一章 ②
「師匠」
上がってすぐ左手の扉を二度、軽くノックしながら声をかける。
「……なんだい? シオン。おや、その香りは、リリアちゃんが来てたのかな」
扉を開きながら、温かみのある低くて渋い声でシオンを迎えたのは、薬屋の主であるカミロだ。
背後のカーペットが敷かれた書斎からは、古い紙とコーヒーの香りが漂ってくる。
「はい、今日はハムチーズだそうですよ」
「いいね、いただこう。シオンも食べるだろう?」
「あ、いえ、僕は……」
「どうせ朝も碌に食べていないのだろう? すぐに行くから、リビングに行っていなさい」
「……はい、師匠」
優しく諭すように言われ、シオンは困ったように笑ってリビングへと向かった。
「……薬師としての腕は確かなのに、自分を疎かにするところは中々治らんなぁ」
デスクの読みかけの本に栞を挟みながら、寂しげな瞳でそうこぼしたカミロも、本をパタリと閉じると、ランプの火を消した。暗がりに残る芯の匂いを感じながら、空になったマグカップを手にカミロもリビングへと向かった。
***
リビングでは、シオンが湯を沸かしながら、ハーブティーを淹れる準備をしていた。立ち上る爽やかなハーブの香りと、パンの香ばしさが空腹を優しく刺激する。シオンの無駄のない動きを邪魔せぬよう、カミロはマグカップをそっと水に浸してから、いつもの席についた。
穏やかな沈黙が流れる。カミロは自分と同じ髪型をして、自分の背丈よりも大きくなった弟子の背中を、慈しむように眺めていた。
「お待たせしました」
ことり、と優しくマグカップを置くと、シオンは対面に腰を下ろした。
「ありがとう。では、いただくとしよう」
「はい。いただきます」
二人はそっと手を合わせ、黄金色に焼き色のついたバゲットのサンドイッチを手に取った。歯を立てれば、パリッ、と乾いた、けれど温かな音がリビングに響く。砕ける外殻の香ばしさと、対照的にしっとりと繊細な生地の柔らかさ。それが、村の皆が愛するパン屋の腕を証明する、見事な食感の落差だった。
そこへ、少し厚切りにされたハムの力強い塩気と、熱でとろりと溶け出したチーズの芳醇なコクが絡み合う。噛みしめるたびに、熟成された旨みが一つに溶け合い、幸福な余韻となって喉を通っていく。
「……美味しいな、シオン」
最高の調和が生み出す美味しさにカミロがそう零すと、シオンも目を細めて頷いた。
***
「今日はそろそろ、店仕舞いかな?」
食後の余韻に浸りながら、ハーブティーの温かさを楽しんでいたカミロが問いかけた。
「そうですね。そろそろ冬に向けた調薬の準備も始めたいですし、森へ採集に行こうかと」
先にカップを空けていたシオンは、手際よく洗い物を済ませ、布巾で手を拭いながら答えた。
「そうだね。夕方にもなると冷え込むから、気をつけて行ってくるんだよ」
「はい。では、行ってまいります」
シオンは小さく一礼すると、リビングを後にして階下へと向かった。
調剤室で馴染みの白衣を脱ぎ、代わりに厚手の野草採取用の上着を羽織る。使い込まれて深い飴色に変わった革の鞄を肩に掛け、大きめの背負い籠を担いで、裏玄関の扉を開けた。




