37話 五百億の風
数字は、ある日突然やってくる。
五百億円は、会議室で発表されたわけではない。シャンパンが開けられたわけでもない。四月の月次報告を、隆志が工房の事務所でスプレッドシートに入力しているとき、年間売上予測の行が更新された。
五百二億四千万円。
画面の数字を、隆志は二度読み直した。三度目に電卓を叩いた。合っていた。ナイロビ、カンパラ、ダルエスサラーム、モンバサ。四拠点の月間売上を十二倍した数字。そこに丸和物産との提携による整備委託収入と、各国政府の搬送事業補助金を加算した額。
五百億。
三年前、ケニアに来たとき、サミュエルの工房の月間売上は二十万シリング——日本円で二十万円だった。年間で二百四十万円。そこから始まった数字が、五百億円に届いた。
隆志はスプレッドシートを閉じ、椅子の背にもたれた。天井を見上げた。蛍光灯が白く光っている。その白さが、三年前の日本の会議室の蛍光灯と重なった。あの日、換気口から冷たい風が落ちてきて、合理化対象者名簿の紙をめくった。あの部屋の蛍光灯も、同じ白さだった。
あの日の数字は、人を消すための数字だった。
今日の数字は——。
隆志は立ち上がり、工房に出た。ホワイトボードの前に立った。
*
名前が並んでいる。
ナイロビ本社。
Samuel Otieno——共同創業者。十七年間、この場所で車を直してきた男。最初は隆志を信じなかった。「日本人はよく来る。金を稼いで帰る」と言った。だが今、サクラモーターズの名前を自分の工房に刻んだ男。
James Omondi——元整備士、現指導員。十五年間の手が、左手の関節リウマチで止まった。だが目は止まっていない。週に三日、新人の作業を見守り、間違いを正す。「レンチの持ち方、違う。こうだ」。その一言が、次の世代を育てている。
Kipchirchir Mwangi——元議員の息子。ジャッキの使い方も知らなかった二十歳が、モンバサ拠点の責任者になった。品質シールを考案し、港湾の関係者と交渉し、月に三百台の検品を監督する。手には油の染みが消えない。
Takashi Tanaka——元営業部長。百七社に落ちた四十歳が、赤土の国で車の下に潜った。プラグを研磨し、ワセリンで端子を磨き、トルクレンチのカチンという音に風鈴を聞いた男。
そして、もう一つの名前が最近加わった。
Makoto Kuroda。
黒田は、二月にサクラモーターズのモンバサ拠点に入社していた。「考えさせてくれ」と言って二ヶ月。港の安宿で求人欄に赤ペンを入れ続けた末に、キプチルチルの事務所に現れた。「条件は何だ」とは聞かなかった。「いつから来ればいい」とだけ言った。
検品担当。入港した車両の状態を一台ずつ確認し、整備の優先順位を決める。どの車が危険か、黒田が一番よく知っている。かつて事故車を流したスキルが、今は事故車を止めるスキルになっている。
ホワイトボードのモンバサ欄に、「Makoto Kuroda」の文字がある。キプチルチルの字で書かれている。
カンパラ拠点。
Eric Odhiambo——品質管理責任者。十二歳で父を失った少年が、二十一歳で拠点を率いている。タイヤの破片を握りしめた手が、今はスプレッドシートのキーボードを叩いている。ムセベニのチームを一ヶ月で立て直し、カンパラの整備記録の欠損率をゼロにした。
整備士八名。全員の名前がホワイトボードに並んでいる。エリックが赴任初日に壁に掛けたボード。ナイロビから持ってきたマーカーで、最初に自分の名前を書いた。
ダルエスサラーム拠点。
整備士六名。JICA支援で開設された搬送車両整備の中核拠点。現地のリーダーはアモス・カジャラ。元タクシー運転手。五年間ナイロビとダルエスサラームを往復していた男が、整備士に転身した。「運転する側から直す側になった。どちらも車を動かす仕事だ」と言った。
モンバサ拠点。
整備士七名+検品担当一名。港湾に最も近い拠点。入港した車両が最初に触れるサクラモーターズの手。キプチルチルが立ち上げ、黒田が検品を担い、ジョセフ・ムトゥリが品質シールを一枚ずつ貼っている。かつて黒田の下で偽造書類を作っていた手が、今は品質を証明するシールを貼っている。
四拠点。合計三十四名の整備士。三十四の名前が、四枚のホワイトボードに刻まれている。
*
数字を並べる。
三年間の搬送件数:千二百四十七件。そのうち、搬送がなければ死亡または重篤化のリスクがあったケース:九百三十一件。
三年間の整備台数:一万四千八百六十二台。すべてにサクラスタンダードの整備記録が付いている。整備士の名前が記録されている。
品質シールの発行枚数:六千三百四十一枚。モンバサ港を通過した車両のうち、サクラモーターズの整備を受けた車両に貼られたシール。一枚一枚に通し番号が振られ、データベースに記録されている。
丸和物産を通じた輸出車両の事故率:サクラスタンダード適用前の年間平均と比較して、七十三パーセント減少。
ナイロビ・ライオンズの成績:リーグ三位。来季の一部昇格が見えている。ジェームズ・ムトゥアがリーグ得点王。十五歳。
*
数字の向こうに、声がある。
ウガンダ・カンパラの診療所の医師から届いた手紙。〈搬送車が来る前は、重症患者を首都の病院まで運ぶ手段がなかった。バイクの後ろに乗せるか、リヤカーに寝かせて引くか。搬送車が来てから、この地域の妊産婦死亡率が四割減った。車が命を救っている。その車を整備してくれている人たちに、感謝しかない〉
タンザニア・ダルエスサラームのスクールバスの運転手。〈以前はブレーキを踏むたびに祈っていた。効くかどうか分からなかったから。サクラモーターズの整備を受けてからは、祈らなくなった。ブレーキが効くと分かっているから。子どもたちを乗せて走るのが、怖くなくなった〉
モンバサ港の仲介業者。〈緑のシールが付いた車は、値段が高くても売れる。客が「サクラのシールはあるか」と聞いてくるようになった。品質が信用になっている。黒田の時代には考えられなかったことだ〉
ナイロビの主婦。搬送車で娘を病院に運んだ女性。〈あの夜、電話したら十五分で車が来た。娘はマラリアで意識がなかった。車の中で、若い整備士の男の子が娘の手を握ってくれていた。病院に着いたとき、男の子が「間に合いましたよ」と言った。あの言葉を、一生忘れない〉
若い整備士の男の子。それはエリックだ。あるいはエリックが育てた誰かだ。名前は分からない。だが、車の中で子どもの手を握った手は、サクラスタンダードで整備された車のハンドルを握っていた手だ。名前は記録に残っている。どこかのホワイトボードに。
数字は風だ。
三年前にサミュエルとビールを飲みながら言った言葉。数字自体に意味はない。その数字で何をするかに意味がある。
五百億円。この数字の裏に、千二百四十七回の搬送がある。一万四千八百六十二台の整備がある。三十四人の名前がある。六千三百四十一枚のシールがある。そして千羽の折り鶴がある。
数字は風だ。帆を張るのは人だ。帆を張った船を押すのは、風だ。人と風が揃って、初めて船は進む。
隆志は工房に戻った。午後の整備が待っている。丸和物産の月次ロット。三台。ブレーキ、エンジン、電装系。一台に三日。
作業服の袖をまくった。手を見た。三年前より日焼けしている。指にタコがある。爪の間に油が染み込んでいる。百七社の面接に行っていたときの手とは別物だった。あの頃の手は白く、柔らかく、ボールペンと名刺しか握っていなかった。今の手は、レンチとプラグとボルトを握っている。
車の下に潜った。
五百億円の経営者が、赤土の工房の床に寝転がっている。油が垂れてくる。作業服の胸に黒い染みが広がる。頬にも油が飛んだ。
ボルトを握り、レンチを回す。カチン。トルクレンチが規定値で鳴る。正確な音。小さいが、確かな音。
隆志はその音を聞きながら、次のボルトに手を伸ばした。
五百億は通過点だ。だが、通過点にも名前がある。ホワイトボードに書かれた三十四の名前。壁に飾られた千羽の鶴。ポケットの中の五羽の鶴。
すべてが、この工房の壁に刻まれている。
窓の外で、風が吹いていた。赤土の風。三年前と同じ風。だが、この風が運ぶものは変わった。かつては埃と排気ガスだけを運んでいた風が、今は三十四の名前と、千二百四十七の命と、一万四千八百六十二台の車を運んでいる。
五百億の風。
それは、数字ではない。数字の向こう側にある、すべての名前の重さだ。




