27話 試験
キプチルチル・ムワンギが工房に現れたのは、月曜の朝だった。
二十歳。父親のムワンギ議員とは似ていなかった。背は高いが、体が細い。肩幅が狭く、腕に筋肉がない。顔立ちは整っているが、目に力がなかった。何かに強い関心を持ったことのない人間の目。世界を見ているが、何も見ていない目。
服装は場違いだった。白いポロシャツに、きれいなジーンズ。革のスニーカー。整備工場に来る格好ではない。手は柔らかく、タコもなかった。工具を握ったことがないのは明白だった。
「キプチルチルです。父から聞いて来ました」
声は小さかった。面接を受けに来たというより、気乗りしない用事を済ませに来た態度だった。
隆志は工房の事務所に招き入れ、椅子を勧めた。キプチルチルは座る前に椅子の表面を手で拭った。油汚れを気にしている。エリックがその動作を見て、かすかに眉を動かした。
「ムワンギ議員から話は聞いている。うちの工房で働きたいと」
「父がそう言えと」
正直な答えだった。自分の意思ではなく、父親に言われて来た。それを隠さない。嘘をつく知恵がないのか、嘘をつく気もないのか。
「じゃあ、お前自身はどう思っている」
「正直、よく分かりません。車は好きですけど、直したことはない。大学は経済学部にいたんですけど、つまらなくて辞めました。今は……何もしてません」
「何もしていない二十歳が、何をしたいかも分からないまま来た」
「そうです」
エリックが工房の奥で工具を整理しながら、聞いている。オモンディは整備中の車の下から足だけ出して、黙っている。サミュエルは工房にいなかった。朝からウガンダの拠点に電話をかけている。
「うちでは、全員が試験を受ける。基礎的な整備知識、工具の扱い、安全管理。合格すれば採用。不合格なら研修期間を設けて再試験」
「試験……」
キプチルチルの顔が曇った。試験と聞いて怯む顔。大学を中退した人間にとって、試験という言葉は挫折の記憶と結びついている。
「今日受けるか。それとも準備してから来るか」
「準備って、何を」
「工具の名前を覚える。ボルトとナットの違いを知る。ジャッキの使い方を理解する。基本的なことだ」
「……今日、受けます。準備しても変わらないと思うので」
潔いのか、無気力なのか。だが、逃げなかった。それだけは認めた。
*
試験はエリックが作った。
筆記試験が十問。実技試験が三項目。隆志が「試験を用意しろ」と言ったとき、エリックは一晩で問題を作ってきた。手書きのA4用紙に、英語とスワヒリ語の二言語で。
筆記試験の内容は基礎的だった。
問一:エンジンの四つの行程を順番に書け。
問二:ブレーキの種類を二つ挙げ、それぞれの特徴を説明せよ。
問三:タイヤの溝の深さが安全基準を下回ると何が起きるか。
隆志はエリックの問題用紙を見て、少し驚いた。問題の内容が技術的に正確であるだけでなく、すべての問いが「安全」に結びついていた。エンジンの行程を知らなければ不調の原因が分からない。ブレーキの仕組みを知らなければ命を守れない。タイヤの溝が浅ければ、エリックの父のように死ぬ。
エリックにとって、この試験は知識の確認ではなかった。「命を預かる覚悟があるか」を問うているのだ。
キプチルチルは三十分で筆記試験を終えた。隆志とエリックが採点した。
十問中、正解は二問。エンジンの行程は一つしか書けず、ブレーキの種類は「ディスク」しか知らなかった。タイヤの問題には「パンクする」とだけ書いてあった。間違いではないが、本質を外している。溝が浅いとパンクするのではなく、排水ができずにハイドロプレーニングを起こし、制御不能になるのだ。
実技試験は三項目。
一、ジャッキで車を持ち上げ、タイヤを外す。
二、バッテリー端子を外し、清掃して取り付ける。
三、オイルのレベルを確認し、適正値を判断する。
キプチルチルはジャッキの使い方が分からなかった。ポンプ式のフロアジャッキを前にして、どこに手をかけるか迷っている。レバーを握ったが、力の入れ方が違う。ジャッキが車体の下で斜めになり、エリックが慌てて止めた。
「ストップ。そこにかけると車体が落ちます」
キプチルチルの顔が赤くなった。恥ずかしさと、怒りが混じっている。議員の息子が、十九歳の少年に止められた。プライドが傷ついた顔だった。
バッテリーの作業も、オイルの確認もできなかった。端子を外す順番を間違え(マイナスから外すべきところをプラスから外そうとした)、オイルのディップスティックの読み方も知らなかった。
結果は明白だった。
「不合格だ」
隆志が告げると、キプチルチルは黙って立っていた。怒りも、悲しみも、表に出さなかった。ただ、目が泳いでいた。議員の息子として、何事も頼めば通る世界で生きてきた人間が、初めて「落ちた」という経験をしている目だった。
「研修期間を設ける。二週間。エリックが教える。二週間後に再試験を受けろ」
「……分かりました」
キプチルチルが帰った後、エリックが言った。
「タカシさん。あの人、本気でやる気ありますか」
「分からない。だが、逃げなかった。今日受けると言って、受けた。不合格を告げられても、帰らなかった。それだけは事実だ」
「二週間で、教えられるかな」
「お前が二年かけて覚えたことを、二週間で教えろとは言わない。だが基礎はできるはずだ。お前は頭がいい。教え方も分かるだろう」
エリックは腕を組んだ。十九歳が、二十歳を教える。年下の、議員の息子でもない、裕福でもない整備士の少年が、議員の息子に工具の持ち方を教える。この国の力関係を考えれば、異常な構図だった。だがこの工房では、技術が年齢と家柄を超える。それがサクラモーターズの原則だった。
「やります」
*
二週間の研修は、エリックの工房で行われた。
初日。エリックはキプチルチルに作業服を渡した。
「ポロシャツじゃ仕事はできません。これを着てください」
キプチルチルは作業服を見つめた。油の染みが付いた、使い古しの服。エリックのお下がりだった。サイズは少し小さかったが、袖をまくれば腕は自由になる。
「これ、洗ってますか」
「洗ってます。でも油の染みは落ちません。整備士の服ですから」
キプチルチルは渋い顔をして着替えた。鏡を見て、自分の姿に戸惑っていた。議員の息子が、油染みの作業服を着ている。だが、エリックは何も言わなかった。同情も皮肉もなく、淡々と工具の名前を教え始めた。
「これがラチェットレンチ。ボルトを回すときに使います。右に回すと締まる。左に回すと緩む」
二日目。ジャッキの使い方。ジャッキポイントの位置。車体を持ち上げる前に、必ずパーキングブレーキをかけ、対角のタイヤに輪止めを噛ませる。手順を省けば車が落ちる。車が落ちれば下にいる人間が死ぬ。
「死ぬ?」
「死にます。工房の事故で死んだ人を、俺は知っています」
エリックの声には抑揚がなかった。事実を述べているだけだ。だがその事実の重さが、キプチルチルの目を変えた。ジャッキのレバーを握る手に、初めて力が入った。
三日目。バッテリーの取り扱い。マイナスから外し、プラスから付ける。順番を間違えるとショートする。火花が散り、火災が起きる。最悪の場合、バッテリーが爆発する。
「爆発って、本当に?」
「本当です。去年、ナイロビの修理工場でバッテリーが爆発して、整備士が顔に火傷を負いました。順番を間違えただけで」
キプチルチルの顔から血の気が引いた。だが、翌日からバッテリーの作業を繰り返した。一回、二回、三回。十回目には、目を閉じていても正しい順番で外せるようになった。
四日目以降、キプチルチルは変わり始めた。朝、工房に来る時間が早くなった。作業服を自分で洗うようになった。油の染みが落ちないことを、もう気にしなくなった。手にタコができ始めた。エリックの指示を、メモを取りながら聞くようになった。
一週間が過ぎた頃、オモンディが初めてキプチルチルに声をかけた。
「レンチの持ち方、違う。こうだ」
オモンディが手本を見せた。それまで一言も話さなかったベテランが、手を差し伸べた。キプチルチルはオモンディの指の動きを真剣に見つめ、同じ動作を繰り返した。
十日目。キプチルチルが初めて一人で車のオイル交換を完了した。ドレンボルトを外し、古いオイルを抜き、新しいオイルを入れ、ディップスティックでレベルを確認する。一連の作業を、手順通りに、一つのミスもなくやり遂げた。
作業を終えたキプチルチルは、油まみれの手を見つめた。爪の間に黒い油が入り込んでいる。一週間前なら嫌悪したであろうその手を、キプチルチルは不思議そうに眺めていた。
「エリック」
「はい」
「この手、父に見せたら何て言うかな」
「さあ。でも、その手はオイル交換ができる手です。一週間前は何もできなかった。それは事実です」
キプチルチルは笑った。初めて見る笑顔だった。力のない目をしていた青年の顔に、小さな光が灯っていた。
*
再試験は、二週間後の月曜日に行われた。
筆記試験。十問中、八問正解。エンジンの四行程を正確に書き、ブレーキの種類を二つ挙げ、タイヤの溝の安全基準を数値で答えた。残りの二問は応用問題で、間違えたが惜しい答えだった。
実技試験。ジャッキで車を持ち上げ、タイヤを外し、再び取り付ける。手順通り、安全確認を入れながら。バッテリー端子の取り外しと取り付け。マイナスから外し、プラスから付ける。目を閉じていてもできる手つきだった。オイルのレベル確認も問題なし。
三項目すべてを、制限時間内にクリアした。
「合格だ」
隆志が言うと、キプチルチルは直立不動のまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言う相手が違う」
隆志はエリックを指さした。キプチルチルはエリックの前に立ち、手を差し出した。
「エリック。ありがとう。お前がいなかったら、俺はまだジャッキの使い方も知らなかった」
エリックはその手を握った。二週間前、油汚れの椅子を手で拭いた手が、今は油まみれの手で握手を求めている。
「キプチルチルさん。明日から、一緒に働きましょう」
「さん付けはやめてくれ。キプでいい」
「じゃあ、キプ。明日の朝は七時からです。遅刻したら、オモンディに怒られますよ」
オモンディが工房の奥から「当然だ」と低い声を出した。
キプチルチルが帰った後、隆志はムワンギに電話した。
「息子さん、合格しました」
電話の向こうで、ムワンギが長い沈黙の後に言った。
「……試験に受かったのか。あいつが」
「二週間の研修で、基礎を身につけました。筋はいい。根性もある。議員が言った通りだ」
「田中。正直に言う。あいつが試験に落ちたとき、お前を恨んだ。息子に恥をかかせたと思った。だが、二週間後に息子が家に帰ってきて、油まみれの手を見せて笑ったとき——」
ムワンギの声が震えた。政治家の声ではなかった。
「——あいつが笑ったのは、何年ぶりか分からない」
電話が切れた。
隆志は携帯をポケットにしまった。工房の壁のホワイトボードを見た。明日から、一行増える。キプチルチル・ムワンギ。議員の息子の名前が、整備士の名前として記録に残る。
エリックの名前の隣に、キプの名前が並ぶ。年齢も、家柄も、経験も違う。だがホワイトボードの上では、同じ一行だ。名前の重さは同じだ。
サミュエルが工房に戻ってきた。ホワイトボードを見て、新しい名前が増えることを察した。
「ムワンギの息子か」
「ああ。明日から来る」
「試験に受かったのか」
「受かった」
サミュエルは鼻を鳴らした。だが口元が緩んでいた。
「正しい馬鹿の工房に、また一人増えたな」
赤土の風が、工房の入口から吹き込んだ。ホワイトボードの紙が、かすかに揺れた。




