51
帰宅後。
恒一は靴も脱ぎ散らかしたまま、部屋で簡易同調に入った。
水。
金属片。
深呼吸。
受信を許可します。
意識が引かれる。
深い藍。
星。
巨大な《巡界避難艦アウルム》。
そして、今日は最初から空気が違った。
張っている。
艦内全体が。
ルイゼはすぐ現れた。
いつもの整った姿。
でも、瞳の奥が硬い。
『確認します』
開口一番、彼女は言った。
『あなたが観測した異常は、時刻、方角、感覚ともにかなり限定的です』
「何だったんだ」
『現時点では仮説です』
「仮説でいい。言え」
『……地球近傍宙域の境界で、位相撹乱に近い反応がありました』
「……」
「つまり?」
『追跡、あるいは長距離走査の可能性があります』
頭の中が、少しだけ白くなる。
「追跡って」
『私たちを追っている側です』
「……」
『まだ地球側観測域に明確に乗るほどではありません』
「でも」
『でも、無関係だと切るには近すぎる』
静かな言い方だった。
だからこそ、深く刺さる。
恒一はしばらく何も言えなかった。
目の前の仕事。
紹介。
不審メール。
元勤務先からの探り。
そういう地球側のざらつきとは、明らかに別のスケールの話が、急に足元へ降りてきた感じがした。
「……それ、前からあったのか」
『可能性はありました』
「は?」
『……』
「おい」
『確度が低かったので、あなたには出していませんでした』
胸の奥が冷える。
「またそれか」
『……』
「目的だけじゃなく、そういうのもか」
『……ごめんなさい』
謝罪はすぐ来た。
でも、きつかった。
恒一は息を吸って、吐く。
「整理する」
『はい』
「正しい点」
「お前らを追ってる側がいる可能性は、前からあった」
『はい』
「不確実な点」
「それが今日の違和感と同じものか」
『はい』
「不明な点」
「そいつらがどこまで来てるか。地球に見えるのか。こっちへ何が起きるのか」
『はい』
ルイゼは静かに頷いた。
『その通りです』
「……」
『怒っていますか』
「怒ってる」
『はい』
「あと、普通に怖い」
『それも当然です』
恒一は目を閉じた。
そうだ。
当然だ。
自分は今まで、小さい仕事を増やし、人生を取り戻し、ルイゼとの関係に少しずつ熱を持ち始めていた。
その土台の下に、もっと大きい逃避行の影が前からあった。
それを、今、改めて突きつけられたのだ。
「……なんで今言った」
『あなた自身が観測したからです』
「……」
『もう、“あなたを巻き込まないために伏せる”という段階ではなくなりました』
その言葉は、嫌なほど本気だった。
「……最悪だな」
『はい』
「でも、ちゃんと分かった」
『……』
ルイゼの方から、少しだけ張り詰めた安堵が返る。
恒一は眉を押さえた。
「これで、仕事の話だけしてる場合じゃなくなったか」
『まだ、地球側で公に動く段階ではありません』
「でも、俺の中では変わる」
『はい』
その通りだった。
今日までの不穏は、個人の成功まわりのざらつきだった。
でも今のは違う。
もっと上の層だ。
世界はまだ動いていない。
ニュースもない。
観測もされていない。
ただ、空だけが少し変だった。
それだけ。
それだけなのに、今までの全部の意味が、少しずつ変わり始めていた。
最初に違和感が来たのは、ニュースではなかった。
SNSだった。
翌朝。
恒一はいつものように、起き抜けの頭でスマホを流していた。
仕事の連絡。
会計事務所案件のメモ。
顧問先案件の初期診断項目。
それから、どうでもいい動画と、どうでもいい炎上と、どうでもいい誰かの飯。
その中に、妙な投稿が混ざっていた。
北西の空に変な光見えたやついない?
いや光っていうか、ノイズみたいな……
天文クラスタざわついてる?
「……」
恒一の指が止まる。
『見つけましたか』
ルイゼの声は低かった。
「これ、昨日のと関係あるか」
『断定はまだ』
「でも?」
『無関係と切るのは早い』
恒一はさらに遡る。
似たような投稿が、少数だがある。
夜空の一角の違和感。
撮れなかった。
カメラには残らない。
でも何か変だった。
バラバラだ。
誰も確信していない。
だからこそ、逆に嫌だった。
「……ニュースにはなってないな」
『まだ、小さい』
「“まだ”って言ったな」
『はい』
嫌な言い方だった。
でも、たぶん正しい。
恒一は起き上がり、カーテンを開ける。
朝の曇り空。
何もない。
普通だ。
なのに、胸の奥だけが普通じゃない。
「整理する」
『はい』
「正しい点。少数だけど、昨夜の違和感に近い報告が他にもある」
『はい』
「不確実な点。それが同じ現象かどうか」
『はい』
「不明な点。どこまで観測されてて、誰がもう気づいてるか」
『はい』
ルイゼは静かに頷いた。
『地球の公的観測網がまだ拾っていない可能性はあります』
「まだ」
『あるいは、拾っていても公開段階ではない』
「……」
それもありそうだった。
天文学者でも、軍でも、観測機関でも。
何かが曖昧な段階では、すぐには出さないこともある。
恒一はスマホを置き、しばらく天井を見た。
「……嫌な始まり方だな」
『はい』
「ニュースになる前のざわつきって、こういう感じなのか」
『あなたの文明では、そういうことも多いのでしょう』
「たぶんな」
冗談みたいな顔をして始まる。
でも、後から見返すと、あれが最初だったと分かる。
そういう始まり方。
今はまだ、たぶんその段階だ。




