初めてみるな……」
シオンは手を引っ込めつつも、興味深そうにその顔を覗き込む。
「トバリウサギですって? あんな角の生えた粗野な生き物と一緒にするなんて、目が腐っているのかしら」
「なるほど、角が無いのはそもそもに種族が違うからなんだね。でも他の特徴はウサギさんと一致するような……」
「この美しい毛並みが見えないのかしら!? これだから人間は……って、貴方、人間の割に、私が喋ることにそんなに驚かないのね」
ウサギ——ではない「何か」は、首をコテンと可愛らしく傾げ、怪訝そうにシオンを見つめた。
「これでも十分に驚いてはいるんだけどね。まぁとにかく、元気そうで何よりだよ。薬はちゃんと効いたようだ」
「フン、私は別にあのまま眠ったって良かったのよ。……でもまぁ、上質な薬を使ってくれたことだけは、感謝してあげてもいいわ」
どこまでも偉そうな態度を崩さない風変りな患者に、シオンは思わず小さく微笑んだ。そして、彼女の目線に合わせるように、スッとその場に膝を突く。
「僕の名前はシオン。貴女様のお名前をお伺いしても?」
「……」
ウサギはじっとシオンの瞳を覗き込んできた。その双眸に、邪悪な欲望ではなく、ただ純粋な好奇心と優しさだけが灯っているのを確認すると、不遜ながらもどこか満足そうに口を開いた。
「セレスよ」
「セレス様。先ほどニンジンを買ってきたのですが、召し上がりますか?」
「ニンジンって……それこそトバリウサギの好物じゃない。私は人間が食べるようなものなら、なんでも食べるわよ」
「そうなんだ? うーん、他に何かあったかなぁ」
立ち上がり、キッチンの戸棚を覗き込んでみるものの、やはり中身は寒々しい。日頃の食生活が悔やまれた。
「黒パンと、少しのチーズならあるけれど……」
「……」
シオンの言葉に、セレスは呆れ返ったような視線を投げかけると、ソファから音もなく飛び降りた。そして、ふわりと重力を無視するように舞い上がると、シオンの肩へと飛び乗る。
「……人間って、もっと食を楽しむ生き物じゃなかったかしら」
「うーん……そういう人の方が多いでしょうね」
すぐ耳元で呆れ混じりに囁かれ、シオンは困ったように眉を下げた。セレスはシオンの肩からソファに戻ると、後ろ足の二本で立ち上がり、前足を器用に組んだ。
「何か美味しいものを買って来なさい。ニンジンだって、調理するなら食べてあげないこともないけれど、このまま生で齧るなんていやよ」
「承知いたしました、姫」
ぺこりと恭しく一礼すると、シオンは再び家を後にするのだった。
「……変な人間」
残されたリビングで、セレスはぽつりと呟いた。
「私の存在を前にしたら、願いを叶えさせようとしたり、捕まえようとしたりする者ばかりだったのに……」
じっと扉を見つめていたセレスだったが、やがてふいと視線を外すと、ソファの上で丸くなり、猫のように心地よさそうに寛ぎ始めるのだった。




