38話 お前がいなくても
その夜、工房の前には椅子が二つだけ出ていた。
ビールが二本。ケニアの安い缶ビール。サミュエルがいつも買う銘柄。隆志はもうこの苦さに慣れていた。三年前に初めて飲んだときは顔をしかめたが、今はこれ以外のビールを旨いと思わない。
星が出ていた。乾季の夜空。ナイロビの郊外は光害が少なく、天の川が肉眼で見える。三年前の最初の夜にも、同じ空を見上げた。あの夜は一人だった。今は隣にサミュエルがいる。
「話があると言ったな」
サミュエルが缶を開けた。プシュッと音がして、泡が指を濡らした。
「ああ」
「改まって呼ぶなんて珍しい。悪い話か」
「悪い話じゃない。と思う」
「思う、か。はっきりしない男だな」
隆志は鞄から封筒を取り出した。白い封筒。三年前、智子に見せた退職通知の封筒と同じ色だった。だが中身は違う。
「これは」
「共同経営権の譲渡契約書だ。サクラモーターズの経営権を、俺とお前の五十対五十にする。正式な法的書類だ。ナイロビの弁護士に頼んで作った」
サミュエルは缶を膝に置いた。封筒を見つめたが、受け取らなかった。
「……なぜだ」
「なぜ、とは」
「なぜ五十対五十だ。お前が作った会社だろう。お前が金を持ってきて、お前が仕組みを作って、お前が商社との契約を取ってきた。俺は車を直しただけだ」
「車を直しただけ、か」
「そうだ」
「サミュエル。お前がいなかったら、サクラモーターズは存在しない」
「お前がいなくても、だろう」
「違う。俺がいなくても工房はあった。お前が十七年間守ってきた工房だ。俺はそこに来ただけだ。看板を変え、仕組みを足しただけだ。土台はお前が作った」
サミュエルは黙った。ビールを一口飲んだ。
「土台、か」
「ああ。お前が二十歳のオモンディを雇い、十年かけて育てた。お前が工具を集め、壁を塗り、コンプレッサーを買った。お前がなければ、俺がプラグを研磨する場所がなかった。最初の一台のカローラも、お前が持ち込んだ客だ」
「ジョセフの親戚のキマニだ。あれは俺の手柄じゃない」
「キマニがお前の工房に来たのは、お前を信頼していたからだ。十年間、誠実に車を直してきた男を信頼していたからだ。その信頼は俺のものじゃない。お前のものだ」
長い沈黙があった。虫の声。遠くでラジオが鳴っている。隣の集落の誰かが、深夜まで音楽を流している。
「五十対五十は多すぎる。三十で十分だ」
「三十じゃ駄目だ。対等じゃなければ意味がない。俺が六十でお前が四十なら、最終決定権は俺にある。それでは、お前の工房じゃなくなる」
「俺の工房じゃない。サクラモーターズだ。お前が——」
「サクラの名前をつけたのは誰だ」
サミュエルが口を閉じた。
「SAKURA MOTORS。桜。日本の花。あの看板を描いたのは誰だ」
「……俺だ」
「俺が日本に帰っている間に、お前が壁を塗り直し、看板を掛けた。名前を選んだのもお前だ。俺に相談もせずに。あのとき、お前はこの工房を自分のものだと思っていた。自分とタカシの工房だと。だから日本の名前を入れた。違うか」
サミュエルはビールを飲んだ。長い一口だった。
「違わない」
「だったら五十対五十だ。この工房は最初からお前と俺のものだ。書類が追いついていなかっただけだ」
「書類か」
「そうだ。書類は現実の後から来る。俺たちの関係は三年前からずっと五十対五十だった。お前が車を直し、俺が仕事を取る。お前が品質を守り、俺が数字を見る。どっちが欠けても回らない。それを書類にするだけだ」
サミュエルは封筒を手に取った。中の書類を引き出し、星明かりの下で読んだ。法的な文言が並んでいる。英語とスワヒリ語の二言語併記。隆志がケニアの商習慣を調べ、弁護士と何度もやり取りして作った書類だった。
「署名欄が二つある」
「俺はもう署名した。お前の欄が空白だ」
「ペンは」
隆志はポケットからボールペンを出した。三年前、会議室で朱印を押したのと同じ右手で、今度はパートナーにペンを渡す。
サミュエルはペンを受け取った。だがすぐには書かなかった。
「一つ聞いていいか」
「何だ」
「お前の娘。みゆきだったか。あの子の千羽鶴、壁に飾ってある」
「ああ」
「あの鶴の五羽目。金色のやつ。あれに何て書いてあった」
「ありがとう」
「ありがとう、か」
「ああ。みゆきがケニアに来たときに渡してくれた」
サミュエルはペンを指先で回した。
「俺は、ありがとうと言ったことがなかったな」
「何の話だ」
「お前に。三年間、一度も言っていない。『理があるかもしれない』と言った。『正しかった』と言った。『馬鹿だ』と言った。だが、ありがとうは言っていない」
隆志は笑った。
「言わなくていい。お前のありがとうは、壁の看板だ。SAKURA MOTORSの看板を掛けたこと自体が、お前のありがとうだ」
「そう解釈するのか」
「そう解釈する」
「勝手な男だな」
「お前もだ」
サミュエルは鼻を鳴らした。三年間で何百回と聞いた音。呆れと信頼が半々の音。だが今夜の音は、少しだけ柔らかかった。
ペンが紙の上を走った。Samuel Otieno。サミュエルの署名は大きく、力強かった。インクが紙に深く染み込んでいる。
「書いたぞ」
「ありがとう」
「お前が言うのか」
「俺のありがとうは言葉で言う。お前と違って不器用だから」
「お前が不器用? 冗談だろう。日本からケニアまで来て、品質がどうとか名前がどうとか、面倒な理屈をこねくり回す男が不器用なものか」
「理屈をこねるのは器用さじゃない。本当に器用な人間は、お前みたいに黙って壁に看板を掛ける」
サミュエルは封筒を胸ポケットにしまった。ビールの残りを飲み干し、空の缶を指で弾いた。カンと小さな音が鳴った。
「これからどうする」
「何が」
「五百億を超えた。商社との契約も安定している。搬送事業は政府が引き継ぎたいと言い始めている。サッカークラブはリーグ三位。お前の目標は達成した。帰るのか」
「帰る、とは」
「日本にだ。娘がいる。妻がいる。お前の家族は東京にいる」
隆志は缶を膝の上で回した。空のアルミが、指の下で軽い音を立てる。
「智子と話した。みゆきのことも」
「何と言っていた」
「みゆきは来たがっている。ケニアに。アフリカで医者になりたいと言っている」
「十歳の夢だろう」
「十歳の夢だ。だが、智子も——」
「智子も?」
「来てもいいと。ケニアに。みゆきの定期検診はナイロビの病院でも受けられる。調べた。智子は薬局の経験がある。ケニアの医療現場でも使えるスキルだ」
サミュエルは黙った。
「家族を呼ぶのか」
「まだ決まっていない。だが、選択肢として考えている。東京とナイロビを行き来する生活を続けるか、家族でケニアに住むか」
「この国は簡単じゃないぞ。お前は知っている。石を投げられた。炎上した。コロナで食事を一日一食にした。子どもを連れてくる場所か」
「簡単じゃないことは分かっている。だからこそ、一人で決めない。智子と話して、みゆきと話して、決める」
「お前はいつも正しい手順を踏むな」
「手順を踏むのは品質管理の基本だ」
「人生に品質管理を適用するな。気持ち悪い」
二人とも笑った。
「田中」
「何だ」
「名前で呼ぶのは、これが初めてかもしれないな。いつもタカシと呼んでいた」
「タカシでいい」
「いや。今日は田中と呼ぶ。田中隆志。サクラモーターズの共同経営者。対等なパートナー。それを書類で確認した夜だ。フルネームで呼ぶのが筋だろう」
「堅いな」
「堅い男だ。お前と同じでな」
二人とも笑った。赤土の上に椅子を並べ、空の缶を手に持ち、星を見上げて笑っている。四十三歳の日本人と、四十代半ばのケニア人。三年前、空港で初めて会ったときは、握手すら硬かった。「乗れ」の一言で始まった関係が、今夜、法的な対等に至った。
「もう一本飲むか」
「いや。明日も朝が早い。車がある」
「車があるから帰るのか」
「車があるから、明日も来る。お前もだろう」
「ああ。俺もだ」
サミュエルが立ち上がった。椅子を工房の中に運び、シャッターに手をかけた。
「タカシ」
「フルネームはやめたのか」
「一回で十分だ。毎回呼んだら安っぽくなる」
「何だ」
「お前がいなくても回る工房を作れ、と俺は言った。前に」
「ああ。言った」
「お前がいなくても回る。だが、お前がいる方がいい。それだけだ」
サミュエルはシャッターを閉め、鍵をかけた。背中を向けたまま、手を上げた。振り返らなかった。暗闇の中を、自分の家に向かって歩いていった。
隆志は椅子に座ったまま、空を見上げていた。
星が多い。三年前と同じ数の星が、同じ位置で光っている。だが今夜の星は、三年前より近く見えた。
ポケットの中で、五羽の折り鶴が静かに眠っていた。




