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五百億の風 ~娘を救うため、ケニアで中古車王になった男~  作者: 一条信輝


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28話 百億の通過点

 サクラモーターズの名前が東アフリカに広がり始めたのは、搬送事業が保健局の公式モデルとして認定されてからだった。


 ケニア国内だけで三つの地域に搬送拠点を開設した。それぞれにハイエースを一台ずつ配備し、現地の整備士を雇い、サクラスタンダードに基づく整備と記録を導入した。拠点ごとに月間二十件前後の搬送を行い、データは隆志の工房に集約される。エリックが作ったスプレッドシートに、日付、患者情報、搬送距離、対応時間、転帰が一件ずつ記録されていく。


 ウガンダのカンパラ拠点は、開設から半年で軌道に乗っていた。現地の整備士四人がサクラスタンダードの研修を修了し、搬送車両だけでなく一般の中古車整備も請け負い始めた。タンザニアのダルエスサラーム拠点も同様だった。


 だが、拡大すれば問題も増える。


「カンパラの整備品質が落ちている」


 サミュエルが帳簿を机に叩きつけた。月曜の朝、工房の事務所。隆志とサミュエルとエリックの三人で週次会議をするのが習慣になっていた。


「先月のカンパラの整備記録を見ろ。ブレーキパッドの交換時期が基準値を超えている車が三台。うち一台はタイミングベルトの点検も飛ばしている。記録はあるが、中身が雑だ」


 隆志は記録を確認した。サミュエルの指摘は正確だった。カンパラ拠点のリーダーであるムセベニは腕のいい整備士だが、記録管理に甘さがある。作業はしているが、記録の精度が落ちている。記録が雑になると、次の点検時期が曖昧になる。曖昧になれば、見落としが生まれる。見落としが命を奪う。


「ムセベニに電話で注意しても直らなかった。二回言った。三回目はない。行って直接見る必要がある」


 サミュエルが隆志を見た。だが隆志は首を横に振った。


「俺が行く話じゃない」


「じゃあ誰が行くんだ」


 隆志はエリックを見た。エリックは黙って座っていた。会議中にメモを取る手が一瞬止まった。


「エリック。お前が行け」


 エリックの目が大きくなった。


「俺がですか」


「お前がサクラスタンダードを一番理解している。記録システムを作ったのもお前だ。ムセベニに何が足りないかを、お前が一番正確に指摘できる」


「でも、俺は十九歳です。ムセベニは三十五歳で、十年以上の経験がある。俺の言うことを聞くとは——」


「タンザニアの研修で、お前は二十代後半の整備士たちに教えた。年齢は関係なかった。技術が言葉を超えたんだ。カンパラでも同じだ」


 エリックは手元のメモを見つめた。ペンを握ったまま、長い間動かなかった。サミュエルが腕を組んで待っている。隆志も黙って待った。


「行きます」


 エリックが顔を上げた。目に決意があった。だが、その奥にかすかな不安も見えた。当然だった。十九歳が三十五歳のベテランに品質を指導する。技術だけでは解決しない人間関係の壁がある。エリックはそれを理解している。理解した上で、行くと言った。


「ただ、一つだけお願いがあります」


「何だ」


「カンパラには、二週間だけじゃなく、一ヶ月いさせてください。二週間で指摘して帰ったら、元に戻ります。一ヶ月一緒に働いて、記録の意味を体で覚えてもらわないと」


 隆志は頷いた。エリックの判断は正しかった。キプチルチルに二週間で基礎を教えた経験が、ここで活きている。短期間で指摘するだけでは変わらない。一緒に手を動かし、一緒に記録を書き、一緒に車の下に潜る。それが教育だ。


「一ヶ月。お前に任せる。ただし、毎日報告を送れ。何が起きているか、何が変わったか、何が変わらないか」


「分かりました」


 サミュエルが口を開いた。


「エリック。お前がカンパラに行く間、ナイロビの工房は俺とオモンディとキプで回す。心配するな」


 キプ。キプチルチルの名が、自然にサミュエルの口から出た。入社して三ヶ月。キプチルチルはすでに基本的な整備を一人でこなせるようになっていた。ムワンギの息子は、想像以上に早く工房に溶け込んでいた。根性だけはある、と父が言った通りだった。


「お前がいなくても回る工房を作れ。それが、お前の仕事だ」


 サミュエルの言葉は、隆志がケニアに戻ったとき、サミュエル自身が隆志に言ったものと同じだった。「お前がいなくても回る工房を作らなきゃ、事業にならない」。あの言葉が、今度はエリックに向けられている。バトンが渡っている。



         *



 エリックがカンパラに発った日、隆志は空港まで送った。


 バスターミナルの方が安いが、隆志はあえて国内線の航空券を買った。往復で八万シリング。工房の予算からすれば大きな出費だ。だが、エリックがカンパラに「出張」する以上、出張にふさわしい移動手段を用意したかった。赤土の道をバスで十時間かけて行くのではなく、飛行機で一時間半で着く。その差が、エリックの立場を示す。ナイロビ本社から来た品質管理責任者。バスで来た若者ではない。


「タカシさん。飛行機、初めてです」


 エリックは搭乗口の前で、少しだけ緊張していた。手荷物はリュック一つ。中には着替えと、工具のカタログと、整備記録のテンプレートが入っている。


「俺がケニアに来たとき、成田空港で同じ顔をしていたよ」


「本当ですか」


「本当だ。飛行機は怖くない。怖いのは、着いてからだ」


 エリックは笑った。


「着いてからのことは、着いてから考えます」


「いい考えだ。俺もそうだった」


 エリックが搭乗ゲートに消えた。細い背中が、他の乗客の間に紛れていく。十九歳の背中。だがその背中には、SAKURA MOTORSの名前が見えない形で刻まれていた。


 隆志は空港のロビーに残り、窓の外を見た。小さな旅客機が滑走路に向かっていく。あの中にエリックがいる。十二歳で父を失い、タイヤの破片を握りしめた少年が、今は飛行機に乗ってカンパラに向かっている。品質管理責任者として。


 エリックからの報告は、その日の夜から始まった。


 初日の報告。〈ムセベニさんと会いました。最初は警戒されましたが、一緒に車を一台整備しました。ブレーキの点検手順を見せたとき、ムセベニさんの目が変わりました。「そこまでやるのか」と言われました〉


 三日目。〈記録の問題は、面倒くさいからではなく、記録の意味を理解していないからだと分かりました。ムセベニさんに「なぜ記録を残すのか」を説明しました。父の話もしました。タイヤの破片を握っていた話。記録があれば、次に同じ車を整備する人が前回の状態を知れる。記録がなければ、見落としが起きる。見落としが人を殺す。ムセベニさんは黙って聞いていました〉


 一週間後。〈ムセベニさんが自分から記録を書き直し始めました。過去三ヶ月分の記録を全部見直すと言っています。「お前の父親の話が頭から離れない」と言われました。俺は泣きそうになりましたが、泣きませんでした。ここでは俺が先生だから〉


 隆志はエリックの報告を読むたびに、携帯の画面に向かって頷いた。エリックは教えている。だが同時に、教えることで自分も学んでいる。父の死を語ることが、他人の行動を変える力を持つと知った。それはエリックにとって、タイヤの破片を握った十二歳の少年が、ようやくその破片を手放す過程なのかもしれなかった。


 二週間後の報告。〈カンパラの整備記録、全件を更新しました。ムセベニさんのチーム四人全員が、サクラスタンダードの再研修を修了しました。ブレーキの点検漏れはゼロになりました。あと二週間、定着するまで見守ります〉


 一ヶ月後、エリックはナイロビに戻ってきた。空港で隆志が迎えに行くと、エリックの顔つきが変わっていた。出発前より頬が引き締まり、目の奥に自信が座っていた。十九歳の少年が、一人の責任者として帰ってきた。


「タカシさん。カンパラのことですが」


「どうだった」


「ムセベニさんから、正式にお願いがありました。カンパラ拠点に常駐の品質管理者を置いてほしいと。月に一回のチェックではなく、常に基準を維持できる人間がいてほしいと」


「誰を置く」


「俺が行きます」


 隆志は立ち止まった。空港のロビーで、エリックの目を見た。


「カンパラに常駐するということは、ナイロビの工房を離れるということだ。お前がいなくなれば——」


「俺がいなくても回る工房を、サミュエルさんがもう作っています。キプも育っている。オモンディさんがいる。タカシさんがいる。ナイロビは大丈夫です」


 隆志がケニアに戻ったとき、サミュエルが言った言葉。「お前がいなくても回る工房を作らなきゃ、事業にならない」。サミュエルが隆志に言い、隆志がエリックに言い、今度はエリックが自分の口でそれを言っている。三世代分のバトンが、一つの文に凝縮されていた。


「分かった。お前をカンパラ拠点の責任者に任命する」


 エリックは深く頭を下げた。


 携帯が鳴った。サミュエルだった。


「エリック、乗ったか」


「乗った」


「あいつは大丈夫だ。お前が思っている以上に、あいつは強い」


「分かっている」


「分かっているなら、心配するな。親みたいな顔をするな。お前は上司だ」


 隆志は笑った。親みたいな顔をしている自覚はなかった。だがサミュエルには見えたのだろう。みゆきの父親が、もう一人の若者の背中を見送る顔を。


「サミュエル。一つ報告がある」


「何だ」


「先月の全拠点合算の売上が出た」


「いくらだ」


「年間換算で百億円を超えた」


 電話の向こうで、サミュエルが黙った。長い沈黙だった。


「百億か」


「ああ」


「三十億のときは、まだ通過点だと言った。百億も通過点か」


「通過点だ」


「お前はどこまで走るんだ」


 隆志は窓の外の飛行機を見た。もう離陸している。小さな機体が青い空に上がっていく。エリックを乗せて。


「走れるところまで」


「また同じことを言う」


「同じだからだ。走る理由は変わっていない。みゆきの折り鶴がまだ千羽に届いていない。届くまでは止まらない」


「お前の娘は今、何羽だ」


「先週聞いたときは、六百五十羽」


「あと三百五十羽か。その間に、五百億まで行けるのか」


「やってみなければ分からない」


 サミュエルが鼻を鳴らした。いつもの音だ。呆れと信頼が半々の音。


「百億は祝わないのか」


「祝わない。通過点を祝う暇があったら、次の車を直す」


「……お前は本当に面白くない男だな」


「知ってる」


「だが、俺は嫌いじゃない」


 電話が切れた。


 隆志は空港を出て、赤土の道を工房に向かって歩き始めた。百億。数字としては巨大だ。だが、この数字の裏にあるのは、一台一台の整備と、一件一件の搬送と、一人一人の名前だ。ホワイトボードに書かれた名前。ユニフォームに刺繍された名前。記録に残された名前。百億円分の名前が、東アフリカの大地に刻まれている。


 工房に着くと、キプチルチルが車の下に潜っていた。足だけが見えている。オモンディの隣で、オイルパンのボルトを外している。油まみれの手が、慣れた動きでレンチを回している。三ヶ月前、椅子の汚れを気にしていた手と同じ手だ。


 ホワイトボードを見た。名前が並んでいる。サミュエル、オモンディ、エリック、キプチルチル、タカシ。五つの名前。明日からエリックの名前はカンパラのホワイトボードに書かれる。ナイロビには四つの名前が残る。だが記録は繋がっている。ナイロビからカンパラへ、カンパラからダルエスサラームへ。名前の連鎖が、東アフリカを横断している。


 百億は通過点だ。だが、通過点にも意味がある。ここまで走ってきた距離を示す標識だ。標識を見て、まだ先があることを確認し、また走り出す。


 隆志は作業服に着替え、車の下に潜った。キプチルチルの隣で、ボルトを締め始めた。百億円の経営者が、赤土の工房の床に寝転がって、オイルパンのボルトを締めている。


 それでいい。手を動かすことを忘れた経営者は、数字の奴隷になる。日本であれほど追いかけた数字に、もう支配はされない。数字は風だ。帆を張るのは人だ。


 ボルトが締まった。トルクレンチが規定値でカチンと鳴った。小さな音だが、正確な音。風鈴の音に似ている、と思った。

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