33話 十五年目の手
オモンディは朝が好きだった。
工房に誰よりも早く来る。鍵を開け、蛍光灯のスイッチを入れ、コンプレッサーの電源を入れる。機械が目覚める音を聞きながら、自分の作業台の前に立つ。天板を手のひらで撫でる。昨日の油の匂いが残っている。今日もここで手を動かす。それだけで、朝が始まる。
十五年間、同じことをしてきた。
サミュエルがこの工房を始めたとき、最初に雇われたのがオモンディだった。二十歳だった。ナイロビのスラムで育ち、学校は中学までしか行けなかった。字を読むのが遅い。計算は得意ではない。だが手先は器用だった。壊れた自転車を直し、近所のラジオを修理し、水道管の漏れを塞いだ。手が覚えることは、頭より速かった。
サミュエルが「車を直す仕事がある」と言ったとき、オモンディは車に触ったことがなかった。自転車と車は違う。エンジンがある。電装がある。油圧がある。分からないことだらけだった。だがサミュエルが手本を見せ、オモンディが真似をし、失敗し、もう一度やり直し、また失敗し、百回目くらいでようやく手が覚えた。
十五年。その間に、何台の車を直したか数えたことはない。数字は苦手だ。エリックがスプレッドシートで管理しているらしいが、オモンディにはパソコンの画面は小さすぎて読めない。老眼が進んでいる。去年から、細かいボルトのサイズを目で読むのが辛くなってきた。
タカシが来てから、工房は変わった。
最初は警戒した。日本人。また来たのか、と思った。サミュエルの前にも何人か来た。どれも口ばかりで手を動かさなかった。タカシも同じだろうと思っていた。
だが違った。
タカシは車の下に潜った。プラグを研磨した。ワセリンで端子を磨いた。手が汚れることを嫌がらなかった。それどころか、手を汚すことが好きなように見えた。作業が終わった後、黒くなった指を眺めて、少しだけ笑っていた。あの顔は、自分と同じだとオモンディは思った。手を動かすことでしか自分を表現できない人間の顔。
ホワイトボードに名前を書くようになったとき、オモンディは面食らった。名前を残す。十五年間、一度もそんなことを言われたことがなかった。車は直す。客が持っていく。それで終わり。誰が直したかなど、客は気にしない。サミュエルも気にしない。オモンディ自身も気にしていなかった。
だがタカシが「名前を書け」と言い、エリックが最初に書いた。「Eric Odhiambo」。はっきりとした文字だった。次にオモンディの番が来た。マーカーを持った手が震えた。字を書くのが苦手だから、ではなかった。自分の名前を、自分の仕事として、壁に刻むという行為が、予想以上に重かったからだ。
「Samuel Otieno」はサミュエルが書いた。「Takashi Tanaka」はタカシが書いた。四つの名前が並んだ日、オモンディは何も言わなかった。いつも通り黙って車の下に潜った。だがその夜、家に帰って妻のワンジルに言った。
「今日、工房の壁に俺の名前が書かれた」
ワンジルは何のことか分からなかったようだが、オモンディの顔を見て微笑んだ。十五年間、夫が工房で何をしているか、詳しくは知らない。だが夫の手が油で黒いこと、毎朝誰よりも早く家を出ること、夜遅く帰ってきても穏やかな顔をしていること、それだけは知っていた。
*
三百億を超えた月の末に、オモンディの左手が動かなくなった。
朝、いつも通り作業台の前に立った。レンチを握ろうとした。握れなかった。指が開かない。力が入らない。関節が腫れている。昨日からの違和感が、一晩で動けない手に変わっていた。
右手は動く。だが整備は両手でやる。ボルトを左手で押さえ、右手でレンチを回す。左手が使えなければ、作業の半分ができない。
サミュエルに言わなかった。タカシにも言わなかった。右手だけで作業を続けた。ボルトを壁に押し当てて固定し、右手でレンチを回す。時間がかかる。いつもの倍かかる。だが精度は落とさなかった。精度だけは、十五年間で体に染み込んでいる。
三日目にタカシが気づいた。
「オモンディ。左手、どうした」
黙っていた。タカシは何も言わず、オモンディの左手を見た。腫れた関節。指が曲がったまま開かない。
「病院に行け」
「行かない」
「行け。今すぐ」
「行ったら、何を言われるか分かっている。もう動かせないと言われる。そうしたら、ここにいられなくなる」
タカシは黙った。長い間黙っていた。工房の中で、コンプレッサーの音だけが低く響いていた。
「オモンディ。お前が恐れているのは、手が動かなくなることか。それとも、ここを離れることか」
オモンディは答えなかった。答えは分かっていた。手が動かなくなることは怖い。だがそれ以上に、この工房を離れることが怖い。十五年間、毎朝この場所に来た。鍵を開け、蛍光灯をつけ、コンプレッサーを回した。それが自分の人生だった。手が動かなくなれば、ここに来る理由がなくなる。理由のない朝が来る。それが一番怖い。
「病院に行け。結果がどうであれ、お前の名前はホワイトボードから消えない。十五年分の記録が残っている。それは誰にも消せない」
オモンディは病院に行った。
診断は関節リウマチだった。左手の関節が慢性的に炎症を起こし、進行すると右手にも及ぶ可能性がある。投薬で進行を遅らせることはできるが、整備士としての作業は——。
「お勧めしません。関節への負荷が大きすぎます」
医師の言葉は、予想通りだった。
工房に戻ったオモンディは、サミュエルとタカシに報告した。
「引退する」
二語。それだけ言うのに、三十五歳の男は唇を噛んだ。
サミュエルは何も言わなかった。壁に手をつき、背を向けた。肩が一度だけ揺れた。
タカシが言った。
「最後に一台、直してくれ」
「何だ」
「お前が十五年前に、最初に直した車と同じ型の車がある。トヨタのカローラ。あれを、最後の一台として仕上げてくれ」
オモンディは目を見開いた。カローラ。十五年前、サミュエルの工房で最初に手がけた車。エンジンがかからず、サミュエルと二人で三日間格闘した。あのとき、自分は車のことを何も知らなかった。サミュエルに手を取られ、ボルトの回し方を教わった。あのカローラが動いたとき、エンジン音が耳の奥で響いた。あの音を、十五年間追いかけてきた。
「やる」
一日かけた。
左手はほとんど使えない。右手だけで、ボルトを締め、プラグを外し、オイルを換えた。キプチルチルが黙って横に立ち、左手の代わりにボルトを押さえた。何も言わずに。オモンディが右手を動かすたびに、キプの左手が正確な位置に添えられた。半年前に入った新人が、十五年のベテランの手を補っている。
エリックがカンパラからビデオ通話で見守っていた。画面の向こうで、静かに頷いていた。
夕方、整備が終わった。
オモンディはカローラのボンネットを閉じた。右手だけで。金属がかちりと鳴った。正確な音。十五年間の手が、最後の一台に刻まれた。
ホワイトボードの前に立った。マーカーを右手で握った。日付。車両番号。作業内容。そして——。
担当整備士:James Omondi
書き終えたマーカーをキャップに戻し、棚に置いた。
サミュエルが近づいてきた。オモンディの肩に手を置いた。十五年間、この男と並んで車を直してきた。言葉はいつも少なかった。だが手が通じ合っていた。レンチを渡すタイミング、ジャッキを上げる呼吸、エンジンをかける瞬間の目配せ。全部、言葉なしで通じていた。
「お疲れ」
サミュエルが言った。それだけだった。それで十分だった。
タカシがオモンディの前に立った。
「オモンディ。一つ提案がある」
「何だ」
「引退しても、工房に来てくれ。週に三日でいい。新人に教えてほしいことがある。手は動かなくても、目がある。十五年間見てきた目で、新人の作業を見てくれ。間違っていたら指摘してくれ」
「指導員か」
「そうだ。手は引退する。だが目は引退しない」
オモンディは鼻を鳴らした。サミュエルに似た音だった。十五年も一緒にいると、癖が伝染する。
「考えておく」
それは「やる」の意味だった。タカシにはまだ通じないかもしれないが、サミュエルには通じた。サミュエルがかすかに笑った。
夜、オモンディは工房を最後に出る人間になった。いつもは最初に来て、途中で帰る。だが今日は、全員が帰った後も残った。蛍光灯を消し、コンプレッサーの電源を落とし、鍵をかける。十五年間、朝にやっていたことを、夜に逆の順番でやった。
閉めた工房のシャッターに手を当てた。冷たい金属の感触。右手だけで触れている。左手はポケットに入ったままだ。
振り返ると、看板が夜の闇に浮かんでいた。「SAKURA MOTORS」。街灯の光が、文字を淡く照らしている。
オモンディは歩き始めた。家に帰る。ワンジルが待っている。今夜は伝えなければならないことがある。整備士を引退する、と。でも工房には行く、と。名前は壁に残っている、と。
十五年分の油が染み込んだ右手を、ポケットの中で握った。この手は、もう車を直さない。だがこの手が育てた精度は、キプの手に、エリックの手に、これから来る新人の手に、受け継がれていく。
手は止まる。だが、手が教えたことは止まらない。
それが、十五年目の朝に分かったことだった。




