36話 千羽
段ボール箱が届いたのは、三月の終わりだった。
国際郵便。差出人は「田中みゆき」。宛先は「SAKURA MOTORS, Nairobi, Kenya」。箱は大きくはないが、やけに軽かった。中に何が入っているか、隆志には分かっていた。
工房の事務所で箱を開けた。
折り鶴が入っていた。
千羽。
赤、青、黄、緑、白、金、銀、桃、橙、紫。あらゆる色の折り鶴が、糸に通されて束になっている。五十羽ずつ二十本の糸。箱の中で折り鶴たちが押し合い、色が混ざり合って、小さな虹のように見えた。
箱の底に、手紙が入っていた。便箋二枚。みゆきの字だった。二年前に「げんき」と書いた幼い字が、少し大きく、少し整っていた。十歳の字。
*
パパへ
千羽鶴、できました。
最初の一羽を折ったのは、パパがアフリカに行った日の朝でした。赤い折り紙で「げんき」って書いた鶴。あの日からずっと、毎日一羽ずつ折りました。
雨の日も、病院の日も、学校を休んだ日も、手術の前の日も。手術の後、指がうまく動かなかったとき、二日間だけ折れなかった。でも三日目から、また折りました。角がちょっとずれてるやつが何羽かあるけど、それはそのときの鶴だから、直さなかった。
ママが数えてくれました。何回も数え直して、千羽あるって確認してくれました。ママは数えるとき、一羽ずつ手に取って見てた。たまに止まって、じっと見てる鶴があった。たぶん、パパが持っていった四羽と似てる色の鶴を見つけたんだと思う。ママは何も言わなかったけど。
千羽鶴は願いを叶えるって言うけど、わたしの願いはもう半分叶いました。パパが前に言ってた。「半分叶った。残り半分はもう少しかかる」って。
パパの残り半分の願いが何か、わたしは知らないけど、千羽鶴を送るから、叶うといいなと思います。
ホワイトボードの横に飾るって約束したから、送ります。パパの工房の壁に、名前と一緒に並ぶ千羽鶴。想像するだけで嬉しいです。
あと、パパにお願いがあります。
わたし、将来のことを考えました。学校で「将来の夢」を書く宿題が出て、みんなは「サッカー選手」とか「ユーチューバー」とか「パティシエ」とか書いてた。わたしは迷いました。
前は何も思いつかなかった。病気だから、将来のことを考えるのが怖かった。手術の前は、大人になれるかどうかも分からなかった。だから「将来の夢」って聞かれると、何も書けなかった。白紙で出したこともある。先生は何も言わなかった。たぶん、分かってくれてたんだと思う。
でも今は違います。手術が終わって、体が前より楽になって、走れるようになった。前はできなかったことができるようになった。それがすごく嬉しい。
パパがアフリカで車を直してるのは、車が人を運ぶからだよね。病気の人を病院に運ぶ車。ブレーキが壊れてたら人が死んじゃう。だからパパは、ちゃんとした車を作ってる。
わたしも、人を助ける仕事がしたいと思いました。
車じゃなくて、体を直す仕事。お医者さん。
パパが車のお医者さんなら、わたしは人のお医者さんになりたい。
それも、アフリカで。
パパの工房の近くに病院があるんでしょう? 搬送車で運ばれてくる人がいるんでしょう? その人たちを助けるお医者さんになりたい。パパが車を直して、わたしが人を治す。そしたら、両方からちゃんと助けられる。
先生に見せたら、「すごい夢だね」って言ってくれました。でも「すごい」っていうのは、「難しい」っていう意味もあるって分かってます。お医者さんになるのは大変です。勉強しないといけない。大学に行かないといけない。体も強くないといけない。
全部、今のわたしには足りないものです。でも、足りないものは、一つずつ足していけばいいと思います。千羽鶴と同じです。一羽ずつ折っていったら、千羽になった。一つずつやっていったら、お医者さんになれるかもしれない。なれないかもしれない。でも、折り始めなかったら、千羽にはならなかった。
パパ、わたしは折り始めます。
みゆきより
*
隆志は手紙を読み終えた。
便箋を持つ手が震えていた。文字が滲んでいるのは、みゆきのペンのインクが薄いからではなかった。自分の目が濡れているからだった。
事務所の椅子に座ったまま、しばらく動けなかった。手紙を膝の上に置き、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目を刺す。
千羽鶴。赤い「げんき」の一羽目から、千羽目まで。みゆきは毎日折った。手術の前も、手術の後も。指が動かなかった二日間以外は、一日も欠かさなかった。角がずれている鶴は直さなかった。そのときの自分を、そのまま残した。十歳の子どもが、自分の弱さを記録として受け入れている。
アフリカで医者になりたい。
車のお医者さんの娘が、人のお医者さんになりたいと言っている。パパが車を直して、わたしが人を治す。そしたら両方からちゃんと助けられる。この発想は、大人には出てこない。大人は「現実的か」「費用は」「体力は」と考える。十歳のみゆきは「両方から助けられる」と言う。単純で、真っ直ぐで、だからこそ動かしがたい。
「足りないものは一つずつ足していけばいい。千羽鶴と同じです」。
隆志は笑った。泣きながら笑った。工房の事務所で、四十三歳の男が手紙を膝に載せて泣き笑いしている。
サミュエルが事務所に入ってきた。隆志の顔を見て立ち止まった。
「どうした。誰か死んだのか」
「逆だ。誰かが生まれた」
「何の話だ」
隆志は段ボール箱を見せた。千羽鶴。色とりどりの鶴が、糸に通されて揺れている。
「みゆきが折った。千羽。全部」
サミュエルは箱を覗き込んだ。大きな手で、一羽をそっと摘んだ。黄色い鶴だった。羽が薄く、今にも破れそうだった。
「これを、全部一人で折ったのか」
「毎日一羽ずつ。三年弱かかった」
「三年」
サミュエルは鶴を箱に戻した。
「お前の娘は、お前より根気がある」
「知ってる」
「ホワイトボードの横に飾るんだろう」
「みゆきとの約束だ」
サミュエルは工房に戻り、壁を見た。ホワイトボードの横。名前が並んでいる空間の右側に、釘を二本打った。糸を渡し、千羽鶴の束を一つずつ吊るしていく。二十本の糸が壁に並ぶと、色とりどりの鶴が整備記録の横でゆらゆらと揺れた。
工房の入口から風が入った。赤土の乾いた風が千羽鶴を揺らし、紙のかすかな音が響いた。からからと、軽い音。風鈴とは違う。もっと小さく、もっと多い。千の翼が風を受けて鳴っている。
エリックがカンパラからビデオ通話をかけてきた。壁の千羽鶴を画面で見て、黙った。数秒後、「きれいですね」とだけ言った。
キプチルチルがモンバサから電話してきた。「ホワイトボードの写真を送ってください。うちの拠点にも飾りたい」と言った。千羽鶴はないが、壁に色紙を貼ることはできる。各拠点が、それぞれの形で壁を飾り始めるかもしれない。
オモンディが指導員として午後から来た。左手はポケットに入ったまま、右手で壁の鶴を一羽触った。何も言わなかった。いつも通り。だが触れた右手が、ゆっくりと離れた。壊さないように。
夜、隆志は智子に電話した。
「届いた。千羽鶴。手紙も読んだ」
「そう」
「みゆきが、医者になりたいと書いてあった。アフリカで」
「うん。宿題に書いたとき、先生が驚いてた。私も驚いた」
「智子は、どう思う」
電話の向こうで、智子が少し間を置いた。
「十歳の夢でしょ。変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも——」
「でも?」
「あの子が初めて『将来の夢』を書けたのよ。白紙じゃなく。それだけで、十分じゃない」
隆志は目を閉じた。
白紙の折り鶴を思い出した。四羽目の鶴。「パパが決めて」とみゆきが言った。隆志は「いのち」と書いた。白紙だった紙に、言葉が入った。
みゆきの「将来の夢」も同じだ。白紙だった欄に、初めて言葉が入った。「アフリカでお医者さんになりたい」。叶うかどうかは分からない。だが白紙ではなくなった。
千羽鶴が壁で揺れている。名前が並ぶホワイトボードの横で、千の翼が風を受けている。名前と願い。仕事と祈り。同じ壁に並んでいる。
みゆきが約束した通りに。




