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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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29話 橋を架ける

 日本の商社・丸和物産から連絡が来たのは、早瀬の記事が出てから三ヶ月後のことだった。


 メールの差出人は、丸和物産アフリカ事業部の課長・谷口雅人。件名は「サクラモーターズ様との業務提携のご相談」。丁寧な文面だったが、行間に急いでいる気配があった。


〈貴社の搬送事業および中古車整備の品質管理モデルについて、弊社アフリカ事業部として大変関心を持っております。つきましては、一度お話を伺う機会をいただけないでしょうか〉


 丸和物産。日本の総合商社の中堅どころ。自動車関連事業にも手を広げており、アフリカへの中古車輸出を十年以上手がけている。ただし、輸出の仕組みはあっても、現地での整備と品質管理の体制は持っていない。そこがサクラモーターズとの接点だった。


 隆志は谷口にオンラインでの打ち合わせを提案した。工房の事務所にノートパソコンを置き、壁のホワイトボードが映る角度でカメラをセットした。映像が繋がると、谷口は三十代後半の真面目そうな男だった。背広にネクタイ。東京のオフィスから接続している。背後にホワイトボードが見え、そこにも数字が並んでいた。売上、市場規模、シェア。日本の会議室の景色だ。かつての隆志の世界。


「田中さん、お忙しいところありがとうございます。単刀直入に申し上げます」


 谷口は資料を画面に共有した。


「弊社はアフリカ向け中古車輸出で年間二万台を扱っています。だが、現地に渡った後の品質管理が課題です。輸出時には日本の基準で点検していますが、現地で転売される過程で整備が省かれ、品質が劣化する。結果として事故が起き、日本車全体のブランドが傷つく」


 隆志は黙って聞いていた。二万台。年間二万台の中古車がアフリカに渡っている。そのうち何台が、ブレーキの利かないまま走っているのか。


「サクラモーターズの整備基準——サクラスタンダードを、弊社の輸出車両にも適用できないかと考えています。具体的には、弊社が輸出した車両を、現地のサクラモーターズ拠点で再整備してから販売する。コストは弊社が負担します」


「再整備の基準は、うちの基準に従うということですか」


「はい。御社の基準で。整備記録も御社のフォーマットで」


「整備士の名前も記録に残る」


「もちろんです」


 隆志は画面の向こうの谷口を見つめた。この男は本気だ。品質管理の問題を理解し、その解決策としてサクラモーターズを選んでいる。だが、商社の論理もある。品質管理を外注することでブランド価値を守り、市場シェアを維持する。慈善事業ではなくビジネスだ。


「谷口さん。一つ確認したい」


「何でしょう」


「御社が求めているのは、品質の看板ですか。それとも品質そのものですか」


 谷口が一瞬黙った。


「……どういう意味でしょうか」


「看板なら、書類上の体裁を整えればいい。サクラスタンダードのロゴを付け、記録を残し、レポートを出す。それで御社の報告書には『品質管理済み』と書ける。だが、品質そのものを求めるなら、一台に三日から五日かかる。コストも上がる。輸出台数の処理速度は落ちる。それでもいいですか」


 谷口は背筋を伸ばした。


「品質そのものです。看板だけなら、うちも同じ失敗を繰り返します。実は、三年前に別の現地業者と組んで品質管理をやろうとしたことがあります。結果は、書類だけ揃えて中身は何も変わらなかった。今度は違う。だから御社を選んだんです」


「早瀬の記事を読んだんですね」


「読みました。あの記事がきっかけです。正直に申し上げると、最初に出た記事——搾取の方——も読んでいました。あの時点では関わるべきではないと判断した。だが二本目の記事を読んで、考えが変わった」


 早瀬の記事が、二度目の役割を果たしていた。一本目は隆志を追い詰めた。二本目は日本企業との橋を架けた。同じジャーナリストの二本の記事が、破壊と建設の両方を行った。それがジャーナリズムの力と怖さだ。


「分かりました。提携の条件を詰めましょう。ただし、最終判断はうちのパートナーにも確認が必要です」


「パートナー?」


「サミュエル・オティエノ。この工房の共同創業者です。俺一人では決めません」


 谷口は少し驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「もちろんです。現地パートナーとの合意は不可欠です」



         *



 谷口との打ち合わせが終わった夜、サミュエルに報告した。


「日本の商社が、うちの基準で中古車の再整備をやりたいと言っている。年間二万台の一部を、サクラモーターズに任せたいと」


 サミュエルは黙ってビールを飲んでいた。月明かりが工房の屋根を銀色に照らしている。


「何台来る」


「最初は月に百台。軌道に乗れば、月に五百台まで増やす計画だ」


「月に五百台。今のナイロビの工房だけでは捌けない」


「だから拠点を増やす。モンバサに新しい工房を作る。港に一番近い場所に。輸入された車をその場で整備して出荷する」


「金は」


「丸和物産が初期投資を負担する。整備費用も台数に応じて支払われる。うちの持ち出しはほぼない」


 サミュエルはビールの缶を置いた。


「うまい話だな」


「うまい話だと思うか」


「うまい話には裏がある。この国ではそう教わる」


「日本でも同じだ」


 サミュエルは隆志を見た。暗闇の中で、目だけが光っている。


「だが、お前は受ける気だろう」


「品質を守れるなら。うちの基準で、うちの整備士が、名前を記録に残して整備する。その条件が守られるなら、受ける価値はある」


「条件が崩されたら」


「その時は切る。どんなに金が動いていても」


 サミュエルは長い沈黙の後、缶を持ち上げた。


「乾杯するか。百億のときは祝わなかったが、商社との提携は祝ってもいいだろう」


「まだ成約していないぞ」


「成約する前に祝う方が気持ちいい。失敗したら笑い話になる」


 二人は缶をぶつけた。安いビールの泡が、夜風に乗って消えていく。



         *



 翌週、早瀬から連絡があった。


「田中さん。継続取材のお願いです。前回の記事の反響が大きく、編集部からシリーズ化の提案がありました。サクラモーターズの成長を、半年から一年かけて追いたい。可能でしょうか」


「また来るのか」


「はい。今度は三ヶ月に一度、一週間ずつ。定点観測のような形で。工房の変化、事業の拡大、人の成長を記録したい」


 隆志は少し考えた。早瀬の最初の記事で受けた傷はまだ残っている。だが二本目の記事が丸和物産との橋を架けた。ジャーナリストの目が入ることは、外部からの監視でもある。品質を自称するだけでなく、第三者に検証してもらう。それは信頼の担保になる。


「条件がある。うちの整備士に取材するときは、必ず本人の許可を取れ。写真も同じだ。名前を出すかどうかは本人が決める」


「もちろんです」


「それから、嘘を書いたら——」


「サミュエルさんに殴られる。覚えてますよ」


 隆志は笑った。早瀬も笑った。最初に電話で話したときの緊張は、もうなかった。


 早瀬との電話を終えた後、智子にメッセージを送った。定例の報告だ。商社との提携の話、早瀬の継続取材の話。打ち終えて送信しようとしたとき、指が止まった。


 書き加えた。


〈みゆきと智子、ケニアに来ないか〉


 送信した。


 返信は二時間後に来た。二時間。智子はその間、何を考えていたのだろう。


〈みゆき、行きたいって言ってる〉


 隆志は画面を見つめた。みゆきが行きたいと言っている。智子はみゆきの言葉を伝えただけで、自分の意思は書いていない。だが、止めていない。止めるなら「みゆきの体調が」「費用が」「仕事が」と理由はいくらでもある。止めなかったということは——。


 もう一通来た。


〈私も〉


 二文字。「私も」。行きたい、とは書いていない。だが「私も」は「みゆきだけじゃなく私も」だ。


 隆志は携帯を握りしめた。


 智子がケニアに来る。みゆきがケニアに来る。この赤土の大地に、二人が立つ。工房を見る。サミュエルに会う。エリックのホワイトボードを見る。搬送車のハイエースに触れる。ジェームズが走るグラウンドを見る。


 あの冷めた味噌汁の朝から、ここまで来た。


 ポケットの折り鶴に触れた。四羽。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」。みゆきが来れば、五羽目を直接受け取れるかもしれない。


 赤土の風が、窓から吹き込んだ。

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