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そのまま少し長く沈黙したあと、ルイゼがふいに言った。
『今日、あなたは少し距離がありますね』
「……そうか?」
『はい』
「まあ、そりゃな」
『理由は』
「……」
恒一は少し考えた。
言うべきか。
飲み込むか。
だが、この相手には、結局だいたい漏れる。
「お前のこと、信じてる」
『はい』
「でも、見えてない部分が多いのも事実だ」
『……』
「それが、今日はちょっと重い」
『……はい』
ルイゼは否定しなかった。
その代わり、ごく静かに言った。
『その重さは、正しいです』
「……」
『軽く扱ってほしくありません』
「……そうか」
『はい』
妙な答えだった。
でも、本音だったのだと思う。
信じてほしい。
でも、簡単に信じ切ってほしいわけではない。
そういう矛盾を含んでいる声だった。
「……めんどくさいな、お前」
『知っています』
「でも嫌いじゃない」
『……』
「その沈黙なんだよ」
『少し、効いたので』
「そうかよ」
その返事の奥にある柔らかさは、確かに少し心を軽くした。
完全には軽くならない。
でも、ゼロよりはましだ。
たぶん今の二人は、親密さと警戒を、両方抱えたまま前へ進くしかないのだろう。
綺麗ではない。
でも、妙に本物だった。
顧問先案件の初回訪問は、予想以上に濃かった。
工場の匂い。
油。
金属音。
事務所の紙。
現場の短い怒声。
社長の大きな足音。
恒一は現場を歩きながら、何度か前の会社とは別種の疲労を感じた。
ここはブラック企業の会議室みたいな圧ではない。
もっと生っぽい。
人と物と納期が、直でぶつかっている現場の疲労だ。
「……」
メモを取る。
部材の置き場所。
発注表の更新タイミング。
営業が持っている納期表。
現場が持っている作業予定。
事務の伝票。
全部が微妙にズレている。
『かなり濃いですね』
ルイゼの声。
「うん」
『情報の断裂点が多い』
「でも種類は見える」
『はい』
社長が横から言う。
「どう?」
「思ったより、営業と現場の時間感覚が別物です」
恒一は答えた。
「あと、発注の“やったつもり”が複数箇所で起きてます」
「……」
「現場は営業が勝手に納期を切ってると思ってる。営業は現場が言わないから分からないと思ってる。事務は両方から最後に来る」
「……」
「で、最後に全部が事務に集まって詰まる」
社長は苦い顔をした。
「その通りだな」
「たぶん、最初にやるべきは、責任論じゃないです」
「うん」
「どこで情報が切れてるかを、まず一枚で見えるようにすることです」
「……」
「今は皆、それぞれの正しさで動いてて、全体の遅れだけが最後に見えてる」
社長は長く息を吐いた。
「耳が痛い」
「そうでしょうね」
「お前、遠慮ないな」
「今の段階で遠慮すると、診断の意味が薄いので」
「……まあ、そうか」
その反応は、悪くなかった。
帰り際、社長は言った。
「最初、若いし、なんか整理屋って怪しいと思ってた」
「よく言われます」
「でも、少なくとも一回は聞く価値あるな」
「ありがとうございます」
「続き、出してくれ」
案件継続の方向は濃くなった。
ただし、それより大きいものがあった。
工場の空を見上げた時だ。
快晴ではない。
薄曇り。
でも、その空の一角に、妙な違和感があった。
明るさではない。
色でもない。
もっと、感覚的な“薄い引っかかり”。
「……?」
恒一は足を止める。
『どうしました』
ルイゼの声が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「いや」
「今、空、なんか変じゃなかったか」
『……』
「おい」
『詳細を』
「一瞬だ。光ってはいない。ただ、なんか、空気の奥で……」
自分でも言葉にできない。
でも、ルイゼはその曖昧さを拾ったらしい。
向こう側の温度が、一段下がる。
『位置は』
「北西寄り。高いところ」
『……』
数秒。
かなり長い沈黙。
『今日は、帰宅後すぐ接続してください』
ルイゼが言う。
「は?」
『詳細確認が必要です』
「何だよ」
『今はまだ、確定情報がありません』
その声音は、久しぶりに“艦長”だった。
冗談も、柔らかさもない。
「……分かった」
『必ず』
そこで接続は一度薄くなった。
恒一は空をもう一度見上げる。
違和感は消えている。
ただの曇り空だ。
でも、胸の奥に残る。
あれは気のせいじゃなかったかもしれない、というざらつき。




