46
喫茶店で会った会計事務所の所長は、牧野が言っていた通り、かなり慎重そうな男だった。
五十代前半。
細い眼鏡。
柔らかい話し方。
でも、目はちゃんと見ている。
「初めまして」
恒一が頭を下げる。
「初めまして。牧野から聞いています」
所長が言う。
「業務整理が得意だとか」
「得意というより、現場の詰まりを整理するのが比較的向いている、くらいです」
「謙遜ですか」
「予防線です」
所長は少しだけ笑った。
悪くない反応だ。
話は静かに進んだ。
今の恒一の仕事。
何を見て、どう切り分けるか。
会計事務所案件で、なぜ“締切一覧と確認待ち一覧を分ける”発想に至ったのか。
所長は一通り聞いたあと、コーヒーを置いて言った。
「率直に言うと」
「はい」
「最初は少し怪しいと思っていました」
「そうでしょうね」
「でも今は、怪しいというより、現場を壊した経験が濃い人だという印象です」
「……」
かなり直球だった。
「悪い意味ではなく」
所長が続ける。
「壊れた流れに見覚えがある人の話し方をしている」
「……」
「だから、逆に、やってもらう価値はあると思いました」
恒一は返事が少し遅れた。
それは褒め言葉として、かなり変だった。
でも、同時に、かなり本質でもあった。
「ありがとうございます」
ようやくそう返す。
「ただし」
所長は言う。
「一つだけ気になる」
「何でしょう」
「あなた、今のやり方で仕事が増えたら、どこかで一度燃え尽きませんか」
見抜かれている。
恒一は少しだけ笑った。
笑うしかなかった。
「その可能性は、かなりあります」
「正直でいい」
「だから、今は受付数を絞っています」
「……」
「あと、型を作って、毎回ゼロから考えないようにしています」
「なるほど」
所長はそこで初めて、少しだけ表情を緩めた。
「なら、一つだけ相談したい案件があります」
「はい」
「うちではなく、顧問先です」
「……」
「小さな製造業で、事務と進行と現場の連携が死んでいる」
「かなり最悪ですね」
「かなりです」
その言い切り方で、少し笑ってしまった。
「今すぐではなくていい」
所長が言う。
「ただ、来月頭に一度、見てもらえるなら繋ぎたい」
来月頭。
少し先だ。
だが、これは大きい。
会計事務所の所長経由。
顧問先。
つまり、紹介の質が一段上がった。
『判定』
ルイゼの声。
『妥当。信用が少しずつ積まれています』
「うん」
『不確実。対応範囲が広がるぶん、難易度も上がる』
「それもそうだな」
恒一は所長に答えた。
「現時点で確約はしませんが、概要を見てからなら検討できます」
「それで十分です」
「ありがとうございます」
「こちらこそ。牧野の睡眠が少し戻ったのも助かっています」
「……」
「寝る前に頭を外へ出すやつ、あれ、地味に効くそうです」
「そうですか」
「ええ。地味に」
地味に。
その言葉が妙に嬉しかった。
派手じゃない。
でも、効く。
今の自分を表すには、たぶんちょうどいい。
◇
帰り道。
夕方の光は少し白く、街は普通に騒がしかった。
恒一は駅まで歩きながら、深く息を吐く。
「……なんか、一段上がった感じするな」
『はい』
ルイゼの声。
『会計事務所の補助スタッフ経由から、所長経由へ移りました』
「言い方が業務報告なんだよな」
『事実ですので』
「まあ、そうだけど」
嬉しい。
でも、同時に少し怖い。
階段を上がるたびに、落ちた時の痛みも増えそうだから。
「……なあ」
『はい』
「俺、今たぶん、前よりだいぶいい感じだと思う」
『そうですね』
「でも、ちょっとだけ、また自分を仕事で測り始めてる気もする」
『……』
「会計事務所の所長に評価されたの、かなり嬉しかった」
『はい』
「その嬉しさが、危ない気もする」
ルイゼは少し黙った。
そして静かに言う。
『妥当な自己観察です』
「またそれか」
『今回は本当にそうです』
「……」
『正しい点。評価されることは嬉しい』
ルイゼが続ける。
『不健全なのは、評価がないと自分が空になる時です』
「……」
『今のあなたは、まだそこまでは戻っていない』
「戻らないようにしたいな」
『では、今日の評価は“嬉しかった”で止めてください』
「……」
『“価値が証明された”まで進めない』
「……それ、めちゃくちゃ助かるな」
『知っています』
恒一は駅前の雑踏の中で、少しだけ立ち止まった。
嬉しかった。
それでいい。
そこまでで止める。
その感覚は、新しかった。




