34話 届く言葉
早瀬亮太の長期連載「赤土の風——サクラモーターズの一〇〇〇日」の最終回が掲載されたのは、十二月の第二週だった。全十二回。一年間にわたる定点観測。最終回のタイトルは「名前が残る場所」。
記事は、朝の工房から始まっていた。
——午前六時。ナイロビ郊外の整備工場「サクラモーターズ」に、最初に到着するのはいつも同じ男だった。名前はジェームズ・オモンディ。三十五歳。この工房で十五年間、車を直し続けてきたベテランだ。鍵を開け、蛍光灯をつけ、コンプレッサーの電源を入れる。毎朝同じ順番で。だがこの取材の最終日、オモンディの左手は動かなかった——。
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【東京】
智子はダイニングテーブルでタブレットを開き、記事を読んでいた。
みゆきは学校に行っている。朝の家事を済ませ、薬局のパートに出る前の三十分。その時間を、早瀬の記事に充てるのが、この一年の習慣になっていた。毎月一回、新しい記事が出る。智子は公開日の朝に必ず読んだ。
オモンディの引退の話は、隆志からメッセージで聞いていた。だが早瀬の文章で読むと、違うものが見えた。隆志のメッセージは事実を伝える。「オモンディが引退した。リウマチだ。指導員として残る」。それだけだ。早瀬の記事には、オモンディがホワイトボードに名前を書いたとき手が震えた話が書いてあった。字を書くのが苦手な男が、初めて自分の名前を仕事として壁に刻んだ朝のこと。
智子は画面から目を上げ、冷蔵庫の横に貼ってある写真を見た。ケニアで撮ったもの。工房のホワイトボードの前で、隆志とサミュエルとオモンディとキプチルチルが並んでいる。誰も笑っていない。作業の合間に撮ったのだろう。四人とも手が油で黒い。だがホワイトボードの名前は、はっきりと読めた。
記事を最後まで読み、タブレットを閉じた。パートの制服に着替えながら、思った。あの人は、ようやく自分の名前を刻める場所を見つけたのだ。日本では、どこにも刻めなかった名前を。
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【カンパラ・ウガンダ】
エリックは工房の休憩室で、スマートフォンの画面をスクロールしていた。
記事の中盤に、自分の名前が出てきた。
——カンパラ拠点の責任者、エリック・オディアンボ(二十歳)は、十二歳で父を亡くしている。トラックのタイヤバーストによる事故だった。「タイヤは擦り減っていました。父は分かっていたけど、会社に言えなかった」。この経験が、エリックを整備士にした。そして今、彼はナイロビの工房が作った品質基準を、ウガンダの整備士たちに教えている——。
エリックは画面を見つめた。父の話が書いてある。早瀬に話したのは自分だ。許可した。だが、活字になった父の死を読むのは、声に出して語るのとは違った。声は消える。活字は残る。この記事がインターネット上にある限り、父の話は消えない。
父の名前はどこにも残らなかった、とかつて隆志に言った。だが今、父の話がここに書かれている。父の名前は出ていない。「エリックの父」としか書かれていない。だがそれでいい。父は、息子を通じて記録された。息子が整備士になった理由として。それは、会社の記録やトラックの書類よりも、ずっと確かな残り方だった。
エリックは画面を閉じ、工房に戻った。ムセベニが待っている。今日は新しく入った車の点検がある。ホワイトボードにマーカーで名前を書く。「Eric Odhiambo」。毎日書く。毎日残る。
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【ナイロビ・ムワンギ邸】
ムワンギは書斎の革張りの椅子に座り、ノートパソコンで記事を読んでいた。
息子の名前が出てきた。
——モンバサ拠点の責任者、キプチルチル・ムワンギ(二十一歳)。地元の有力政治家の息子だが、この工房では肩書きは通用しない。入社試験に一度落ち、二週間の研修を経て再試験に合格した。「最初はジャッキの使い方も分からなかった」と本人は笑う。今はモンバサ港で月に三百台の中古車の品質管理を監督し、整備済みの車両にシールを貼る仕組みを自ら考案した——。
ムワンギはパソコンの画面から目を離し、窓の外を見た。庭のマンゴーの木が風に揺れている。
息子が試験に落ちたとき、田中を恨んだ。議員の息子に恥をかかせたと思った。だが二週間後に油まみれの手を見せて笑った息子の顔を、今でも覚えている。あの笑顔は、大学に受かったときにも、新しい車を買ってやったときにも見せなかった顔だった。自分の手で何かを掴んだ人間だけが見せる顔。
記事の中で、キプチルチルが「品質シール」を考案したと書かれている。ムワンギはその件を息子から聞いていなかった。息子が独自に仕組みを作り、記事で取り上げられるほどの成果を出していた。知らなかった。政治家としてのムワンギの耳には、息子の仕事の詳細までは入ってこない。入ってくるのは、数字と評判と、利害関係のある情報だけだ。
ムワンギは携帯を取り出し、キプチルチルに電話した。三回のコールで出た。
「父さん? 珍しいな、こんな時間に」
「記事を読んだ」
「……ああ、早瀬さんのやつ」
「品質シール、お前が考えたのか」
「うん。まあ、大したことじゃないよ」
「大したことだ」
電話の向こうで、キプチルチルが黙った。父から褒められることに慣れていないのだ。ムワンギ自身も、息子を褒めることに慣れていない。二十一年間、褒める代わりに金と機会を与えてきた。大学の学費、車、人脈。だが「大したことだ」の一言は、今まで渡してきたどの贈り物より重かった。
「……ありがとう、父さん」
キプチルチルの声が、少しだけ震えていた。
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【モンバサ港・サクラモーターズ拠点】
ジョセフ・ムトゥリは、昼休みにスマートフォンで記事を読んだ。
港湾地区の食堂。安いチャパティとチャイの昼食。隣のテーブルでは港湾労働者たちがスワヒリ語で騒いでいる。ムトゥリはその喧騒の中で、画面に集中していた。
記事の終盤に、黒田の名前が出てきた。
——二〇二〇年に逮捕された日本人ブローカー・黒田誠の存在は、サクラモーターズの物語の影を担う。品質を無視した安価な車両を大量に流通させた黒田は、この地域の中古車市場を歪めた。だが取材を通じて見えてきたのは、黒田もまた最初は品質を志した人間だったという事実だ。「従業員の子どもを救うために、最初の一台を売った」と田中は語る。善意から始まった道が、どこで曲がったのか。その分岐点は、誰の足元にもある——。
ムトゥリは画面から目を上げた。
自分はかつて黒田の下にいた。事故車を「修理済み」と偽る書類を作った。港湾職員に封筒を渡した。その手が、今はサクラモーターズの整備シールを車に貼っている。同じ手だ。同じ港だ。だが、手が触れるものが違う。
記事には自分の名前は出ていない。「黒田の元部下」としか書かれていない。だがムトゥリは知っている。自分がこの工房にいること。品質シールを一枚一枚、丁寧に貼っていること。キプチルチルが「お前のシールの貼り方が一番きれいだ」と言ってくれたこと。
名前が出なくてもいい。シールに名前は書かない。だがシールを貼る手は、自分のものだ。黒田の下で偽造書類を作った手と同じ手が、今は品質を証明するシールを貼っている。手は変わらない。手が触れるものが変わった。
チャイを飲み干し、食堂を出た。午後の作業が待っている。港に着いた車のフロントガラスに、一枚ずつシールを貼る。通し番号と日付と工房コード。名前はない。だが手の跡は残る。
ムトゥリの手には、まだ黒田の下にいた頃の癖が残っていた。書類をめくる指の動きが速い。数字を読むのが得意だ。その技術は、偽造のために使われていた。今は、整備記録の確認のために使われている。同じ技術。違う目的。
港の風が吹いていた。潮と排気ガスの匂い。二年前と同じ匂い。だが——。
同じ風が、違うものを運んでいる。
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【ナイロビ・サクラモーターズ本社工房】
隆志は記事を読まなかった。
早瀬から「最終回が出ました」とメッセージが来たが、返信だけして画面を開かなかった。工房には朝から車が三台入っていた。丸和物産からの月次ロット。ブレーキ、エンジン、電装系の総合点検。一台に三日かかる。
サミュエルが事務所に入ってきた。
「記事、読んだか」
「読んでいない」
「読め」
「後でいい。今は車がある」
サミュエルは鼻を鳴らした。
「お前は本当に面白くない男だな」
「知ってる」
「読まないなら、一つだけ教えてやる。記事の最後に、早瀬がこう書いていた」
サミュエルはスマートフォンの画面を隆志に見せた。記事の末尾。早瀬の署名の直前。
——一年前、筆者はサクラモーターズの工房の壁にホワイトボードを見た。日付と車両番号と作業内容と、整備士の名前が並んでいた。あの壁は、ただの記録ではない。ここで働く人間が、自分の仕事を、自分の名前で引き受けるという宣言だ。名前が残る場所がある。それだけで、人は走り続けることができる。筆者自身、一年前にこの場所に来るまで、そのことを知らなかった。今は知っている。それが、この連載で筆者が得た、唯一にして最大のものだ——。
隆志は画面を読み、サミュエルに返した。
「いい記事だな」
「それだけか」
「それだけだ。さ、車が待ってる」
隆志は作業服の袖をまくり、車の下に潜った。ボルトを握り、レンチを回す。右手と左手。十五年のオモンディほどの精度はないが、二年半で身につけた手の感覚が、ボルトの抵抗を読む。
記事は読まなくていい。自分のことは自分が知っている。他人が何を書こうと、ホワイトボードの名前は変わらない。車は今日も直す。明日も直す。名前を書き、記録を残し、一台ずつ送り出す。
それが、隆志の返事だった。言葉ではなく、手で。




