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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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35/41

35話 季節

【雨季——四月】


 ナイロビに雨が降った。


 赤土が水を吸い、道は泥の川になった。搬送の出動が増えた。雨季は事故が増える。視界が悪く、道が滑り、タイヤが泥に取られる。サクラモーターズの搬送車は、月に三十件を超える出動をこなした。ナイロビだけではない。カンパラでもダルエスサラームでもモンバサでも、搬送車が雨の中を走った。


 エリックからの報告。〈カンパラで搬送中にスタックしました。泥が深くて車輪が半分埋まった。ムセベニと二人で押して脱出。患者は間に合いました。ムセベニが「あのナイロビの連中と同じことをしている」と笑っていました〉


 あのナイロビの連中。第一回の搬送で泥にはまったとき、隆志とエリックが押したことを、ムセベニは聞いて知っていた。同じ泥を、違う場所で、違う人間が押している。物語が伝染している。



【乾季——七月】


 ナイロビ・ライオンズのリーグ戦第十二節。相手はナクル・ウォリアーズ。リーグ四位。ライオンズは八勝三敗で五位につけていた。前半戦の大敗が嘘のような成績だった。


 試合はナイロビの市営グラウンドで行われた。スタンドに三百人ほどの観客。半年前の百人から三倍に増えていた。サクラモーターズのロゴが入った横断幕を、工房の若手整備士たちが持っている。ダニエルもその中にいた。サミュエルの息子。十一歳になり、背がぐんと伸びた。ジュニアチームでゴールキーパーをやっている。


 前半、ライオンズが押した。ジェームズの動きが変わっていた。個人で突破するのではなく、仲間を使い、スペースを作り、自分が走り込む。半年間の試合経験が、十五歳の少年を別の選手に変えていた。


 後半二十五分。左サイドからの攻撃。サイモンがクロスを上げた。ジェームズがゴール前に走り込んだ。ディフェンダーの間をすり抜け、ヘディングでボールを叩きつけた。


 ネットが揺れた。


 1-0。


 スタンドが爆発した。三百人が同時に立ち上がり、赤と黒の旗を振った。ジェームズは仲間に抱きつかれながら、スタンドに向かって走った。ユニフォームのポケットに手を入れ、何かを取り出した。白い折り鶴。みゆきからもらった鶴。半年間、毎試合ポケットに入れていた。


 ジェームズは折り鶴を高く掲げた。白い鶴が、ナイロビの空に輝いた。


 試合は1-0で終わった。ライオンズのリーグ初のトップ4入りが確定した。


 隆志は携帯でみゆきにメッセージを送った。写真付き。ジェームズが折り鶴を掲げている写真。


 返信はすぐ来た。


〈泣いちゃった。嬉しい〉



【雨季の終わり——十一月】


 モンバサ港に、一人の日本人が降り立った。


 痩せていた。髪が伸び、顎に無精ひげがある。日焼けは褪せ、肌は獄中の蒼白さを残していた。手荷物は紙袋一つだけ。空港ではなく港に着いたのは、ナイロビへの航空券を買う金がなかったからだ。貨物船に便乗して、東京からモンバサまで来た。


 黒田誠。二年半の刑期を終えて、出所した。


 港のゲートを出ると、潮風が顔に当たった。二年半前と同じ風。排気ガスと塩と、魚の匂い。ここは自分の庭だった。港湾の作業員も、仲介業者も、食堂の店主も、みんな顔見知りだった。だが今、誰も声をかけてこない。逮捕のニュースは広まっている。かつての取引先は、黒田の顔を見て目を逸らした。


 港の一角に、見慣れない建物があった。新しいコンクリートの工場。壁にペンキで書かれた文字。「SAKURA MOTORS — Mombasa Branch」。


 黒田は立ち止まった。


 工場の前には、整備済みの車が十台ほど並んでいた。フロントガラスに、緑色のシールが貼られている。通し番号と日付。サクラモーターズの整備証明シール。二年半前にはなかったものだ。


「黒田さん?」


 声がした。振り返ると、若い男が立っていた。二十代前半。作業服を着ている。胸に「SAKURA MOTORS」のロゴ。


「……誰だ」


「キプチルチル・ムワンギです。この拠点の責任者です」


「ムワンギ? あの議員の息子か」


「はい。でも、ここでは整備士です」


 キプチルチルは黒田に手を差し出した。黒田は一瞬戸惑い、握った。油の染みた手。議員の息子の手が、整備士の手になっている。


「田中さんに連絡しますか」


「……いや。いい」


 黒田は港の方を見た。コンテナ船が接岸している。クレーンが車を降ろしている。二年半前と同じ光景。だが車の行き先が変わっていた。かつては黒田の倉庫に運ばれた車が、今はサクラモーターズの工場に入っていく。


「一杯、飲めるところはあるか」


「港の食堂が前と変わらずやってますよ」


「そうか」


 黒田は歩き出した。キプチルチルは追わなかった。ただ、黒田の背中を見ていた。痩せた背中。二年半前にタバコの煙を吐きながら「正しいことをやると遅くなる」と言った男の背中が、港の雑踏に消えていった。



【乾季——翌年一月】


 隆志がモンバサを訪れたのは、黒田が出所した二ヶ月後だった。


 キプチルチルから報告は受けていた。「黒田さんがモンバサにいます。港の近くの安宿に泊まっているようです。何をしているかは分かりません」。


 港の食堂で黒田を見つけた。奥の席に座り、チャイを飲んでいた。テーブルの上に新聞が広げてある。求人欄に赤ペンでチェックが入っていた。


「久しぶりだな」


 隆志が向かいに座った。黒田は顔を上げた。


「……田中さんか。元気そうだな」


「お前の方は、痩せたな」


「刑務所の飯は不味い。どこの国でも同じだ」


 二人の間に、チャイの湯気が立ち上っていた。


「仕事を探しているのか」


「まあな。だが、前科者を雇うところはそうない。この国でも日本でも同じだ」


「刑務所では何をしていた」


「本を読んでいた。ケニアの刑務所は退屈だ。テレビもない。英語の小説を片っ端から読んだ。あと、中の整備工場で車を直していた」


「車を直していたのか」


「刑務所にも車はある。送迎バスや作業車。整備する人間がいなかった。俺が直した。ブレーキも、エンジンも、全部。皮肉なもんだ。外では品質を無視して金を稼いでいた男が、中では無償で品質のいい整備をしていた」


 黒田は薄く笑った。自嘲ではなかった。事実を淡々と述べているだけだった。


「中で直した車は、事故を起こしていないだろうな」


「起こしていない。刑務所のバスは俺が整備した後、一度もブレーキのトラブルがなかった。看守が『お前がいなくなったら困る』と言っていた。囚人に出所してほしくないと思われるのは、なかなかの体験だ」


 隆志はチャイを一口飲んだ。甘い。ケニアのチャイは砂糖が多い。だがこの甘さにも慣れた。


「うちで働くか」


 黒田の手が止まった。チャイのカップを持ったまま、隆志を見た。


「……冗談か」


「冗談じゃない。モンバサ拠点は人手が足りない。お前は港湾の仕組みを知っている。仲介業者の顔も覚えている。物流のプロだ」


「俺は事故車を流していた男だぞ。お前の工房に石を投げさせた男だ。記者に嘘をリークして、お前の娘を泣かせた男だ」


「全部覚えている」


「覚えていて、なお雇うと言うのか」


「お前が知っていることを、うちが必要としている。事故車を流すスキルと、品質を管理するスキルは同じものの裏表だ。どの車が危険か、お前が一番よく知っている。検品に使えるスキルだ」


 黒田はカップを置いた。


「お前は本当に馬鹿だな」


「何人にも言われた」


「……条件は」


「他の全員と同じだ。サクラスタンダードに従う。整備記録を書く。名前を残す」


「名前を残す、か」


 黒田は窓の外を見た。港のクレーンが、夕陽を背にシルエットになっている。


「俺の名前は、ろくな記録にしか残っていない。逮捕記録、裁判記録、受刑者番号。どれも消したい名前ばかりだ」


「だから書き換えろ。同じ名前で、違う記録を残せ」


 長い沈黙があった。食堂の中で、テレビがスワヒリ語のニュースを流している。港の外を、トラックが通過する音が響く。


「考えさせてくれ」


「急がない。ただし、考えている間に飯は食え。痩せすぎだ」


 隆志はテーブルの上にシリングの紙幣を置いた。黒田は受け取らなかった。だが隆志が立ち去った後、食堂の店主が運んできたウガリとシチューを、黒田は全部食べた。



【乾季——二月】


 丸和物産の谷口から月次レポートが届いた。


 全拠点合算の年間売上予測。数字を見て、隆志は工房の事務所で椅子に座り直した。


 四百八十億円。


 五百億が、射程に入った。


 隆志はレポートを閉じ、ホワイトボードを見た。名前が並んでいる。ナイロビだけで十二人。カンパラに八人。ダルエスサラームに六人。モンバサに七人。合計三十三人の整備士の名前が、サクラモーターズのホワイトボードに刻まれている。


 窓の外で、赤土の風が吹いていた。乾季の風。強く、まっすぐな風。


 あと少しだった。

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