24話 赤と黒
サッカーボールが、工房の塀を越えて飛んできたのは日曜の午後だった。
隆志がハイエースのオイル交換を終えて手を拭いていると、赤土の上を転がる白黒のボールが足元に来た。表面のパネルが剥がれかけ、空気も半分抜けている。拾い上げると、塀の向こうから声がした。
「すみません、ボールを返してもらえますか」
女性の声だった。塀の隙間から顔が覗いている。三十代前半。短く刈り込んだ髪。日焼けした肌に、大きな目。声にはっきりした力がある。
隆志はボールを塀越しに投げ返した。
「ありがとうございます。あなた、サクラモーターズの人?」
「そうだ」
「私はアシャ・ワンジク。隣の空き地でサッカーの練習をしています」
塀の向こうを覗くと、空き地に十数人の若者がいた。赤と黒のユニフォームを着ている。だがユニフォームは色褪せ、サイズもばらばらだった。ゴールはパイプを溶接した手製のもので、ネットの代わりにビニールシートが張ってある。
「クラブチームか」
「ナイロビ・ライオンズ。この地域のコミュニティクラブです。十五年前に設立されて、地元の若者に無料でサッカーを教えています」
アシャは塀の外に回ってきた。スポーツウェアに草の汚れが付いている。コーチを兼ねているようだ。
「クラブの状況は?」
「率直に言うと、瀕死です」
アシャの声に力があるのは、明るさではなく、必死さだった。
「スポンサーが去年撤退して、活動費がゼロ。グラウンドは地主から無償で借りていますが、いつ返せと言われるか分からない。ユニフォームは五年前のもの。ボールは三個しかなくて、全部空気が抜けている。遠征費が出せないから、ホームの試合しかできない」
「選手は?」
「登録は二十二人。だけど練習に来るのは十五人くらい。仕事が見つかった子は来なくなる。仕事を失った子が戻ってくる。その繰り返しです」
仕事が見つかれば去り、失えば戻る。工房と同じだった。ジュマもピーターも、生活のために去った。このクラブの若者たちも、同じ力に引っ張られている。
「入って見ていきませんか。今日は紅白戦をやっています」
断る理由はなかった。時間はある。好奇心もあった。
空き地に足を踏み入れると、赤土が靴の底にまとわりついた。グラウンドと呼ぶには荒れすぎていた。石ころが転がり、雑草が生え、ところどころ水たまりの跡が窪んでいる。だがラインは白い粉で引かれ、ゴールの前だけは丁寧に整地されていた。誰かが、この場所を大切にしている。
紅白戦が始まった。赤チームと黒チームに分かれ、ボールを追いかける。技術は高くない。パスが繋がらず、シュートは枠を外れる。だが走る。全力で、赤土の上を走る。転んでも起き上がり、また走る。
赤チームの左サイドに、ひときわ小柄な少年がいた。十四か十五歳。他の選手より頭一つ低い。だが足が速い。ボールが来ると、重心を低くして一気に加速する。赤土を蹴る足は裸足だった。スパイクがないのだ。それでも走る。石を踏み、泥を蹴り、裸の足裏で赤土を掴むように走る。
隆志は柵の外に立ち、見ていた。
十代の少年たちが、擦り切れたユニフォームで走っている。空気の抜けたボールを蹴っている。ゴールが決まると、全員が抱き合って叫ぶ。相手チームのゴールキーパーが悔しそうに地面を叩く。仲間が肩を叩いて慰める。観客はいない。スタンドもない。赤土のグラウンドと、手製のゴールと、空気の抜けたボール。それだけの場所で、少年たちは世界の中心にいるかのように走っている。
その光景が、隆志の中の何かに触れた。
走る。転ぶ。起き上がる。また走る。それは、隆志がこの一年間やってきたことと同じだった。リストラされ、百社に落ち、ケニアに来て、黒田に妨害され、炎上し、コロナに見舞われ、札束を突きつけられ——それでも走り続けた。走ることそのものに意味がある。結果ではなく、走り続ける姿勢に。
ハーフタイムにアシャが戻ってきた。水のボトルを選手に配りながら、隆志の横に座った。
「どうですか」
「うまくはない」
「そうですね。うまくはない。でも——」
「目がいい」
アシャが驚いた顔をした。
「あの子たちの目。ボールを追っているときの目。あれは本物だ。技術は教えればいい。だが、あの目は教えられない」
アシャは黙って頷いた。目が潤んでいた。普段は気丈に振る舞っているが、クラブのことを本気で心配している人間の顔だった。
「このクラブは、地域の誇りなんです。ここでサッカーを覚えた子が、まともな仕事に就いた例がいくつもある。クラブがなくなれば、この子たちの居場所がなくなる。居場所がなくなれば、犯罪に走る子もいる」
居場所。エリックが工房で見つけたもの。隆志がケニアで見つけたもの。みゆきが折り紙に見つけたもの。人は居場所がなければ走れない。走る場所がなければ、転んだ後に起き上がれない。
後半が始まった。赤チームのフォワードが、ドリブルで三人を抜いた。前半で見た裸足の少年だった。ハーフタイムの間も走り続けていたのか、額の汗が首筋まで流れている。右足の小指から血が出ていた。石を踏んだのだろう。だが走る。痛みを顔に出さず、ボールだけを見て走る。
ディフェンダーが追いすがる。体格では倍近い差がある。だが少年は重心を沈め、一瞬のフェイントで相手を外した。ゴール前、五メートル。右足を振り抜いた。裸足の甲がボールを捉える。
ボールは手製のゴールのパイプに当たり、甲高い金属音を立てて跳ね返った。入らなかった。少年は悔しそうに空を見上げ、唇を噛んだ。だが三秒後には走り出していた。次のプレーへ。振り返らない。血の出ている足で、また赤土を蹴る。
隆志は、その少年の目を見た。ボールを追うまっすぐな目。失敗しても次に向かう目。みゆきの目と同じだった。病室のベッドで、酸素マスクの向こうから笑う目。折り鶴を折る真剣な目。「パパ、アフリカの人も助けてね」と言った目。
試合が終わった後、隆志はアシャに言った。
「スポンサーの話、もう少し聞かせてくれ」
「本気ですか」
「本気かどうかは分からない。だが話は聞く」
アシャは工房の事務所に来て、クラブの財務状況を説明した。年間の活動費は百万シリング程度。ユニフォーム、ボール、遠征費、グラウンドの整備費。日本円にすれば百万円ほど。サクラモーターズの月間売上からすれば、微々たる額だった。
「ただし」とアシャは付け加えた。「本気でやるなら、もっと必要です。スパイク、練習着、ゴールネット、医療キット。遠征に出るならバスのチャーター代。それから、選手の栄養管理。うちの子たちは朝ご飯を食べないで練習に来る子もいる。空腹で走っている」
空腹で走る。隆志もケニアに来て間もない頃、一日一食で過ごした。空腹の中で工具を握り、車の下に潜った。腹が減っているときの集中力は、長くは持たない。体が先に音を上げる。あの少年たちが空腹で走っているなら、裸足よりもそちらの方が深刻だった。
だがサミュエルに相談すると、予想通りの反応だった。
「車は命を運ぶ。それはいい。だがサッカーは何を運ぶ?」
「夢を運ぶ」
「夢で腹は膨れない」
「膨れない。だが、夢のない場所に人は留まらない。エリックが工房に残ったのは、整備の仕事に誇りを見つけたからだ。あの子たちがサッカーに誇りを見つければ、地域に残る。地域に若者が残れば、工房の人材も確保できる」
サミュエルは腕を組んだ。
「お前はいつも理屈をつけるな。本当は、あの子たちの目を見て、放っておけなくなっただけだろう」
「……否定はしない」
「馬鹿だ」
「知ってる」
サミュエルは鼻を鳴らした。だが、口元が緩んでいた。
「やるなら中途半端にやるな。スポンサーになるなら、ユニフォームにサクラモーターズのロゴを入れろ。宣伝にもなる。あと、選手の移動には工房の車を出す。整備の実地訓練にもなる」
「お前、反対じゃなかったのか」
「反対していない。馬鹿だと言っただけだ。正しい馬鹿なら、付き合ってやる」
その夜、隆志はアシャに電話した。
「スポンサーを引き受ける。条件は一つ。選手全員にスパイクを買う。裸足で走らせるな」
電話の向こうで、アシャが息を呑んだ。数秒の沈黙の後、小さく「ありがとうございます」と言った。声が震えていた。
隆志は窓の外を見た。ナイロビの夜空に、星が瞬いている。
車は命を運ぶ。サッカーは夢を運ぶ。どちらも、人を動かす風だ。
風は見えない。だが確かに、何かを押している。




