26話 初戦
ナイロビ・ライオンズの公式戦復帰が決まったのは、スポンサー契約から二ヶ月後だった。
ケニアのコミュニティリーグ。地域のクラブチームが集まるアマチュアリーグで、プロリーグへの直接の昇格はないが、地域の若者にとっては最も身近な舞台だった。年に二度のシーズン制で、前期リーグの登録締切にぎりぎり間に合った。
アシャが選手登録の書類を持って工房に来た。
「登録費が十五万シリング。あとは遠征費と、審判手当の分担金。全部合わせて二十万シリング」
「払う。だが、準備は間に合うのか」
「間に合わせます。初戦は三週間後。相手はキアンブ・ユナイテッド。去年のリーグ二位のチームです」
「いきなり強豪か」
「抽選ですから。でも、弱い相手と当たって勝つより、強い相手と当たって何かを掴む方がいい」
アシャの目に迷いはなかった。十五年間このクラブを支え続けてきた女性の目だった。兄の背番号を守り、スポンサーを探し、空気の抜けたボールで練習を続けてきた。今、新しいユニフォームと新しいスパイクがある。それだけで、アシャにとっては十分な武器だった。
三週間の準備期間。アシャは毎日練習メニューを組み、隆志はグラウンドの整備を手伝った。エリックも日曜ごとに来て、ゴールポストの溶接を補強した。パイプの接合部が弱く、強いシュートが当たると歪む。エリックは工房から溶接機を持ち込み、すべての接合部を二重に補強した。
「ゴールが壊れたら試合にならないですからね」
エリックは汗を拭きながら言った。整備士の手が、サッカーのゴールを直している。車も、ゴールも、壊れたものを直すという意味では同じだった。
練習を見ていて、隆志は一つ気づいた。ジェームズの走り方が変わっていた。
以前は直線的だった。ボールを持ったら真っ直ぐゴールに向かう。速さだけで勝負する走り方。だがスパイクを履いてから、足の使い方が変わった。裸足のときは地面を掴むように走っていた。スパイクの底が赤土を噛む感覚に慣れてきたジェームズは、方向転換が速くなった。右に切り返し、左に流れ、急停止してから一気に加速する。足裏の自由が、プレーの選択肢を広げていた。
サミュエルが練習を見に来たことがあった。柵の外に立ち、十分ほど眺めた後、隆志に言った。
「あの7番の子、いい足をしているな」
「ジェームズだ。裸足で走っていた子だよ」
「靴を買ってやったのか」
「スパイクだ。全員分」
「……お前は本当に馬鹿だな」
「知ってる」
サミュエルは鼻を鳴らし、工房に戻っていった。だが翌週の日曜には、サミュエルの息子ダニエルが練習に参加していた。九歳。まだクラブの正規メンバーではないが、アシャが「見学ならいつでも来て」と誘ったらしい。ダニエルは背が高く、足が長い。ゴールキーパーの素質がありそうだった。
サミュエルは何も言わなかった。だが、日曜の朝にダニエルを空き地まで送ってくるようになった。それがサミュエルなりの「付き合ってやる」の形だった。
*
初戦の日は、朝から晴れていた。
会場はナイロビ郊外の市営グラウンド。赤土ではなく、短く刈られた芝のピッチだった。選手たちが初めて芝の上に立ったとき、何人かが足元を見つめて動かなかった。赤土しか知らない足が、芝の柔らかさに戸惑っている。
「芝だ。本物の芝」
ジェームズが地面に手を触れた。緑の葉が指の間をすり抜ける。赤土のグラウンドでは、転べば膝が擦り切れ、血が出る。芝の上なら、転んでも痛くない。だが、足の裏が滑る。赤土を蹴る感覚とは違う。スパイクのスタッドが芝に食い込む感触を、試合前の十分で身につけなければならなかった。
対するキアンブ・ユナイテッドは、揃いのユニフォームに揃いのバッグ、揃いのウォーミングアップ。練習から統制が取れていた。コーチが二人付き、選手交代要員もベンチに六人いる。ナイロビ・ライオンズの交代要員は三人だけだった。
試合前、アシャがロッカールームで選手に話した。ロッカールームと言っても、グラウンド脇のプレハブ小屋だが。
「勝てとは言わない。走れ。最後まで走れ。それだけでいい。今日ここに立てていること自体が、半年前には不可能だった。ユニフォームがなかった。スパイクがなかった。ボールに空気がなかった。それが今、全部ある。これは奇跡じゃない。みんなが走り続けた結果だ」
選手たちは黙って聞いていた。ジェームズが7番のユニフォームの裾を握りしめていた。
隆志はスタンドにいた。コンクリートのベンチに腰を下ろし、ピッチを見下ろしている。隣にはエリックとオモンディが座っていた。サミュエルは来なかった。「サッカーは俺の仕事じゃない」と言った。だがダニエルは来ていた。アシャの横に座り、ピッチを食い入るように見つめている。
キックオフ。
最初の五分で、力の差は明白だった。
キアンブのパスワークが正確で、ライオンズの選手は追いかけるだけだった。中盤でボールを回され、サイドに振られ、クロスを上げられる。ゴールキーパーのダビデが二本のシュートを止めたが、三本目は止められなかった。前半十五分、0-1。
失点の瞬間、ライオンズの選手たちの足が一瞬止まった。うつむく者がいた。空を見上げる者がいた。試合に慣れていないチームの反応だった。練習試合と公式戦では、ゴールネットが揺れる音の重さが違う。
だがジェームズだけは走り続けていた。失点直後にセンターサークルに戻り、キックオフを待っていた。背番号7が、チームで最初に前を向いた。
二十分、0-2。中央からのミドルシュート。ダビデが反応したが、ボールはグローブの先をかすめてゴールに吸い込まれた。ダビデが地面を叩いた。
三十分、0-3。右サイドからのクロスにヘディングで合わされた。完璧な崩し。ライオンズの守備は、対応の仕方すら分からないまま三点を失った。
ハーフタイムまでに三点を失った。ライオンズの選手たちは肩で息をしていた。芝に慣れていない足が、無駄にエネルギーを消費している。何人かは膝に手をつき、顔を上げられずにいた。キアンブの選手は涼しい顔で水を飲んでいる。ベンチの控え選手がストレッチをしながら笑っている。余裕の笑みだった。
ハーフタイムにアシャがピッチサイドで話した。
「後半、点を取りに行く。守るな。失点は気にするな。守って0-3で負けるより、攻めて3-6で負ける方がいい。一点でも取れれば、今日は勝ちだ」
選手たちの目が変わった。守りの恐怖から、攻めの覚悟へ。何かを失う怖さより、何かを掴みに行く意志。アシャはそれを三十秒の言葉で引き出した。
後半が始まった。
ライオンズは前がかりになった。守備は崩れ、カウンターで四点目を取られた。0-4。スタンドのわずかな観客が、もう興味を失いかけていた。だが、ピッチの上の赤と黒は止まらなかった。
後半二十分。中盤のサイモンがジェームズにスルーパスを出した。練習で何十回も合わせたコンビネーション。赤土の上では途中で止まっていたパスが、芝の上では滑るように転がった。ジェームズが追いつき、右サイドからドリブルで中央に切り込んだ。芝の上での切り返しにようやく体が慣れてきた。スパイクのスタッドが芝を掴む感触を、足が覚え始めている。
キアンブのセンターバックが二人、壁のように立ちはだかった。体格差は歴然だった。だがジェームズの目にはゴールしか映っていなかった。裸足で赤土を蹴っていたときと同じ目。恐怖がない。計算もない。ただ、ゴールに向かう意志だけがある。
右足を振り抜いた。低い弾道のシュートがディフェンダーの足の間を抜け、ゴールキーパーの指先をかすめ、ネットを揺らした。
1-4。
スタンドからエリックが立ち上がった。オモンディも立った。ダニエルが飛び跳ねた。隆志は座ったまま、拳を握っていた。
ジェームズは仲間に抱きつかれていた。赤と黒のユニフォームが絡み合い、背番号7が見え隠れしている。ジェームズの目は涙で光っていた。だがすぐに涙を拭い、自陣に走り戻った。試合はまだ終わっていない。
結果は2-5だった。後半にもう一点を追加したが、カウンターで一点を返された。大敗と言っていい。だが最後まで走り続けた。後半四十五分、足を止めた選手は一人もいなかった。
試合後、ピッチの上で選手たちが円陣を組んだ。アシャが中央に立った。
「負けた。でも、二点取った。ゼロじゃない。半年前、空気の抜けたボールを蹴っていたチームが、リーグ二位のチームから二点を取った。これは事実だ。事実は誰にも否定できない」
選手たちが顔を上げた。悔しさと、かすかな誇りが混ざった顔。敗北の中にある手応え。それを掴めるかどうかが、次に繋がるかどうかを決める。
隆志はスタンドからピッチを見下ろしていた。赤と黒のユニフォームが、緑の芝の上に散らばっている。胸のSAKURA MOTORSのロゴが、午後の陽光に浮かんでいる。
負けた。だが、走った。最後まで。
隆志は自分の一年半を思い出していた。リストラされた。百社に落ちた。ケニアに来た。石を投げられた。炎上した。札束を突きつけられた。コロナに見舞われた。そのたびに、負けた。だが走り続けた。止まらなかった。止まれなかった。折り鶴があったから。風鈴の音があったから。エリックの言葉があったから。
この子たちにも、走り続ける理由がある。7番のユニフォーム。SAKURA MOTORSのロゴ。新しいスパイク。そしてアシャの声。
帰りの車の中で、エリックが言った。
「タカシさん。負けましたね」
「ああ、負けた」
「でも、あの7番の子のゴール。あれは本物でしたね」
「本物だった」
「もう一回見たいです。今度は勝つところを」
隆志はハンドルを握りながら笑った。
「俺もだ」
赤土の道を、白いハイエースが走っていく。日曜の夕暮れ。空が赤い。ケニアの夕焼けは毎日同じ色だが、今日の赤は少しだけ明るく見えた。
負けた日の夜、隆志は智子にメッセージを送った。
〈サッカーの試合、2-5で負けた。でも、いい試合だった〉
返信は翌朝来た。
〈みゆきが言ってる。「負けても走ったなら、それは負けじゃない」って〉
八歳の娘の言葉が、四十歳の男の胸に響いた。みゆきは病室のベッドで、走ることができない。だから、走る人を応援する。走り続ける人を、折り鶴で応援する。
ポケットの中で、四羽の鶴が揺れていた。




