40話 風の約束
朝五時半。まだ暗い。
隆志はベッドから起き上がり、隣を見た。智子が眠っている。短く刈り込んだ髪が枕に散っている。寝息は静かだ。その向こうに、みゆきの小さな寝息が聞こえる。三人分の布団が並んだ部屋。ナイロビの郊外に借りた家。サミュエルの家から歩いて十分の距離にある、コンクリートブロックの平屋。庭にはアイリーンが分けてくれたマリーゴールドが植えてある。
智子とみゆきがケニアに来て、三ヶ月が経っていた。
台所に入ると、昨夜の鍋がコンロの上に置いてある。味噌汁。智子が日本から持ってきた味噌で作ったもの。ナイロビの日本食材店で買える味噌は種類が限られているが、智子は文句を言わなかった。「味噌があれば味噌汁は作れる。あとは腕の問題」と言った。
鍋の蓋を開けた。冷めている。当然だ。昨夜の残りだから。
火をつけた。弱火で温める。味噌汁は沸騰させない。風味が飛ぶから。智子に教わった。結婚して十年以上経って初めて、味噌汁の温め方を学んだ。
湯気が立ち始めた。豆腐とワカメ。隆志が好きな具材。三年前、この味噌汁が冷めたまま食卓に置かれていた。あの朝と、今朝と、味噌汁の味は同じだ。変わったのは、温め直す手が、智子ではなく隆志であること。
一杯だけよそい、食卓で飲んだ。旨い。朝の冷えた体に、味噌の塩気が染みる。ケニアの朝は涼しい。標高千六百メートルのナイロビは、赤道直下でも朝晩は冷える。味噌汁が欲しくなる気温だ。
椀を洗い、靴を履いた。スニーカー。赤土の上を歩ける靴。革靴はもう持っていない。スーツも持っていない。あのスーツは、日本を発つ前に処分した。百七社の面接に着ていった鎧は、もう要らない。
玄関のドアを開けると、ケニアの朝の空気が流れ込んだ。乾いた風。赤土の匂い。遠くで鶏が鳴いている。東の空が薄く白み始めている。星がまだ残っている。もうすぐ消える星。あと三十分もすれば、アフリカの朝日が大地を赤く染める。
歩いた。
舗装されていない道。赤土が靴の底にまとわりつく。三年前は異質だったこの感触が、今は自分の足の一部のように感じる。東京のアスファルトの硬さを、もうほとんど覚えていない。
工房が見えてきた。SAKURA MOTORS。看板の文字が、街灯の残り光にかすかに浮かんでいる。サミュエルが描いた桜の絵。三年分の日差しと雨で色が褪せているが、形は残っている。
鍵を開けた。
オモンディがやっていた朝の儀式を、隆志が引き継いでいる。鍵を開け、蛍光灯のスイッチを入れ、コンプレッサーの電源を入れる。機械が目覚める音。低い唸り。冷たかった金属が、電気を受けて温まり始める。
蛍光灯が点いた。白い光が工房の中を照らす。
壁が見えた。
左に、ホワイトボード。名前が並んでいる。ナイロビ本社の名前。Samuel Otieno。James Omondi(指導員)。Kipchirchir Mwangi(モンバサ駐在)。Takashi Tanaka。その下に新しい名前が何人か加わっている。最近雇った若者たち。キプチルチルの推薦で来た者、アシャの紹介で来た者、ムワンギの口利きで面接を受けに来た者。全員が試験を受け、全員が名前を壁に刻んだ。
右に、千羽鶴。二十本の糸に通された色とりどりの鶴が、壁から垂れ下がっている。朝の微風が工房に入り込み、鶴がかすかに揺れた。からからと、紙の翼が触れ合う音。千の翼が鳴らす音。風鈴とは違う。もっと軽く、もっと多く、もっと柔らかい。
名前と鶴。仕事と祈り。同じ壁に並んでいる。
隆志は作業台の前に立った。今日の作業予定を確認する。丸和物産の月次ロット三台。搬送車の定期点検一台。近隣からの持ち込み修理が二台。合計六台。サミュエルと新人二人で回す。隆志は午前中に搬送車の点検を担当し、午後はモンバサのキプチルチルとビデオ会議。夕方はナイロビ・ライオンズの練習を見に行く。日曜日に試合がある。
普通の一日だ。特別なことは何もない。五百億円の会社の共同経営者の朝は、工房の鍵を開けることから始まる。
作業服に着替えた。袖をまくった。手を見た。日焼けした手。指にタコがある。爪の間に油が染み込んでいる。この手が、三年前には朱印を押していた。部下の名前に丸を記し、自分の名前にも丸を記された手。その手が今、レンチを握り、ボルトを締め、ホワイトボードにマーカーで名前を書いている。
同じ手。違う仕事。同じ指。違う記録。
搬送車のボンネットを開けた。エンジンルームを覗き込む。オイルのレベル、冷却水、ベルトの状態、プラグの焼け具合。点検項目を一つずつ確認していく。三年前、最初の一台のカローラで同じことをした。あのときはプラグを研磨し、ワセリンで端子を磨いた。今は純正部品がある。工具も揃っている。だがやっていることの本質は変わらない。一台の車を、丁寧に、正確に、直す。
ブレーキパッドを確認した。残量は十分。だが念のため、パッドの表面を目視で確認する。偏摩耗がないか。ひび割れがないか。この車は命を運ぶ。ブレーキの状態が、人の生死を分ける。エリックの父を殺したのは、擦り減ったタイヤだった。ジョセフのいとこを殺したのは、壊れたブレーキだった。アシャの兄を殺したのは、整備されていない車だった。
この車のブレーキは、効く。隆志が確認したから。記録に名前を書くから。
点検を終え、チェックシートに記入した。日付。車両番号。点検項目。結果。担当者:Takashi Tanaka。
ペンを置いた。
工房の入口から、朝日が差し込んできた。赤土の大地が、オレンジ色に染まっていく。看板のSAKURA MOTORSの文字が、朝日を受けて金色に光った。みゆきが見た写真の色。五羽目の折り鶴の色。
ポケットに手を入れた。五羽の折り鶴が指先に触れた。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」「ありがとう」。三年間、一日も離さなかった五羽。紙は擦り切れ、色は褪せ、折り目が柔らかくなっている。だが形は残っている。鶴の形は崩れていない。みゆきが丁寧に折った角が、三年分の指の温もりで丸くなっている。
外から声が聞こえた。サミュエルの車のエンジン音。毎朝、隆志の次に来るのはサミュエルだ。その後にキプチルチルの代わりに入った新人が来て、オモンディが指導員として午後から来る。工房が動き始める。
サミュエルが入ってきた。
「早いな」
「お前がいつも早いから、負けたくない」
「競争じゃないだろう」
「競争だ。朝一番に来た者が、コンプレッサーのスイッチを入れる権利を持つ」
「そんなルールはない」
「今作った」
サミュエルは鼻を鳴らした。いつもの音。三年間で何百回と聞いた音。明日も聞く。明後日も聞く。この音が聞こえる限り、この工房は回る。
「今日の予定は」
「ロット三台と搬送車の点検と持ち込み二台。六台だ」
「六台か。忙しいな」
「忙しい方がいい。暇な工房は死んだ工房だ」
「お前、オモンディと同じことを言っているぞ」
「オモンディに教わった」
サミュエルは作業服に着替え、最初の一台のボンネットを開けた。隆志は搬送車の点検記録をファイルに綴じた。
工房が動き始めた。蛍光灯の白い光。コンプレッサーの低い音。レンチが金属に当たる音。油の匂い。赤土の匂い。朝日の光。
壁には名前が並び、千羽鶴が揺れている。
隆志は車の下に潜った。いつもの場所。いつもの姿勢。背中に赤土の冷たさを感じながら、ボルトに手を伸ばす。
トルクレンチを回した。カチン。規定値で鳴る。小さな音。正確な音。
風鈴の音に、似ている。
窓の外で、風が吹いていた。赤土の風。乾いて、強く、まっすぐな風。ナイロビから吹いて、カンパラへ、ダルエスサラームへ、モンバサへ。東アフリカを渡る風。
見えない風が、名前を運んでいる。
三十四人の名前と、千羽の鶴と、五羽の約束を。
どこまでも。




