25話 二十二人の名前
アシャがなぜサッカークラブに関わっているのか、隆志が知ったのはスポンサー契約の書類を交わした日の夜だった。
工房の事務所で契約書にサインした後、アシャが自分からコーヒーを淹れた。インスタントの安い粉を、お湯で溶かしただけのもの。砂糖をたっぷり入れるケニア式。隆志はもうこの甘さに慣れていた。
「田中さん。一つ聞いてもいいですか」
「何だ」
「なぜ、スパイクを一番に言ったんですか。ユニフォームでも、ボールでもなく」
「裸足で走っていた少年がいた。足から血が出ていた。あれを見て、放っておけなかった」
アシャはコーヒーのカップを両手で包み、しばらく黙っていた。
「あの子はジェームズ。十四歳。母子家庭で、兄が二人。上の兄は三年前にギャングに入って、今はナイロビのスラムにいる。下の兄は去年、交通事故で足を失った。事故車に轢かれて」
事故車。その言葉に、隆志の背筋が伸びた。
「整備されていない車だった。ブレーキが利かなくて、交差点で止まれなかった。ジェームズの兄は道を渡っていただけ。右足の膝から下を切断した。十六歳で」
アシャの声は平坦だったが、指がカップを強く握っていた。
「ジェームズがクラブに来たのは、兄の事故の直後です。何も言わずに練習に来て、黙々と走り始めた。最初はボールに触ろうともしなかった。ただ走るだけ。毎日、毎日。雨の日も、猛暑の日も。一ヶ月くらいそれが続いた後、初めてボールを蹴った」
「走ることで、何かを振り払おうとしていたのか」
「そうだと思います。怒りか、悲しみか、無力感か。走ることでしか処理できないものがあったんだと思います」
アシャはカップを置いた。
「私がこのクラブに関わっている理由は、ジェームズと同じです。私にも兄がいました。サッカー選手を目指していた兄。十七歳のとき、練習の帰りに車に轢かれて死にました。二〇〇五年。私は十二歳だった」
十二歳。エリックが父を失った年齢と同じだった。
「兄が練習していたのが、このクラブです。ナイロビ・ライオンズ。兄の背番号は7。兄が死んだ後、7番は誰もつけなくなった。今でも空き番号です」
アシャの目が、工房の壁に掛かったホワイトボードに向いた。整備記録。日付と名前が並んでいる。
「田中さんが名前を記録に残すのと同じです。兄の名前は、クラブの記録に残っています。設立からの全選手名簿に、ジョセフ・ワンジクと。それが、兄がこの世界にいた証です。だから私はこのクラブを潰したくない。兄の名前が消えるから」
名前が残る。エリックの父の名前はどこにも残らなかった。アシャの兄の名前は、クラブの名簿に残っている。名前が残るということは、存在が証明されるということだ。記録されない命は、いなかったことにされる。記録される命は、死んだ後も誰かの記憶を動かし続ける。
「アシャ。兄さんの背番号7、ジェームズにつけさせたらどうだ」
アシャの目が大きくなった。
「……いいんですか」
「お前が決めることだ。だが、空き番号のままより、走っている人間がつけた方が、兄さんも嬉しいんじゃないか」
アシャは何も言わなかった。だが、目が潤んでいた。コーヒーのカップを手に取り、一口飲み、深く息を吐いた。
「考えます」
*
ユニフォームが届いたのは、三週間後だった。
ナイロビの縫製工場に発注した。赤と黒のストライプ。胸に「SAKURA MOTORS」のロゴ。背中には選手の名前と背番号。二十二着。一着ずつ、名前が刺繍されている。
発注前に、アシャと隆志は選手全員の名前のスペルを一人ずつ確認した。スワヒリ語の名前は、英語表記にするとき綴りが揺れることがある。「間違った名前のユニフォームは着せたくない」と隆志が言うと、アシャは驚いた顔をした。「名前を正確に刺繍するなんて、考えたこともなかった」と。だが隆志にとっては当然のことだった。工房のホワイトボードに名前を記録するとき、エリックの姓を一文字一文字確認したのと同じだ。名前は正確でなければ意味がない。間違った名前は、その人を半分しか表さない。
デザインはエリックが手伝った。パソコンのスプレッドシートで選手名簿を管理していたエリックが、ロゴの配置と背番号のフォントまで提案してきた。「胸のロゴは左寄せの方がバランスがいいです。背番号は大きめに。観客席から見えるように」。観客席。まだ存在しないものを想定している。エリックの目は、いつも少し先を見ていた。
工房の前の空き地に、選手たちが集まった。日曜の朝。いつもの練習時間。だが今日は練習の前に、ユニフォームの配布がある。空気が違っていた。選手たちの目が光っている。私服で来た者、古いユニフォームで来た者、それぞれが落ち着かない様子で段ボール箱を見つめていた。
隆志は段ボール箱を開け、一着ずつ手渡した。
「ダビデ・オチエン。背番号1」
ゴールキーパーの長身の青年が、ユニフォームを受け取った。広げて胸のロゴを見つめ、裏返して自分の名前を確認し、顔を輝かせた。
「ピーター・キプロノ。背番号3」
「サイモン・オモンディ。背番号5」
一人ずつ名前を呼び、手渡していく。どの選手も、自分の名前が刺繍されたユニフォームを、宝物を受け取るように大事に持った。背中の名前を指でなぞる者。匂いを嗅ぐ者。頭からかぶって走り出す者。
二十二人目。
「ジェームズ・ムトゥア。背番号——」
隆志は一瞬間を置いた。アシャを見た。アシャは小さく頷いた。
「背番号7」
ジェームズが前に出た。裸足のフォワード。今日はスパイクを履いている。昨日届いたばかりの、ナイキの黒いスパイク。サイズは少し大きいが、紐をきつく結んで足に合わせていた。
ジェームズはユニフォームを受け取り、背中の数字を見た。7。赤い布地の上に、白い数字。その下に「J. MUTUA」の文字。
「7番……」
ジェームズはアシャを見た。アシャの目が潤んでいる。ジェームズは7番の意味を知っていた。クラブの古参メンバーなら、誰でも知っている。誰もつけなかった番号。アシャの兄の番号。空き番号として十八年間、ずっと待っていた番号。
「ジェームズ。走れ。兄さんの分も」
アシャが言った。声は震えていたが、笑っていた。泣きながら笑うという矛盾を、そのまま顔に載せていた。
ジェームズは頷いた。ユニフォームを頭からかぶり、裾を引っ張って整えた。赤と黒のストライプが、朝の陽光に映えた。スパイクの紐をもう一度結び直し、地面を一度踏みしめた。新しいスパイクの底が、赤土を掴む感触を確かめるように。先週まで裸足で血を流しながら走っていた足が、今は黒いスパイクに守られている。
背番号7が、赤土のグラウンドに立った。
練習が始まった。二十二人が新しいユニフォームで走っている。赤と黒の群れが、赤土の上を流れていく。胸のSAKURA MOTORSのロゴが、動くたびにちらちらと見える。パスの精度が、いつもより高い。ユニフォームが走り方を変えたのではない。名前を背負った自覚が、プレーを変えたのだ。自分の名前が刺繍された服を着て、適当なプレーはできない。
隆志は柵の外に立ち、腕を組んで見ていた。エリックが隣に来た。
「タカシさん。ユニフォームの背中、全員の名前が入ってますね」
「ああ」
「工房のホワイトボードと同じだ。名前が残る」
エリックは笑った。十九歳の、大人になりかけた笑顔だった。
グラウンドの向こうで、ジェームズが右足を振り抜いた。ボールはゴールネットを揺らした。新しいネット。新しいボール。新しいスパイク。そして、誰かから受け継いだ7番。
アシャが歓声を上げた。選手たちがジェームズに駆け寄り、抱き合った。赤と黒のユニフォームが、朝日の中で絡み合っている。
車は命を運ぶ。サッカーは夢を運ぶ。名前は存在を運ぶ。
すべては風だ。見えないが、確かに人を押している。
隆志はポケットの折り鶴に触れた。四羽。「げんき」「がんばれ」「いってらっしゃい」「いのち」。みゆきの千羽鶴は、今ごろ何羽になっただろう。
次の電話で、聞いてみよう。




