30話 赤土の上で
ジョモ・ケニヤッタ国際空港の到着ロビーで、隆志は二年前の自分を思い出していた。
あの日、ここに降り立ったとき、排気ガスと土埃と香辛料の匂いに圧倒された。タクシーの客引きに腕を掴まれ、言葉が通じず、何もかもが異質だった。今は違う。空港の職員に顔を覚えられている。ロビーの売店の店主と世間話ができる。この場所は、もう異国ではなかった。
だが今日は緊張していた。
到着便の電光掲示板に、ドバイ経由の便が「LANDED」と表示された。二十時間のフライトを経て、智子とみゆきがここに着く。
ゲートの向こうから、旅行者がぽつぽつと出てきた。スーツケースを引く観光客。サファリ帽をかぶった老夫婦。ビジネスバッグを肩にかけた男。その間を縫うように、車椅子が現れた。
空港のスタッフが押している車椅子に、みゆきが座っていた。その横を智子が歩いている。
みゆきは窓の外を見ていた。空港のガラス越しに差し込むアフリカの陽光を、目を細めて受けている。手術後一年。顔色は二年前より格段に良くなっていた。頬にふっくらとした丸みが戻っている。だが長時間のフライトで疲れているはずだった。
智子は——変わっていた。
髪が短くなっていた。肩までのボブカットだったのが、耳の上まで刈り込まれている。薄い化粧。日焼け止めだけの顔。動きやすそうなTシャツとカーゴパンツにスニーカー。かつてのマンションの食卓で冷めた味噌汁の横に立っていた女性とは、別人のように見えた。
「パパ!」
みゆきが隆志を見つけて手を振った。車椅子の上で身を乗り出している。隆志は小走りで近づき、みゆきの前に膝をついた。
「よく来たな」
「飛行機、長かった。でも雲の上がきれいだった。パパが見た景色だね」
二年前、隆志が成田からドバイに向かう機上で見た雲海。金色に染まった雲。みゆきも同じ景色を見て来た。
智子が横に立った。視線が一瞬交わった。
「遠かったでしょう」
「遠かった。でも、来てみたかった」
智子の声は穏やかだった。冷たくもなく、温かくもない。ただ、ここにいるという事実を静かに示す声だった。
「暑いね。日本の夏より湿気がない」
「乾季だからな。雨季になると変わるけど」
会話は短い。だがぎこちなくはなかった。お互いの距離を測りながら、一歩ずつ近づいている。その慎重さが、二人の間にある歴史の深さを物語っていた。
*
工房に着いたのは昼過ぎだった。
隆志がハンドルを握り、助手席に智子、後部座席にみゆきを乗せた。車椅子は折りたたんで荷台に積んだ。空港からの道を走りながら、みゆきは窓に張り付いていた。
「パパ、あの木なに?」
「アカシアだ。サバンナの代表的な木だよ」
「平べったい。傘みたい」
「そう。アンブレラツリーとも呼ぶ」
「あの人、頭に何か乗せてる!」
「荷物だよ。この国では頭に乗せて運ぶ人が多い」
みゆきの目が輝いていた。病室の天井とマンションの窓しか知らなかった目が、赤土の大地を初めて見ている。アカシアの木、ロバに荷を引かせる老人、道端で果物を売る女性、渋滞の中を縫うバイクタクシー。すべてが新しく、すべてが驚きだった。
智子は静かに窓の外を見ていた。何も言わなかった。だが、目が動いていた。街並みを追い、人の表情を見つめ、赤土の色を確かめている。この国を理解しようとしている目だった。
工房の前で車を止めた。
みゆきが最初に目にしたのは、看板だった。
「SAKURA MOTORS……桜? パパ、桜だよ!」
「ああ。うちの工房の名前だ」
「日本の名前がある。アフリカに桜がある」
車椅子をセットし、みゆきを乗せて工房の中に入った。智子が後ろから続く。
サミュエルが入口に立っていた。いつもの作業服ではなく、アイロンのかかったシャツを着ている。アイリーンが朝から準備していたのだろう。サミュエルは隆志の家族が来ることを一週間前から知っていたが、何も言わなかった。だが今日のシャツが、すべてを語っていた。
「ミセス・タナカ。ようこそ」
サミュエルが智子に手を差し出した。智子はその手を握った。大きな手。工具で鍛えられた手。サミュエルの手の硬さに、智子が一瞬目を丸くした。
「サミュエルさん。夫がお世話になっています」
「世話をしているのは俺じゃない。こいつが勝手に走り回って、俺はついていくだけだ」
サミュエルの声は素っ気なかったが、口元が柔らかかった。智子に向ける目は、隆志に向けるものとは違う。敬意があった。夫が海を越えている間、一人で娘を守り、手術費を工面し、パートで働いていた女性への敬意。
「こっちがみゆきだ」
隆志が車椅子を押して、サミュエルの前に出た。みゆきは見上げた。百八十センチ以上の大きな男を、車椅子の上から。
「サミュエルさん? パパがいつも話してる人!」
「いつも話しているのか。何を言っている」
「サミュエルさんは怖い顔だけど本当は優しいって」
サミュエルが隆志を睨んだ。隆志は目を逸らした。
「あと、奥さんのウガリがすごく美味しいって」
サミュエルの眉が上がった。
「それは本当だ。アイリーンのウガリは世界一だ」
みゆきが笑った。サミュエルも笑った。大きな男と小さな女の子が、赤土の工房の入口で笑い合っている。
工房の中を案内した。壁のホワイトボード。整備記録。工具棚。リフト。整備中の車。みゆきはすべてを車椅子の上から見上げ、一つ一つに質問した。
「これ何?」
「トルクレンチ。ボルトを正確な力で締める道具だ」
「正確ってどのくらい?」
「例えばこのボルトなら、百ニュートンメートル。強すぎるとボルトが折れる。弱すぎると緩む。ちょうどいい力で締める」
「ちょうどいいって難しいね」
「難しい。でも、この道具があれば数字で分かる。カチンと音が鳴ったら、ちょうどいい」
「風鈴みたいだね。鳴ったらちょうどいい」
隆志は息を呑んだ。あの音だ。工房で一人、ボルトを締めたときに聞いた音。風鈴に似ている、と思ったあの音を、みゆきも同じように感じている。父と娘の耳に、同じ音が響いている。
智子はホワイトボードの前で立ち止まっていた。名前の列を読んでいる。サミュエル、オモンディ、キプチルチル、タカシ。そしてエリックの名前はカンパラの欄に移っている。
「これ、何」
「整備記録だ。誰が、いつ、どの車を、どう直したか。全部ここに書く」
「あなたの名前もある」
「ああ。俺も車を直すから」
智子は指で「タカシ」の文字に触れた。ホワイトボードのマーカーの文字は、手で触れると少し滲む。だが智子はそのまま指を離さなかった。
「……こういうことをしてたのね」
声は小さかった。隆志にだけ聞こえる声だった。
「こういうこと?」
「名前を残す仕事。日本では、あなたの名前はどこにも残らなかった。数字だけが残って、名前は消えた。ここでは違うんだね」
智子は隆志を見た。目が潤んでいた。あの乾いた目が。結婚以来、何度も見てきた乾いた目が、このホワイトボードの前で初めて潤んでいた。
「あなたが守りたかったものが、分かった気がする」
隆志は何も言えなかった。言葉にすると壊れそうな瞬間だった。
*
夕方、サミュエルの家で食事をした。
アイリーンがウガリとビーフシチューとスクマウィキを作ってくれた。ダニエルとグレースがみゆきの車椅子の周りに集まり、興味津々で見つめている。みゆきが折り紙を取り出すと、三人は輪になって座った。
「これは鶴。こうやって折るの」
みゆきが赤い折り紙を丁寧に折っていく。ダニエルが真似をして、グレースが失敗して、みゆきが手を添えて教える。言葉は半分も通じない。だが折り紙に言語は要らなかった。角を合わせ、折り目を付け、羽を広げる。その一つ一つの動作が、三人を繋いでいる。
智子がアイリーンの隣で皿を並べていた。二人の間にも言葉は少なかったが、皿の受け渡しと目配せだけで通じ合っている。母親同士の言語。子どもの世話をしてきた手が、もう一人の母親の手を認識する。
食事が終わった後、みゆきが隆志の膝に座った。ポケットから何かを取り出した。
折り鶴だった。五羽目。
金色の紙で折られている。日本から持ってきたのだ。羽には、丁寧な字で書かれていた。文字は以前より上手くなっている。一年分の成長が、筆跡に現れていた。
「ありがとう」
五羽目の言葉。
「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」——そして「ありがとう」。
隆志は金色の鶴を受け取った。手のひらの上で、夕陽の光を受けて鶴が輝いている。金色。これまでの四羽は赤と緑と白だった。金色は初めてだ。
「なんで金色?」
「だって、パパの工房の看板、金色に光ってたから。写真で見たの」
早瀬の記事に載っていた写真。夕陽に照らされたSAKURA MOTORSの看板。あの金色を、みゆきは覚えていた。日本の病室のベッドで、携帯の画面で見た父の工房の看板。その色を、折り鶴に移した。
サミュエルが横で見ていた。何も言わなかった。だが、目を逸らさなかった。小さな女の子が父親に折り鶴を渡す姿を、大きな男が静かに見守っている。
智子がみゆきの髪を撫でた。
「千羽まであと何羽?」
「えっと……八百四十三羽。あと百五十七羽」
「もうすぐだね」
「うん。でも急がないの。一羽ずつ、丁寧に折るの。パパの仕事と同じ。一台ずつ、丁寧に直すの」
一台ずつ。一羽ずつ。丁寧に。
みゆきの言葉が、サクラモーターズの理念そのものだった。八歳の娘が、父親の仕事を折り鶴の言葉で翻訳している。
夜、マンションではなくサミュエルの家の客間で、三人は布団を並べて眠った。みゆきが真ん中、智子が右、隆志が左。狭いベッドに三人。窓からケニアの夜風が吹き込み、カーテンが揺れている。
みゆきはすぐに寝息を立てた。長いフライトと、初めての国の興奮で、体力を使い果たしたのだろう。小さな寝息が、規則正しく響いている。
暗闇の中で、智子が言った。
「ここの風、気持ちいいね」
「乾いてるだろう。日本の夏とは違う」
「うん。……ここの風が、あなたを変えたのね」
隆志は天井を見つめた。
「俺が変わったんじゃない。風が、俺を運んだだけだ」
智子は何も言わなかった。だが、暗闇の中で手が伸びてきた。隆志の手に触れた。指先だけ。ほんの一瞬。そしてすぐに離れた。
冷めた味噌汁から始まった距離が、赤土の国の夜風の中で、指先一つ分だけ縮まった。
五羽の折り鶴が、隆志のポケットの中で並んでいる。
「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」「ありがとう」。
窓の外で、風が吹いていた。




