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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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エピローグ 風が教えてくれたこと

 ナイロビの空は高かった。


 乾季の午後。雲は少なく、太陽が市営グラウンドの芝を白く照らしている。スタンドのコンクリートは熱を吸って温かい。


 グラウンドの入口に横断幕が掛かっている。赤と黒の布地に白い文字。「SAKURA MOTORS FC — INAUGURAL MATCH」。設立記念試合。ナイロビ・ライオンズは、今日からサクラモーターズFCに名前を変えた。


 スタンドには千人を超える観客が座っている。一年前の三百人が、三倍以上に増えた。地元の家族連れ、工房の関係者、丸和物産の東アフリカ事務所のスタッフ、JICAの職員、保健局のカマウ博士。早瀬亮太がカメラを肩にかけ、スタンドの最上段から全景を撮っている。


 ベンチの最前列に、車椅子が一台置かれている。


 みゆきが座っている。十歳。顔色は良い。頬にふっくらとした丸みがあり、唇に色がある。膝の上に折り鶴を一羽持っている。赤い鶴。今朝折ったものだ。千一羽目。千羽鶴が完成した後も、みゆきは折ることをやめなかった。


 その隣に智子が座っている。短い髪に日焼け止めだけの顔。カーゴパンツにスニーカー。三ヶ月前にケニアに来てから、化粧をしなくなった。必要がないからだ。隣にいる女性——アイリーンと何かを話している。二人の間に言葉は少ないが、目配せだけで通じ合っている。


 スタンドの中段に、ムワンギ議員が座っている。隣に妻。その隣に空席が一つ。息子のキプチルチルは今日、ベンチにいない。モンバサの拠点で仕事がある。だが朝、電話をかけてきた。「試合の結果、教えてください。ジェームズのゴール、見たかったな」。ムワンギは息子の声を聞いて、何も言わずに頷いた。電話越しの頷きは伝わらない。だが伝わらなくてもよかった。


 スタンドの端に、オモンディが座っている。隣に妻のワンジル。オモンディの左手はポケットに入ったままだ。右手で紙コップのチャイを持っている。甘いチャイ。ワンジルが買ってきたものだ。オモンディは黙ってピッチを見ている。十五年間、車を直し続けた目が、今日はサッカーを見ている。


 ベンチの横に、ダニエルがいる。サミュエルの息子。十一歳。ジュニアチームのゴールキーパー。今日は試合には出ないが、ユニフォームを着ている。赤と黒のストライプ。胸にSAKURA MOTORS FCのロゴ。背番号は1。ゴールキーパーの番号だ。足が長く、手が大きい。父親に似てきた。


 ピッチの上に、二十二人の選手がウォーミングアップをしている。赤と黒のユニフォーム。新しいデザイン。胸のロゴの横に、小さな桜の花が一輪刺繍されている。エリックがデザインを提案し、ナイロビの縫製工場が作った。


 背番号7がストレッチをしている。ジェームズ・ムトゥア。十五歳。一年前より背が伸び、肩幅が広くなった。スパイクの紐を結び直す手つきに、迷いがない。右足の小指に、古い傷痕が残っている。裸足で赤土を蹴っていた頃の傷。もう痛まないが、消えてはいない。


 ポケットに手を入れた。白い折り鶴が入っている。みゆきからもらった鶴。一年間、毎試合ポケットに入れてきた。紙は擦り切れ、羽の角が丸くなっている。だが形は残っている。


 ピッチサイドに、アシャが立っている。コーチ。短く刈り込んだ髪。日焼けした腕にホイッスルを巻いている。選手に何か指示を出し、手を叩いた。選手たちがフォーメーションの確認に入る。アシャの目が一瞬、ベンチの横に置かれた花束を見た。白い花。兄のジョセフ・ワンジクの写真が立てかけてある。背番号7のユニフォームと一緒に。今日の試合は、兄に捧げる試合でもある。


 グラウンドの外、駐車場に白いハイエースが停まっている。搬送車。サクラモーターズのロゴが側面に描かれている。今日は試合のためにここにいるが、電話が鳴ればいつでも出動できるように、エンジンの点検は朝済ませてある。


 その横に、もう一台。古いランドクルーザー。サミュエルの車。三年前、空港に隆志を迎えに行った車。塗装は相変わらず剥げ、ボディに擦り傷がある。だがエンジン音は安定している。整備はされている。いつも。


 スタンドの裏手に、一人の男が立っている。


 黒田誠。サクラモーターズ・モンバサ拠点の検品担当。今日は休みを取ってナイロビに来た。スタンドには入らず、フェンスの外からピッチを見ている。手にはビニール袋。中身はチャパティと焼きトウモロコシ。屋台で買ったものだ。日焼けした肌は、刑務所にいた頃の蒼白さが消え、モンバサの太陽の色に戻っている。


 フェンスの向こうで、赤と黒のユニフォームが走っている。胸にSAKURA MOTORSのロゴ。黒田はそのロゴを見つめた。何かを言いかけて、やめた。チャパティをちぎって口に入れた。


 キックオフの時刻が近づいている。


 ピッチの中央に、二人の男が立っている。


 田中隆志。四十三歳。サクラモーターズ共同経営者。作業服ではなく、今日は白いシャツにチノパンを着ている。智子が「たまにはきれいな格好をしなさい」と言ったからだ。だが靴はスニーカーだ。赤土の上を歩ける靴。


 サミュエル・オティエノ。共同経営者。アイロンのかかったシャツ。家族の前では身なりを整える男。大きな手を腰に当て、スタンドを見回している。千人の観客。一年前は百人だった。その前はゼロだった。


 二人は並んで立っている。何も話していない。話す必要がない。三年間で交わした言葉の総量は多くないが、交わさなかった言葉の重さは、それ以上だ。


 審判がホイッスルを口に当てた。


 隆志とサミュエルがピッチの外に出た。ベンチに向かう途中、隆志はみゆきの横を通った。みゆきが手を伸ばした。赤い折り鶴を差し出している。千一羽目。


「パパ。これ、今日の分」


 隆志は受け取った。ポケットに入れた。五羽の古い鶴の隣に、一羽の新しい鶴が加わった。六羽。


 ホイッスルが鳴った。


 試合が始まった。


 赤と黒のユニフォームが、緑の芝の上を走っている。背番号7が左サイドに開き、ボールを受ける。切り返し。パス。走る。また受ける。仲間に渡す。走る。


 スタンドから歓声が上がった。千人の声が、ナイロビの空に吸い込まれていく。


 風が吹いた。


 乾いた、強い風。赤土の大地から吹き上がり、グラウンドを横切り、スタンドの上を通り、空に昇っていく。


 風がSAKURA MOTORS FCの横断幕を揺らした。千羽鶴を揺らした。みゆきの髪を揺らした。智子のシャツの裾を揺らした。オモンディの右手の紙コップを揺らした。アシャのホイッスルの紐を揺らした。フェンスの外の黒田のビニール袋を揺らした。


 見えない風が、すべてを揺らしている。


 見えない風が、すべてを運んでいる。


 名前を。命を。夢を。祈りを。


 五百億の風が、赤土の大地を渡っていく。

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